こんにちは。 長年、解釈に困っていることがあります。 それは、おみくじについてです。 おみくじはいつも愛知県名古屋市にある『大須観音』で初詣の際に引くのですが、毎年ほとんど『凶』なのです。 これはどういうことなのか…。 ここはおみくじに凶がたくさん入っているのか…。 こんなに毎年毎年、凶を引く人はいるのだろうか…。 もちろん、今年も凶を引きました。(笑) 今は凶を引いてもなんとも思いません。 むしろ『またかー』と笑ってますが、この現象をどう解釈していいのかわからず質問させていただきました。 違う視点からのご意見をぜひ聞かせて下さい。 よろしくお願いします。
浄土宗です。 1,釈迦と阿弥陀如来はどのような関係なのでしょうか? 2、寺の本堂や家庭の仏壇に釈迦(釈迦如来)の像が無いのはなぜでしょう? 浄土宗出版の「毎日のおつとめ(日常勤行式?)」の四奉請には「・・・奉請 釈迦如来入場 散華楽 奉請 弥陀如来入場 散華楽・・・」とあります。 よろしくお願いいたします。
観光でお寺や神社にお参りに行きますし、お墓参りもいたします。 しかし、どこで仏教が学べるのか実は分かっていません。 学ぼうとするとネットで本を買う事になります。 教会のように毎週日曜日礼拝したあとの聖書勉強会のようなものはあるんでしょうか。
祖父のお骨について相談させて下さい。 私は現在結婚をして家を出ています。 実家とは折り合いが悪くほぼ、連絡を取っていません。 先日義実家の用で納骨堂に行った際に、私の祖父が入っていた納骨堂が建て直しされた事が分かりました。 2年前に建て直しをするから遺骨を一旦引き取る旨を実家は知っていましたが引き取らず、そのままにしていた様です。 現在は本堂の隅に置かれている状況ですが、今年中に引き取らないと処分されてしまうそうです。 その為実家に連絡を取ってみたのですが、あいまいな返事しか返ってこず、多分そのままにするつもりの様です。 私と祖父は血が繋がっていませんし、結婚をして家を出ているので私側でお墓を買ったり納骨堂を新たに買ったりする事は金銭的にも厳しいです。 実家も散財ばかりしているので新たに納骨堂を買ったりする事ができないと思っています。 永代供養か共同墓地を考えていますが、直ぐにはお金を出せない状況なので、一旦遺骨を家に保管しお金が貯まったら永代供養、あるいは共同墓地…と考えています。 しかし、実家では遺骨を引き取りたくないの一点張りです。 もう、どうしたら良いのか分からず困っています。 どうが、ご助言頂けないでしょうか…
21歳です。 2歳と0歳の子どもの母親をしています 私はシングルマザーの家庭で育ちました父親の記憶はありません 母は暴力的な所があり高校生になるまでずっと日常的な虐待がありました毎日死にたくてたまりませんでした小学生の時に首をつってみたり高校生になってからはリストカットが日常的になりましたそんな生活に終わりがきたのは高校に入って学校側から児相に通報がいき緊急保護という形で保護され施設で生活する事になりました 母は施設に入るなら縁を切ると激怒していましたが私は施設に行くことを決めました ですが施設に行ってからも母が祖母に迎えにいったら死ねとか帰れとか言われたと言ったらしく祖母から激怒の電話がきたり祖母は母の味方なのでこっちの話は一切聞かずもちろん母は迎えになんて来てないしそんな言葉いってもないです… 施設を出た後もSNSのメッセージ等で文句を言われたりもしてましたが今の旦那と出会い結婚して自分の家庭を持ち子どもにも囲まれて幸せですでもいつかこれも母に壊されてしまうのではないかと不安でたまらないですで母と離れてからはPTSDに悩まされ悪夢にうなされたり摂食障害に悩まされたりしています。 母と離れて肉体的苦痛はなくなったものの今度は精神的苦痛に悩まさせれ母が憎くて憎くてたまりません した方はあとには何も残らないのになんでこんなに私が苦しまなきゃいけないのか悔しくてたまらないです 正直母が生きている限りずっと苦しんで憎んでしまうと思いますだけどふとしたときにこのまま会わずに祖母や母がいつか死んでしまったら後悔すると言う矛盾な気持ちも産まれますがこんなふうに思うことすらなくなってしまえばいいのにと思います 恨んでも仕方ないとか過去を振り返っても仕方ないとよく言われますがそんなの綺麗事にしか思えません何も経験してない人にそんなこと言われたくないと思ってしまいます 憎む気持ちすらなくなって母に対しての気持ちが全てなくなってしまえばいいのにとまで思います 私はこれからどんな気持ちで母に対する気持ちをもって生きていけばいいのかわからないです… どうしていけばいいのでしょうか
