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hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2725件

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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中絶を考え、結果流産しました

去年の年末、初めて妊娠し、中絶を願い、結果的に流産しました。 学生の頃はガンを患った父に、「生きている間に孫を抱いてもらうんだ!」と思っていました。しかし大人になり、父に孫を会わせたいという理由ではなく、自分が子供を産み育てたいかと考えると、その気持ちが全くない事に気づきました。 夫には出産の意思がない事を伝え、結婚し、夫が「もし家族が増えても楽しいだろうね」という言葉に、「そうかもしれない、楽しいかもしれない」と思うようになっていました。 その後、避妊には気を付けていましたが、妊娠しました。私は自分に「嬉しい!きっとうまくいく!楽しい家族になる!」と言い聞かせていました。 しかし喜べませんでした。自分が親になる事が恐ろしく、お腹の子を愛せない自分が恐ろしく、このような幸福を喜べない自分が恐ろしかったです。なにより、堕胎を選択しようとする自分が恐ろしかったです。それでもどうしても喜べない自分が出産するという決断ができず、堕胎を決めました。 夫は堕胎を受け入れてくれました。それから毎日私は泣き、眠れなくなり、食べられなくなり、結果流産しました。 泣くのは子供への申し訳ない気持ち、愛せなくて、産まなくて、殺して、なのに作り出して、痛いだろうか、怖いだろうか。夫への申し訳ない気持ち、愛する夫の子を愛せなくて、殺して、父親になる事を奪って、辛いであろう夫の前でこんな私が泣いて。両親への申し訳ない気持ち。望んで努力しても出産出来なかった姉へ。夫の両親へ。 子供の頃初めて人を好きになったように、いつの日か子供が欲しいという気持ちも自然と出てくるのだと思っていました。 そうなれない自分が、身勝手にも一番大切な人達を傷つけ、希望を奪っている。夫は私と結婚したためにこんな思いをしている。 何故、子供が欲しい、産みたいと思えないのか。どうして愛せないのか。あの子は今どうしているだろう。苦しんでいないかな。考えない日はありません。 自分自身の無責任な行動の結果、許されない事をしました。1番辛く苦しいのは子供です。お答えを頂けるような内容ではないとわかっていますが、身勝手にも程がありますが、胸が苦しく、叫びたい気持ちで、こちらに書き込ませて頂きました。 私が死んだ後苦しみは全てもらうから、どうかあの子が苦しんでいない事を、身勝手にも願っています。

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誰にも悲しみを見せられません

数ヶ月前、次女を亡くしました。 以前、主人に次女に会いたいと思うか聞いてみたところ、「会いたいと思ってももういないんだよ」と怒鳴られました。 それから主人の前では悲しみを見せるのはやめました。 今住んでいるところには主人と一緒になるために越してきました。 こっちには知り合いが一人もいません。 実家はすごく遠いです。 実家の両親は私のことをすごく心配しており、何かあるとすぐ飛んできてくれます。 でも負担をかけたくないのであまり心配させないようにしています。 主人の実家は近いのですが、なるべく頼りたくありません。 この前までカウンセリングを受けていました。 素直に気持ちを口にするだけで少しだけ気持ちが楽になったので助かってました。 しかし色々とあってカウンセラーに不信感が募ったため、もう行かないことにしました。 主人といる時、誰かと話す時、もう大丈夫だよというフリをします。 でも本当は悲しみで胸がいっぱいです。 一人になると涙が止まりません。 一日中泣いている時もあります。 次女を失った悲しみがどっと押し寄せてきて、どうしようもないんです。 誰かにこの悲しみを聞いてほしいし、そばにいてほしいです。 どうしたらいいのでしょうか?

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30歳を目処に死にたいと思っています

以前こちらで質問する機会を頂き、とても気持ちが軽くなったこともあって今回また、性懲りも無く投稿することをお許しください。 私は現在、正社員として働いています。 自分なりに日々なんとか働いてはいますが、最近限界を感じています。 ・就いている職種が、自分の中で最も苦手としている事柄であること。 ・仕事の拘束時間が周りよりも多いのに給料はとても安いこと。 ・上司(いわゆるお局様)との関係に、プレッシャーや恐怖を感じすぎて疲れていること。 ・時間とお金がかかる趣味を嗜んでいますが、仕事と趣味の両立がとれないこと。 以上のことから、仕事を辞めて、パートで働きたいと考えるようになりました。 しかし、それを周りに相談しても「3年は働け」と言われるばかり。 周りがそう言う気持ちは、私にも分かるのです。なにせ私は、社会で生きるのに向いていない。責任感はないし、働くより休みたいし、人とはなるべく関わりたくはないし、マイナス思考で、取り柄もない。実家暮らしで周りに頼りっぱなし。我儘で、人よりも理解力がなければ、学力もない。今の職場で正社員として働いていることは、まさに奇跡に近いのでは?と思うのです。 パートに転職したい、と情報を探ってみても、「正社員のほうが将来安泰」、「パートはやめた方が良い」という意見が多いです。 でも、自分の人生に期待もできず、将来も変わらず底辺なのだろうなと思うと、人生80年というのはあまりにも長い。 それなら、誰か他の人に私が生きる分生きて欲しいですし、私も楽です。 ならば、30歳を目処に死にたいと思うようになりました。 そう思っても、「死にたくない」し、「将来への不安」は捨てきれず、自分でもなにが正解か分からないのです。 自分がなにを思ってるのかすら、分からないのです。 人に相談するのもどうしてか苦手で、難しいのです。 「仕事を辞めたい」し、「30歳で死にたい」 でも、「将来への不安」「死への恐怖」は拭いきれず、結局毎日、地球の酸素を無駄遣いしています。 我儘で、矛盾ばかりの甘えた自分がこれから何を信じて頼りにしていけばいいのか、どなたかお手すきの際にご教授頂けると幸いです。 長々と申し訳ありませんでした。

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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
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