死への恐怖について。 こんにちわ現在中学3年生の男子です。 まだまだ人生経験が浅いのに対してこんな事を言うのもあれなんですが、、、 いずれ自分にも必ず訪れる「死」がとても怖いのです。 この恐怖については色々なタイプな恐怖があるそうですが、自分の場合は「自我の喪失」など「永遠の無」への恐怖です。 まだまだ何も分からないのですが本来仏教では浄土も輪廻も釈迦は無記と称していると耳にしたことがあります。 とは言ってもまだ何の証明もされていないので死後がある可能性も0%ではないと思います。 まだこのように思い今後の人生を生きていけたら良いのですが、 「何時か科学で死後は永遠の無だと証明されてしまったらどうしよう。もしそうなってしまったのなら僕はもう生きていけない。」 と思うことがあります。 この原因は自分自身にあります。 死が怖いと言って、心の中だけで留めておいたら良かったもののネットで色々(科学や哲学など)調べてしまったりしたので、余計こういった恐怖が煽られてしまったのかもしれません。 つまり簡潔にまとめると ・永遠の無、自我の消失への恐怖 ・いつか科学などで死後が永遠の無だと証明されてしまうかもしれない恐怖 ・生きる意味がみつからない です。 長い文章になってしまって大変申し訳ございません。 そして質問はどうしたらこの恐怖を取り除くことができますか?です。 ご回答よろしくお願い致します。
私は現在生後4ヶ月の娘を育てている新米ママです。 妊娠中の悪阻は産後の今も治ることなく毎日苦しいです。つわりが苦しすぎで馬鹿な考えだと思いますが、自殺を考えてしまう程です。 精神疾患もあり、どうしても1度悩み始めると抜け出せず、自殺を考えてしまうのです。 また、なにかこの悪阻は本当は病気なのではないかと考えると私はその病気にちゃんと立ち向かえる自信がありません。毎日辛い治療はいやです。 なにもかも辛いこと考えると自殺を考えてしまいがちなのですが、死ぬのが怖くてたまりません。 死後の世界はホントにあるのでしょうか。 虚言癖が私にはあり、地獄行きだと考えると怖くて仕方ありません。 最近、大切な叔父さんがなくなり余計に死後の世界に不安を抱いています。 言葉にまとまりがなく申し訳ありません。
生まれ変わりはあるのでしょうか? 私はあると信じています。 死後の魂は、修行を積みながら、そのうち生まれ変わるものと理解していますが、本人が希望するなら、希望の特定の人間に生まれ変わることはできるのでしょうか?それとも生まれ変わり先は選べないのでしょうか? 生まれ変わるまでの期間は、人間界でいうと何年ほどなのでしょうか? 教えていただけますと嬉しいです。 何度もすみませんがよろしくお願いします。
なんで人は辛いことがあるのに生きていけるのでしょうか。その先にたとえ楽しいことがあったとしても、辛いことが1つでもあるなら生きたくないです。極度のめんどくさがりなのでしょうか。 さっさと死にたいのですが、私を一人で育ててくれた父が泣く姿を想像すると可哀想だ思います。まあその父の昔のネグレクトがこんな歪んだ性格にさせたのかもしれませんが。 めんどくさいです。夢もないし勉強はめんどくさいし夏は暑いし冬は寒い、それだけで自殺しちゃダメですか? 命は大切だとか与えられたものだとかそういうのも全く心に響かないし、死後の世界を見てみたい。ものすごく楽しい場所かもしれません。 特に悲しいことがあったわけじゃないけど、もうなんか生きられないです。
私は最近になって歳を取るのが怖くなりました。 日本人の多くが70から80まで生きますし、私の祖父、祖母もそのくらい生きています。家系としては長寿なほうで、 私が寿命を迎えるまで、あと50年から60年かかります。 人間の寿命が長すぎると感じるのは私だけではないみたいで、同じ年頃の同僚とも、4、50歳くらいで良いとか話したりします。 このまま健康でいられるわけでもないし、家族を先に無くすのも怖い。 生まれて来なければ楽だったのにと思ってしまう。 どうやって乗り越えたら良いのかまた分からなくなってきました。 人生楽しみたいけれど常に不安が付きまとう。生きてるのが辛い。 だけれど死ぬのも怖い。 本当かどうか分からないけれど、幽霊が見えるという友人が昔いて嘘をつくような子ではなかったから、そのときはああ、やっぱりいるのかなと思ったりもしたけれど、バカらしいけど死後も意識があるなら自分や周りの人間が死んだ後もどうなるとか。そんなことまで考えるようになりました。 完全におかしい。 おかしいんですが輪廻とか仏とかそういったものと日々接している僧侶の方の考えを聞きたいです。
今年1月に主人を亡くしました。 我が家に子供はおらず主人はひとりっ子で、主人のお骨は主人の両親が代々お世話になっているお寺に納骨しています。 主人の位牌は私の家と両親の家の2つあります。 主人の両親の死後は、主人と同じ場所に納骨し主人の位牌もまとめるそうです。 そこに私も死後は入るか?と聞かれているのですが… 主人の両親との折り合いが悪い訳ではないのですが、私の気持ちとしては結婚生活も短かったので、死後は主人と2人だけでどこかに入りたいのです。 ですが主人はひとりっ子ですし、主人も両親を好きでしたし一緒がいいだろうとは思ってます。 それでご相談なのですが、私の死後は私の手元にある位牌と、可能ならば分骨もして2人でどこかに別のお寺に入るというのはできるのでしょうか。 主人の両親は位牌や骨を分けると魂が分かれる、成仏できないんゃないかと思ってるようで反対されます。 分けると問題があるのか、分ける事が無理ならば2人で静かに死後過ごせる術がないかお知恵をお貸しください。
