軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか? ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています 「それは不変ではない」はすぐに分かります 最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど… この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?
亡くなった伯母の相続手続きで、家族はあてにならず、一人奔走していて、疲れました。自分には相続の権利はないのですが…。 ①約3年前に伯母(独身子なし)が亡くなり相続発生。長らく入院しており、遺言書もないので法定相続に。 ②金融資産の洗い出しなどが必要になり、父は銀行から法律事務所の紹介を受けるところまで行ったものの、そこで億劫になり放置 ③見かねた姉が手を出す ④遺産分割協議には入院中の叔母に後見人が必要と判明(裁判所へ後見人擁立の申立ててが必要に) ⑤姉が結果的に私に丸投げ ⑥私が法律事務所との折衝や専門職後見人の推薦依頼に奔走 ⑦この度、社会福祉士会から後見人候補者の推薦を受ける ⑧家族に進捗報告 ⑨姉も同じ県内の社会福祉業界にいるため、自分の名前を極力出さないでほしいと釘を刺される←イマココ 何か寄り添うひとことをいただければ幸いです、
お坊さんと婚約中の者です。お互いに30代です。 お相手の女性関係を疑い苦しい毎日です。 付き合った当初から女性好きが窺い知れる言動が多く僧侶なのになぁ…と気になっていましたが、彼の冗談っぽい雰囲気もあり深刻な事態には発展していませんでした。 数ヶ月前の夜一緒に彼のスマホを見ていましたら知らない女性から電話があり「気にせず取って」と促しましたが頑として取らないという出来事がありました。 彼の動揺が感じられ嫌な予感がして、掛け直すことも勧めたのですが「長くなるかもだから」「デート中に電話されるの嫌でしょ」と結局私の前では電話をしませんでした。(彼は普段からデート中に仕事の電話をよく受けています。仕事柄当然だと理解していますので苦言を呈したことはありません) 彼曰くお寺関係の方だそうですが、絶対に私の前では電話したくないようでしたので「不安なのでその人との関係性を教えてほしい。お寺関係の方なら紹介してね」と伝えました。 すると「薄い知り合い。なぜ紹介しないといけないのか?」「連絡先は向こうから求められた」との回答でした。 彼は疑われたことに気分を害したらしく、私から謝りましたが、疑われても仕方ない出来事と対応なのではとの思いが拭えずその日は険悪なまま解散となりました。 翌日彼は出張で、出張後一か月程彼の怒りが続いていたようでまともに連絡がとれない日々が続きました。 私から働きかけやっとやりとりできるようになり、改めて例の電話の要件を尋ねたところ、その女性が出張を知っていてお土産をリクエストされたようです。彼はそれに応え送ってあげたとのことでした。 紹介できない「薄い知り合い」から夜に電話、お土産を求められ、買ってあげる…何か不自然に感じています。 私は信頼関係を築くためにはとことん話合いお互いの価値観を知っていくべきだと思っており、その重要性も伝えているのですが、彼は疑われていると感じ傷つくようで、話合いが上手くいきません。 疑うときりがないので信じなければとも思います。しかし遠方に嫁ぐため断腸の思いで正社員を辞めただけに、彼に私の不安な思いを理解して貰い、積極的に話合い明確に疑いを晴らしてほしいと思ってしまいます。 彼は今も彼女と連絡を取っているようです。 私はどのように対応するべきでしょうか。 長くなりましたが、何卒ご助言頂けますと幸いです。
私は、ずっとラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」という心の平和のための教えを気にしてきました。 もちろん、社会の上では、みな行為者です。つまり、社会には行為者はいます。社会は個々の行為者とそれに伴う責任なしに機能しません。人間は虚構によって生きています。 つまり、人生においては、実際には行為者はいないことを理解しながら、まるで行為者であるかのように生きなければならない、ということです。 ラメッシの言っていることは、仏教の世俗諦と勝義諦の考えと同じだと思います。 世俗の真理と究極の真理は、矛盾するものではなく、互いに補完しあうものであると考えます。そうであれば、ラメッシの教えに問題はないと思います。 仏教の縁起の法則(自然の法則)でも、すべての現象は、他の原因によって起こり、独立した実体はない(空)と言っています。 それでですが、仏教的には、例えば、殺人行為が行われた場合、世俗諦としては、行為者が存在しているため、罪で悪ですが、勝義諦、つまり究極の真理としては、行為者はいない、つまり無我であるため、人間存在に、功罪、善悪は存在しないと思うのですが、どうでしょうか? だとしたら、私は救われます。 見解をお聞かせください。