はじめまして!いつもハスノハでの相談をありがたく拝見しております。 私は現在大学4年で、葬祭業者として内定を1ついただいております。 しかし、転職のしにくさや、忌みに触れる仕事であることから、親や学校のキャリアセンターから葬祭業での就職に反対され、不安になる気持ちを抱えております。 もともと苦しんでいる人不安を抱えている人を助けたいと言う思いで就職活動をしており、葬祭業は私が大好きな祖父をなくしたときにきちんとお見送りできてよかったなぁと思ったことから志しました。ただ、親の期待に応えたい、もう少しお給料を良くしたいなどの思いもあり、同じ志を生かせる職業として病院での事務などを目指して就職活動を続けておりますが今回のコロナ禍の情勢もあり、なかなか他の内定が出ない状況にあります。 ハスノハのお坊様たちは実際に葬祭に深く関わるお仕事をなさっていると思います。その際周りに反対などされなかったか、不安はなかったか、葬祭に関するお仕事を日々どんなお気持ちでなさっているのか、また、必死に努力をしてもなかなか結果に結びつかない状況にどのように対処されているかなど伺いたいと思っています。 色々と質問して申し訳ありません。ぜひお答えをいただければありがたいと思います。
人への気持ちがコロコロ気分が変わる時があり、とても疲れてしまいます。 例えば、自分がAさんは意地悪だから嫌い!と思っていたとします。Aさんが欲しいものがありました。それはAさんにとってはなかなか手に入りませんが自分は容易に手に入れられるものでした。当然、そのことは黙っておこうと思っています。しかしある日突然そのAさんに対して見返りもなく(すごいと思ってもらいたいわけでも、感謝されたいわけでもなく)急に「そんなに欲しいなら…」という気分になり、「うちの近くで手に入るから買っておくよ」と手助けをします。その数日後、なんで私はこんなに嫌いなAさんに手を差し伸べたのだろうか!?という気持ちが突然押し寄せて、嫌な気持ちになります。Aさんが「あの時はほんとにありがとう!またよろしくね」と言ってくると、余計に「あんなにいつも意地悪されてるのにどうして私は助けたんだろう。せっかくこれまで上手に距離を置いていたのに!」と自己嫌悪に陥ります。 こんな感じで、ちょっと例が微妙なのですが、基本的には「嫌だから距離を置こう」と思っていてその方針でやっていこう!と決めていたものが、何かの拍子に「いいじゃないか、受け入れよう」と心の中でガラリと変わります。そしてまた「嫌だから離れよう」に戻り、受け入れたことを大後悔するのです。小さなことから大きなことまでよくあります。 この気持ちの浮き沈み(主に対人関係に対して。)はどうコントロールしたらいいのでしょうか。嫌なことをされてもその相手を適当に受け流し、時に受け入れることができれば心が楽になり生きやすいと思います。そんな考え方になりたい。ただ、そのような気持ちには一瞬しかなれず、その時の行動を後々後悔するのに疲れてしまいました。どうやったらこの気分のムラをなくせますか。
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。
はじめまして。向日葵と申します。 私の現在の悩みは自身の仕事の方向性です。 去年の夏に仕事を変わって以来、仕事が続かない状態が続いています。目立った資格等も保持しておらず自身の強みなども自身で分からなくなり、自信を喪失して、精神的にも弱さが目立つようになりました。 年齢等も考慮すると新たに挑戦できる分野にも狭まりを感じ、どこへ向かえばいいのか分からなくなってきました。 生活の為に働くのは当然ですが、やりがいや達成感を感じる事の出来ない仕事では疲労感だけを身に纏い、心が平坦になり、休日も憂鬱な気分になります。 自身を分析するため、好きな事や過去の自分を掘り起こしたり等して、何とか建て直しを試みましたが解決策を見出だせないまま今に至ります。 精神的にも疲れて来たのか、良くない妄想が頭をよぎります。 私はどのようにして、この不甲斐な毎日を乗り越えればいいでしょうか。 助言を頂ければ有り難いです。 宜しくお願い致します。