いつもお世話になっております。 また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。 私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか? 死後にお浄土に生まれさせて頂くため? 今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため? まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、 どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか? 良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
念仏を1度唱えるだけで死後の極楽は保証されますか? 唱えただけで悟りを開いたことになるのですか? 唱えても何も変わりませんが、これで救われたと言えるのでしょうか?
初めまして。 10代の頃から気持ちが落ちている時や寝る前に死や永遠について考えるようになりました。 そして先日祖母が老衰で近いうちに亡くなるかもしれない話を聞き最近では毎日考えています。 死んだら二度と会うことができないのがとてもとても悲しいです。 だから死後の世界が存在して欲しいと思います。 自分も死んだら亡くなった人と再会することができると考えれば少しは楽になるからです。 でも死後の世界で過ごすのもいつまで続くのかと怖くなります。 地球がなくなって太陽がなくなって宇宙がなくなってその後は…と。 そんな世界を見続けること、何もかもなくなってしまった後はどうなってしまうのか、わからなくて怖いです。 死んだら無になるという話を聞いたことがありますが、自分が消えるというのも怖いです。 亡くなった人と会えないことにもなります。 考えても考えても未知な世界なのでわからなくて、わからないから怖いのもあるかもしれません。 生きているからには必ず死が訪れるので、家族や友人、自分の死とも向き合わなければいけなくなります。 死は辛いです。 考えるだけで涙が出てきます。 だからといって永遠に生き続けるのも怖いです。 これから訪れるたくさんの死と生きている祖母の前で泣かない為にもどう向き合えば良いのか教えてください。 乱文失礼しました。
私は死後への不安があり、死ぬことが怖いです。 というのも自分自身、胸を張って良い人間であると言いきれない、むしろ性根の悪い人間だと自覚しているからです。 そういった人間は極楽浄土、所謂天国には行けないというイメージがあります。 私は昔は明るく元気でいつも人の輪の中心にいるような存在でした。困っている人には進んで助けになりたいと思っていました。 自分で言うのもなんですが、私は子供にしては人望もあり、正義感に溢れていて、またそんな自分の事が好きでした。 ですがいつの間にか堕落し、人と対面するのが苦手で、目を見れない、自分をよく見せようと虚言癖がある、大切だったはずの存在を傷付けて、楽な方へ逃げて逃げて孤独になり今の私はいます。 自分の事が大嫌いになりました。私には人には見せられないどす黒い心があります。 そんな私がこれから何か頑張れば贖罪になるのか、そして何か得る物はあるのか、過去の過ちから死後の行先は地獄なのだろうかと。とても不安にかられます。 今になって思えば善い行いだと、人助けだと思っていたことも自己満足でありもしかすると自分の行動に自惚れていただけなのかもしれないと思います。 こんな私は極楽浄土に行く事ができるのでしょうか?独りになった今遠い先の答えだけが不安です。 人生に安心が欲しいんです。 元々あまりスピリチュアルな事は考えた事は無いのですが、今は極楽浄土に行きたくてお寺で南無阿弥陀と唱えてみたりもしましたが、自分の中での不安は消えません。 簡単な答えでも構いません。どうすれば死後、極楽浄土、天国に行けますか?また、どうすれば過去の過ちを許されるのでしょうか? ご回答お願い致します。
高校3年生です。 僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。 人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。 「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。 しかし、ある疑問が出てしまったんです。 僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。 それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。 お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。 ならば、死んで「無」であったとしたら、 「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。 お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