「自利利他」のお話を講演会で伺い、かなり衝撃を受けました。 これまで「他」を優先してきました。 人のために尽くすのが正しいと思って生きてきました。 人に優しくありたい、誠実でありたいと常々思っておりますが、そうしようとすると「他」を優先することになってしまいます。 どのような心持ちで日々を過ごせば、自分を大切に「自利」を優先できるのでしょうか。 自分を犠牲にして「他」を優先しているのに、うやむやにされたり返事を返さなかったり人の時間を奪うような行動をされ、謝りもせず無下にされて自分だけが損をしているような気持ちでいます。 見返りを求めているようで、それも嫌です。 日々、「他」のためにやらなければならないことに押し潰されて現在がいっぱいいっぱいであり、自分の未来を見ている余裕がありません。 そんなことをしている間に「他」が幸せになっていくのを見てきました。 人に優しくありたいと思っている人が優しくされることはなく、ただ傷ついていくのはとても辛いです。 この先も、このまま苦しいのかと思うと何のために生きているのか分かりません。 ずっと辛いままであることから逃れるには、自身の生き方考え方を変えなければならないのでしょうか。
初めまして。 私は去年の夏、妊娠3ヶ月で流産しました。 原因は子宮頸管無力症という無自覚に子宮口が開いてしまう疾患でした。体質なのか、仕事で無理をしてしまったからなのかは分かりません。 相手は妻子ある方で、未婚のまま出産するつもりでした。 妊娠が分かったのは付き合い始めて2ヶ月半が経った頃。 妻子ある身でありながら、避妊しない彼の無責任さにも気付いてはいましたが、それでも強く彼に惹かれていた私は彼の子が欲しいと思っていました。 そんな私のエゴや倫理に反したバチが、私ではなく赤ちゃんに当たってしまったと毎日自分を責めてばかりいます。 友人には、今までなかった母性を教えてくれて経済的にも余裕ないんだから親孝行してくれたんだよって言われました。 でも一番の親孝行は無事に生まれてきてくれることでした。どんなことをしても親子2人で生きて行こう、この子となら頑張れると思っていました。 なのに、手術をしても助かるとは限らない、超低体重で生まれたら障害を持つ可能性も高いと医者に言われ、未婚という不安が重くのしかかり私は諦めてしまいました。結局そこまでの覚悟はなかったんだと自分に失望しました。 そして赤ちゃんは手のひらに乗るほど小さく、骨も残らないと言われ、病院に火葬をお願いしました。とても後悔しています。 気持ちの整理がついたら供養に行こうと思っていましたが、まだ行けてません。赤ちゃんのため、それは分かっていますが、この罪から逃れるのは許されない気がしています。 やっぱりちゃんとお寺で供養してあげるべきでしょうか? 手元にはエコー写真と亡くなった時の赤ちゃんの写真しかありません。これは手放したくないんですが、お炊き上げ?する方がいいんでしょうか? そして上に書いたように、許されないことをしたと分かっているのに、また、他の誰でもない彼との子が欲しいと思ってしまうんです。 彼の家庭を壊すつもりはありませんし、壊せるとも思っていません。彼との関係は不安定なもの、いつ終わるか分かりません。 初めて本当に愛していると思える彼との証が欲しいと思うのは間違っていますか? もちろん不倫を肯定する方なんて居ないと思いますが、私はおかしいでしょうか? 流産したことで、より執着してしまっているのかなとは思います。でも自分ではこの気持ちをどうすることも出来ません。 長々と失礼いたしました。
いい加減に仕事をやめようかと思っているけども踏ん切りがつかない・・・ やりたいことはあるけどもどうもうまくいく気がしないから困っています。 どんな人生ならば自分は満足できるんでしょうか?
先日 こちらに初めて投稿させていただき 有難いお言葉を沢山いただきました。 お言葉を読んでいると 涙が止まりませんでした。 ただ 優しいお言葉の裏というのか 信じたいのですが そのまま素直に受け止める事が出来なくて 申し訳ない気持ちでいっぱいです。 人の言葉には裏があって 優しい言葉に惑わされると 傷ついてしまう 善からぬ罠では無いか いつの日からなのかそんな風に思うようになってしまっていました。 どう思えば また 素直に受け止める事が出来るのでしょう? それとも 信頼してしまうのはバカなのでしょうか? 他の人は 人からの優しい言葉は素直に受け止めておられるのでしょうか?