年始のお忙しい所、失礼します。 30代という年齢と内面の未熟さとの差にいつも情けなくなっています。 私は、2年前に母親を亡くしましたが、年甲斐にもなく、母親っ子で、何でも今日あった出来事を話すぐらいの仲でした。 母親は、晩年は闘病生活を占めていましたが、それでも、母と何処に出かけたり、食事をしたりしました。 この2年間、仕事をすることでその寂しさを紛らわしてきましたが、年末年始などの長期休みや休日など、時間があるとどうにもならない寂しさが込み上げてきて、何も手につかない状態になってしまいます。 母親が闘病生活をしていた時は、私も精神的に悩んでた時期でもあったため、もっと今頑張っている姿を見てほしかったなとか、頼れる人が誰もいなくなってしまったななどと考えてしまう部分があります。 寂しさを忘れるためには、やはり、目の前の一つ一つをまずは頑張り、時間が解決していくことなのでしょうか。
高校卒業後、アルバイトなどを転々とし、1年ほど前から建設会社の正社員として働き始めました。 正直なところ、認識の歪みを抜きにして考えても私はまったく仕事ができません。 AをBに持っていきCをする、なんてことでさえミスを繰り返してしまいます。 生まれつき体も弱く、すぐに体調を崩して余計に足を引っ張ってしまいます。 自分にあった仕事を!なんて皆が言いますが、何も出来ない自分は何でもいいからするしかありません。 今の会社は縁故で就職しましたが、上司や同僚にたくさん迷惑をかけてしまい毎日が息苦しいです。 気にしすぎとも言われますが、白い目で見られ時には罵声を浴びせられ、平気でいられましょうか? 比較的若い世代の給料がいい業界ですが、私の場合、残業や休日出勤をして手取りが20万円にも届きません。 年金をもらえるかも分からない老後の資金は?そもそもそこまで働き続けられるのか? 最低限のお金すら稼げない人間は苦しみから脱せないのでしょうか?
福祉現場で10年ほど働いています。 この職を選んだ理由は単純に自分が昔からおばあちゃん子で、母親より祖母と過ごした時間の方が長く、年配の方と接するのが好きだったからです。 高齢者の残された時間、家にいる時のように一人一人が自分らしく過ごせる環境を作るための支援をしたい。 大抵の施設(老人ホーム)ではこういった経営理念を掲げています。 私自身も当初はこの気持ちでいました。 しかし現実は深刻な人手不足。 時間に縛られ、まるで工場のライン作業のように進んでいきます。 しかしロボットのように働いたとしても相手は人ですから、必ずイレギュラーなことは起こります。 結局時間内に終わらず、残業代も出ません。 そうやって業務を淡々とこなしていくうち、最初の理想はどこかへ消え、今となっては “低賃金・重労働で先の短い老人達の世話。一体なんの意味があるんだろう。この業界に未来はあるんだろうか” などと最低な考えすら浮かんできてしまいます。 金儲けばかり考えてる政治家連中と年金目当てで延命治療させる家族。 何がその人らしい生活、最期なのかもうわからなくなりました。 無理矢理生かされるくらいなら安楽死制度を早く導入してほしいと切に願います。 もう終わりです。この国の福祉政策は。 すみません。なかば愚痴になってしまいました…。 夢や理想だけではこの業界では生きていけないということは身をもって分かっているのですが それでも何とか私がやらねば誰がやる精神で頑張ってきました。 それがここ最近自分はなぜこの仕事をしてるんだろう。なにも自分が大変な思いをしてまでやらなくてもいいのではないか…と我に返ったような感じです。 誰もやりたがらないことを安月給でやる意味。 しかし新卒で福祉しかやってこなかった私に今更他の職種が勤まる自信もないのでとりあえずは続けますが 私のような人材は辞めた方がいいのでしょうか。 延命治療をしてまで人は生きる意味はありますか。 こんなことばかり考えていて、国家資格まで取得したのに、プロ失格ですね。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
度々書かせていただいております。 貴重なお時間割いて回答してくださる僧侶の皆様、いつもありがとうございます。 今日は職場の飲み会の悪口についてです。 先日、仲の良い同期に誘われ飲み会に行ってきました。 お酒が進むと自然と職場の特定の人の悪口が話題に上がり、気がつけば凄い盛り上がりに。 私はお酒は下戸を地で行くような人間でして、ホントにきついですね。 私自身も裏で言われてるのかな…と思うとまぁレモンサワー一杯で気持ち悪くなってしまいます。 誘われたのが仲の良い同期です。 集まったのは先輩後輩合わせて4人ほど。 伺いたいのは ・飲み会との距離の取り方 ・悪口大会になってしまった際の自分の振る舞い方 ・早く帰りたいときはどの様な言い訳が波風たてないか 飲み会での悪口は、魂の波長的にも低い波動で最悪というのは聞いたことがあります。 よろしくお願いします。