毎日死について考えてしまいます。 死にたいという考えではなく、いつか来る死について不安で不安でしょうがなく頭の中で色々と考えてしまいネットなどからそういう関連のサイトを調べすぎてもっと不安になってしまっています。今では自分でコントロールできなくなってしまいました。文章では書ききれないので箇条書きで今自分の頭の中にある考えを書きます。 ・テレビやネットでの年齢を見ると将来この歳になりたくないなと、絶対なるのにも関わらず考えてしまう。 ・いつかは死ぬとわかっていても死にたくないと思ってしまう。 ・死後の世界がどうなっているのか、自我意識はあるのか、仮に生まれ変わりがあったとして自分が自分じゃなくなるのではないかと思ってもし、死後の世界がなく何も感じられなかったらと思うと不安と焦りが出てしまう。 ・自分はなんなのか、この体は本当に自分なのかという疑問。 この4つでどうしようもなくなりネットなどで調べて安心しようとするも信じていいのかわからずこのループに陥ってしまっています。 この事を家族に相談をしても「暇だからそう考えるんだろ」と言われるだけで考えないようにしようとしていてもふと、考えてしまいまたループに陥ってしまい焦りや不安、そしてパニックになってしまいます。先の将来、死後の世界が判明するのではないかとネットで書かれていたのですが本当なのかどうか本当にあるのかそれとも無で何も感じられなくなるのか、4つの考えのループから抜け出すのにはどうすればいいのか、身体や私生活に影響が出るほど深刻な問題なので、是非ともお教え頂きたいです。
何度も相談させて頂き、申し訳ありません。自分で解決しようと思っていたのですが、1人で考えるとぐるぐる悩み続け、体調もよくならないためどうか相談させて下さい。 私は、小学校の頃に1人の男の子に本を借りました。しかし、返すのを忘れていて今も持っています。最近になり、過去の悪いことを反省して、出来ることは謝罪していこうと思いました。この本も何とか返そうと高校が一緒で小学校も一緒であった人に連絡をとったのですが3人中、2人は知らない、もう1人とはまだ連絡がとれていません。他の子達とは中学校も違うことがあり、なかなか連絡をとることが難しいです。 母が小学校の時の友達のお母さんの連絡先を知っており、教えて欲しいと言ったのですが、多分その男の子の連絡先は知らないだろうし、就職活動がうまくいってなければ気まずいので嫌だと言われてしまいました。 家族は今更、小学校の時の本を返されたところで困るだろうし、返すことも自己満足だろうと私の行動に反対しています。 他の方法といえば、家がわかる子に直接手紙を入れるなどが思い浮かんだのですが、母から気まずいということを聞いて、私だけでなく家族に迷惑をかけるのは良いことなのかと思いました。 しかし、本がまだあるのは事実であるからには何とかして返さなければ反省したとはいえないのでは、反省しきれてない人間は、死後何かの罰を受けるのではと死後のことはわからないので考えてしまいます。 他にもイベントの露店で1つの値段で間違って2個もらったのに黙っていたことがありました。これも盗みになるのでは、弁償すべきてばと思い出してでも、どうやって見つければいいのだろう、会えるまでそのイベントに通いつめるべきなのか、でもどんな人かも覚えていない、だからといって諦めるのは罪なのではと苦しんでいます。 就職と共にこの町を離れることになり、本を返すこともイベントに参加することも難しくなります。しかし、本を返せるまで粘るべきではイベントの日にちを確認して毎年探して返そうとするべきではでなければ反省しきれてないのでは、そんなものには今じゃなくても死語罰が下るのではと思っています。 全ては自分が犯したことでこの苦しみも自業自得なのでしょうが体調もよくなりません。本を見るたびに苦しいです。私はこの本を一生持ち続けるべきなのでしょうか。吐き気がとまりません。今後どうすべきでしょうか。
子供の頃よりコミュニケーション能力が低く 周りから嫌われやすい、敵を作りやすい 物事を覚えるのが下手でメモを取ることすらできない 年を追う毎に絶望感が増していき、苦しくなってきます。 私は俗に言う社会不適合者なのですが、自分にはこの症状を治す事ができないなとここ最近思いはじめてます。 まず、自分を現世から消し去りたいと思ってます。 死後、自殺者は寿命が来るまで死んだ際の苦しみを味わい続けると聞きましたが なんでしょう、自分は生きていても死んでも苦しむ為に生を受けたのでしょうか? 神様や仏様が存在するとして、努力ができない、自分の性格を治せない、気力が無くなった人間には慈悲ではなく、容赦のない仕打ちを与えるのでしょうか?