書いている内にダラダラと長くなってしまったので、質問内容をできる範囲で簡潔に書きます。「働きたくない、それのために努力もしない、ゲームばかりする人間で、それが周りに分かれば自殺する人間は感情論などを抜きにして死ぬより生きる方が周りに迷惑なので死ぬべきか」です。 今学年上では大学4年ですが、実質的には大学3年です。その理由は、研究室に入らず、内定も決まっていないからです。 ですが、そのことは家族や友人など周りの人には隠しています。その始まりは研究室選びの時期を間違えたことが原因でした。 元々やる気も無かったのですが、研究室に入っても毎日大変で、それが終わっても就職して働くことを考えたら今死んだほうが良いと考え、道具や場所などを考え、イメトレをしました。 それでも本当にバレるまでの間は遊んでから死ぬことを選びました。しかし嘘の日程である内定式ももう明日には迎えるので、きっと死ぬだろうと思います。好きなときに遊べないのならば生きようとは思いません。勉強もしたくありません。仕事したくもありません。 思えば子供の時も、もし犯罪を犯して懲役刑になったら自殺することを考えていました。そのくらいゲームなどの遊びは好きでした。 カウンセリングも9ヶ月ほど前にも受けましたが、やはりこんなクズは死ぬしか道はないと思います。 私自身の意見は、実際に自分の子がそんな子であると分かれば、無理矢理にでも働かせるか、勘当するかのどちらかであると思います。将来確実に働かないのであれば、養ってる意味がないからです。 私はそれが分かっているので、迷惑だとは思いますが自殺すれば迷惑や恥などの意識もなくなり関係ないので、自分としても楽だと思うし、迷惑かけ続けながら死ぬよりもそれが結果的に周りも最善であると思います。むしろ、生きていては今すぐ死ぬよりも他人を不幸にする人間であると思います。 しかし、このようなことを調べてもここまでのクズはいないのか、うつ病などの症状、自殺はダメなどの情報しか出ません。結局全く努力しない、非生産的な人間には価値はないと考えています。 なのでここならばより多い情報で正確な回答がもらえると感じ、質問しました。 結局は社会からも死ねと言われて死ぬことすらも正当化してもらおうとしているだけなのかもしれません。相談内容、文脈が滅茶苦茶なこと、長文であることすべて申し訳ありません。
以前と似たような内容ですみません。 死後の世界が気になって落ち着きません。 いろいろ質問があります。 ・諸行無常の言葉のとおり、この世もあの世もいつかは終わるのか? ・輪廻転生卒業後、自分の生まれの星に帰ると聞いたことがあるのですがそんなことあるんですか? ・神様は小学5年生という本に天国は地球と宇宙の間にあると書いてあったのですが宇宙が滅亡したら天国もなくなるのでしょうか?だとしたら魂は永遠の生命ではないですよね?
この前ネットで私は知ってしまいました。 人が大切にしているものを壊しても無間地獄行きになると、それって本当でしょうか? 私は前に家のもので家族が大事に飾っていたガラスの置物をうっかり落として壊してしまった記憶があります。でも反省はしました。 しかしながら、どうしても地獄は怖いです。今でも身体が震えるほどです。 無間地獄って一度おちればもう無期懲役で人間界には転生できない…ゆえに責苦も強烈で他の地獄が平和に感じるほどで… もう恐ろしくてたまりません、そんな罪を犯した自分も恐ろしいしこんな大罪を犯してもなお、自分はなんてことをしたんだと思います。もう何もかもが怖いです。 他にも、嘘をついたり殺生をしたり、邪見を述べた事もあり、それらも善をほどこして洗おうと考えています。(ちなみに邪見って直訳すると間違いを教える事、つまり嘘をつたえたり述べたりする事でしたっけ?それも罪だと書いていました) こんな私ですが仏様は救ってくださるのでしょうか。無間地獄だなんて今までで一番恐ろしくて体が震えるというより血の気がひきます。 後、可能であれば邪見も罪にあたいするかどうかの調べもお願いします。
小さい市(町)だと、すぐに噂が広がります。良い噂も悪い噂も…。 今は、とにかくコロナウイルスが心配で仕方ありません。感染してしまったら、周りから言われ、職場からも言われ。 家庭に入ってしまったら、もう諦めるしかないと思っています。 自分のワクチン接種の番より、先に罹患してしまうのでは?とそればかり考えています。