今年の4月から東京で就職することになったのですが、不安でたまりません。 というのも、私は家族や地元の友人が本当に大好きです。また辛いことがあるといつも話を聞いてくれるのも、家族や友人なので簡単に会えなくなると思うと寂しくてたまりません。 元々上京するつもりなんて全くありませんでしたが、夢だった仕事を追いかける情熱がなくなってしまい、他にやりたいこともなく悩みながらではありましたが東京に就職することを決めました。多分夢を追いかける勇気がなかったんだと思います。 寂しがり屋な性格で、東京に夢や憧れも抱いていない私が東京で生きていくことができるのだろうか。行く前から不安でたまらず、そのことばかり考えてしまいます。 そのせいで大好きな地元での最後の生活も楽しめませんし、家族といてもなぜか虚しくなったり、夜もなかなか眠れなかったり、朝も不安で眼が覚めてしまいます。 東京に行くことをやめることはできませんが、東京に行くまでの時間は不安にとらわれず幸せに過ごしたいです。どうしたらこの不安はなくなるのでしょうか。
高校生です 私は中学生の頃からずっと死ぬのが怖いです 私はこれまでの短い人生の中でも色々と悪いことをしてきました。嘘もつきましたし、人を傷つけたこともあります また、幼い頃(幼稚園生頃)にお店で量り売りとして売っていたチョコレートを一粒こっそり食べてしまったことがあります。あの事をずっと後悔しています 沢山悪いことをしてきたと思います 私はきっと、死んだら地獄に落ちてしまうことでしょう。祖母は「絶対天国に行けるからね」と言ってくれますが、それでも確証がありません いえ、地獄に落ちるかもしれない、それ以上に怖いことがあります それは、死んだら“私”が無くなってしまうのではないかということです 私は、私がこれまで積み上げてきた物を失うことが、自我が無くなってしまうことが怖いです 今、こうして悩み、悲しみ、笑い、怒り。そんな感情を抱いている私が消滅するかもしれないということが、本当に怖くてたまりません この恐怖は一年に五回程度湧き上がってきては私を悩ませます。怖くて怖くて、死後のことを思うと私は涙が止まらなくなります ですが、周りの大人は私のこの悩みを「くだらない」「大人になればそんな悩み薄れる」と言ってまともに取り合ってくれません。私は“今”の対策が知りたいのです。大人になってから、なんて待てません 死ぬのが怖いと言いながら、不老不死になりたいかと聞かれると困ります。永遠の命なんて寂しいですから この悩みの解決策がわからないままです 今も苦しみを堪えながらこの文をうっています 誰か、私を助けてください カテゴリー等、間違えていたら申し訳ありません
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
また質問にきました。よろしくお願いします。 先月51歳の大切な大切な彼氏を病気で亡くしました。彼はバーのマスターでたまに行ってましたが、この8月に2回目の離婚をしたあたりから急激に仲良くなり、ほぼ毎日一緒に居ました。期間も短かすぎて10月から入院したので、思い出や思いでの詰まった物や、病気が悪化しだしてからは話しもろくにできなくて。憤りの無い寂しさと後悔と自分の情けなさ、不安、などどうすればいいのかもう分からなくて。 愛してると何度も言ってくれた彼を不安に思ったり。 本当にもう会えたり話せたりできないのでしょうか? 彼は本当は無になってしまったのでしょうか? 話を聞いてくれそうな、カウンセラーや霊視のできる所をいつも探してしまいます。 愛おしくて、愛おしくて、息がつまります。。私はまだ35歳でまわりの皆んなは幸せにならないとって言ってくれますが、彼を一生忘れられないまま他の人と幸せになれるのか自信もありません。 私があっちに行くその時に彼は迎えに来てくれますか? どうも自分本意な事ばかり書いてしまい本当にすみません。 皆様、行き場のない思いをどうか聞いてやって下さい。よろしくお願いします。