ニュースを見たくありません。 最近は見れば死体が見つかりました。 死後○日はたっています。殺人のようです。 こんなニュースがここ最近毎日流れ、はっきり言ってなぜ簡単に殺してしまうのか解りませんが、悲しくなります。 数日たつと犯人は身内や昔付き合ってた人や昔同じ職場だったりと逆恨みが多いんですよね。 もう、こんなニュースは沢山です。
こんにちは。 私は数年前から一人暮らしをしており、1人の時間も長くなると考え事をする時がしばしばあります。 その中で昔の嫌な記憶を思い出すことがよくあり、思い出した嫌悪感に我慢できずにたまに泣いてしまいます。 自分の性格や人間性のダメな部分に嫌気がさして自己嫌悪に陥るのですが、ああしてこうして育ててくれればこんな人間にはならなかったのに、と親のせいにしてしまう自分に何より腹が立ち、情けなくなります。 もちろん四六時中こうして悩んでいるわけではなく、仕事ができるありがたさや趣味に打ち込める楽しさもあり、普段はポジティブに生活しています。 ですが、人間いつか死ぬのなら、できるだけ早く死にたいなとも考えています。 自分で言うのもなんですが、感受性が豊かな自分にとっては家族も含め人付き合いに疲れてしまい、早く楽になりたいんだと思います(叱られるかもしれませんが… 死後の話でよく『輪廻転生』と耳にします。 私は現時点で20数年しか生きていませんが、もし人間として生まれ変わるのなら、またこんな人生を送らなければならないのならないのは御免だなと思います。 やはり死後の魂は何かに形を変えて生まれ変わるのでしょうか?だとしたら魂の数には限りがあるのでしょうか? もう一度生き物に転生せずに済むのなら、魂ごと消えてしまいたいです。
人間は殺生罪などを犯しているので死後は必ず地獄だと聞きました。 死後が必ず地獄であることを釈迦は言ってますか? 言っている場合、どの経典に書いていますか?
院号とはどういうものでしょうか? 先日父が亡くなったおり、院号を授けてもらうべきかどうか悩みました ご住職様に確認すると、「お寺に貢献してくれたひとに授けるもの」と言われました 院号代という寄付をすることでも授けることができると教えてもらいました 亡くなった後の位で、どちらかといえばまわりのひとに「すごい」と言ってもらう見栄のようなもの・・・とも聞きました 質問です 亡くなったひとにとって院号は必要でしょうか? 院号の有無で亡くなったあとどうなるのか変わるのでしょうか? 死後の世界にも位はあるのでしょうか?
自殺する方法を探すためインターネットを見ていると、「自殺は悪いこと」「来世に今の苦労を持ち越すことになる」「自殺が苦しいのはお仕置きだから」「死後も苦しむ」というような意見がよく見られます。 これを見て死にたい気持ちが無くなるわけではありませんが、もしうまくいって死ねても苦しいままだったらやだなって思います。 死後の世界ってあるんですか?神様は自殺を許してくれないんでしょうか? 生きてても死んでも苦しいなら今どうしたらいいかわかりません。 死にたい気持ちは最近生まれたものではなくて、小学校3年生くらいから出てき始めたものです。 15になったら死のう20になったら死のうと思ってました。死ねませんでした。失敗しました。 ずっと付き合ってきた希死念慮が今更消えるとは思えないしこんなに苦しいなら早く死にたいんです。 自殺って悪いことですか? どうか否定しないでほしいです。