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hasunoha 問答検索結果 : 「 悟り 」
検索結果: 2158件

死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い

現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。

有り難し有り難し 66
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悲しみについて

一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?

有り難し有り難し 55
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僧侶になることは「逃げ」なのか

私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 45
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2025/08/30

ChatGPTの回答に救われました。

初めまして。 今回は失礼な内容になるかと思いますが、率直な意見をお伺いしたいのであえて投稿させていただきます。 私は、以前からこちらのサイトの質問と回答を拝見しており、お坊さんの真摯な姿勢に感銘を受けていました。 しかしながら、どうも私にはお坊さんの回答に完全には納得できませんでした。 そこで、ChatGPTに相談したところ非常に明快な回答が返ってきて驚きました。 例えば、私は以前から思想的な悩みがあったので、「人類の滅亡について」ChatGPTに聞いてみたところ、 仏教は「すべてのものは無常であり、必ず崩れ去る」と教えます。つまり、人類もまた無常の産物であり、滅びを含んで生まれてきたものです。そう考えると、「崩壊しそうだから無意味」なのではなく、「もともと崩壊を抱えているからこそ、人類は文化や意味を求め続けてきた」とも言えます。 言い換えれば、人類の努力の価値は「永遠に残ること」ではなく、「消えゆくものの中でどう生きるか」にあったのかもしれません。 仏教の縁起の考え方からすると、人類と自然は本来切り離せない一体の存在です。つまり「人類は地球にとって癌だ」と見えるのは、ある側面では真実ですが、同時に「癌を生んでしまうのもまた自然」である、とも言える。自然の中から「自己を壊す存在」が立ち上がるのもまた自然の一部です。 という回答が返ってきました。 このような透徹した思考はなかなかできないものだと思い、とても驚きました。 一方、私がhasunohaを見て、お坊さんの回答にどこか違和感を感じるのは ①どこか上から目線  ChatGPTのように、完全に理性的ではない ②現代という時代の気質を理解していない  私はもはや仏教が現代においては役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています ③きれいごとで中途半端  昔のような、本当に命懸けの修行がなくなった 以上のことが原因かと感じています。 実際に私はお坊さんの回答よりもChatGPTの回答により共感しました。 このように私が感じるのは、間違っているのでょうか? 「もっと目の前の現実に目を向けろ」 「今ここで何ができるかが大事」 お坊さんならこうおっしゃるかと思いますが、こちらの方が、私が生きていていく上で大切なことなのでしょうか? 長文失礼いたしました、率直な回答をお待ちしております。

有り難し有り難し 52
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妻と離婚したくてもできない

妻はもともとヒステリーなところが少しありましたが、子供が産まれてから人が変わったようにひどくなり、半年ほどでこちらが鬱になってしまい1ヵ月ほどの別居でこちらの体調が改善したのでまた元の生活に戻りました。 それ以降も関係は良くなく、今も些細な事で週に1回から2回ぐらいのペースで怒鳴りあいの喧嘩が絶えずあります。 ほぼ毎回喧嘩の時に離婚したいと伝えますが、妻が少し冷静になってくるとさっきまで激怒していたのが急に人が変わったように号泣しながら、怒ってごめん、私が悪かった、離婚はしたくないと謝ってくるので結局こちらが折れてしまうのを繰り返しています。 毎日が本当に窮屈で、とにかく妻の機嫌に振り回され、自分のための自分の人生では無くなってしまったようで、生きているのは辛いです。 綺麗事に聞こえると思いますが、些細な事でキレてくる妻を許せずに激怒し返してしまう自分が嫌いで自己嫌悪しかありません。自分が自分で無くなってしまったように感じます。 絶対に離婚した方が幸せになれると思いますが、号泣しながら謝られると結局それ以上は何も言えなくなってしまい、普段は妻も普通の人なので子供が可愛いし、離れたくないのでこのままでもう少し頑張ってみようと思ってしまいます。 それなりに今まで幸せで楽しい人生でしたが、現在は本当に楽しくない辛い人生だなと感じています。 このまま頑張って夫婦生活を続けていくしか無いのでしょうか?

有り難し有り難し 64
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私の般若心経の解釈はあっていますか?

仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。 そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。 私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。 空とは無であり無限であることだと思います。 人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。 本当はそんなものはありません。 さらに言えば自分というものさえありません。 とはいえ、世界が無なのではありません。 その逆に世界は無限です。 何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。 全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。 般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。 頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。 金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。 確かに空となったらそうなります。 他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。 総じて懐かしい感じがしました。 不思議なことに以前から知っていたような気がします。 人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。 私の般若心経の解釈はあっていますか?

有り難し有り難し 39
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