四十九日法要のために、お坊さんサービスを介してお坊さんを頼みました。 直接、お坊さんからご挨拶のお電話があった時に、初盆と四十九日をいっしょにするなら、初盆の分を半額にしますよと言われました。しかし、四十九日はお盆を過ぎた後ですので、初盆は来年のはずですし、四十九日とは死者があの世に向かわれる日で、お盆とはあの世におられる死者の霊を迎える日ですよね?それでは、四十九日で送り出した数分後にまた呼び戻すということですか? 最近は合理化の為、葬式の日に初七日もいっしょに行なったりするようですが、四十九日と初盆を同時にというのも一般的なのでしょうか? 私には違和感があり受け入れられませんので、当然お断りいたしました。
親しい方が勤める職場で死亡事故がおきました。 その方は何年も前にその会社を立ち上げていて現在は引退されていますが非常に責任を感じておられます。もしあのときにこうしていれば、、、事故の原因に立ち返ると自分の責任になる、、、などと苦しんでおられます。 やりきれない気持ちは察することしかできないのですが、心をしっかり持っていただきたいので何か言葉をかけてあげたいのですがなにをいっても空虚な言葉しか出てきません。普段明るい方なので落ち込んでいる姿を見ているのが辛いです。なにか救いになれるためにはどうすればよいでしょうか
お坊さんには金持ちの方や貧乏の方様々な方がいらっしゃいますが、お金というものは誰かの借金であり、誠に不浄なものですのでそれを必要以上に持たないという教えはないのでしょうか? お葬式代でぼったくって贅沢をしていらっしゃるお坊さんは本当に悪行を積まれていると思います。
約一年前に、主人の母がうつ病で自ら命を絶ってしまいました。 その頃、私自身は妊娠8ヶ月でした。 義理の母は、もともとは社交的で明るく前向きな性格でした。 亡くなる3ヶ月程前から『肩や腰が痛いから外出も出来なくて』と聞いていたので、なかなか実家に遊びに行けない状態でした。 義理の母の性格上、とても世間体を気にする人だったので、うつ病だったと聞いたのは亡くなる2ヶ月前でした。 私自身の父親がうつ病の経験があり、自殺の心配があるというところまでいきながらも、なんとか復活したので、すぐに病院などを紹介すると義理の父に伝えたのですが、『あんまり騒ぐと余計本人が気にするから。通院もしてるし大丈夫』との返答で、定期的に連絡は入れていましたが、それ以上はふれられませんでした。 亡くなる二週間前に『こっちに遊びにくる?』と以前の明るい声で電話があり、会いにいくと、以前のように子供を可愛がってくれ、産まれてくる子を楽しみにしてくれていました。 しかし、二週間後に自宅で夜中に服毒自殺をしてしまいました。後に聞いたところ、義理父に『死にたい』と漏らしていたそうです。 主人の家族はとても仲が良く、義理母を中心に笑いの耐えないごくごく普通の家族でした。 以前に義理母が大病をした際も、義理父と義理兄、兄嫁、主人、私と連携し、支えて乗り越えました。そのぐらい仲の良い家族でした。 義理母の死から一年が経ち、残った家族で支え合いながら、前向きに日々を過ごしているのですが、どうしても拭い去れない気持ちがあります。 一つは、なぜ仲の良い大切な家族がいたのに、残して独りでいってしまったのか。あれだけ孫が産まれることを楽しみにしてくれていたのに、それを待たずいってしまったのかと怒りの気持ちです。思ってはいけないのかもしれませんが、どうしても許せなくなってしまいます。 もう一つは、もう少し何かすべきだったんじゃないか、断られてももっと踏み込んで行ってたら何か違っていたんじゃないかという大きな後悔です。 自分自身の父親の経験があったのに、なぜもっと対応ができなかったのかと、悲しむ主人をみる度に後悔をしています。 どう、気持ちを処理していけばいいのでしょうか?
初めてご相談させていただきます。 私は、最近仏教の、五戒の教えを学ばせていただきました。 しかし、私は過去にその教えに背いた経験があり、その事で心が苦しみ続けています。 どうすれば、許されるのか、又は許される事など、無いのではあるまいか。 そう思うと、この先自分の生き方が分からなくなりました。 私の生きていく心構えを、仏様に導いていただきたいと願っております。私は、どうすれば良いのでしょうか。
お願いします。 取り留めのない文章で申し訳ないです。 実母を予後の悪い癌で亡くし、その6日後兄を自死で亡くしました。 その後私も結婚し、子供ができ、二人の死からもうすぐ6年が過ぎます。 今だに兄の事をどのようにすれば良いのか分かりません。 ニュースなどの自殺を見るたびに思い出します。そのくせに事故物件のサイトを自ら見てしまったりもしています。 宗派によって違いがあると思いますが、自殺した魂はこの世にとどまり自殺を繰り返す。天に昇っても暗い世界にいる。自死遺族はどのようにしたら良いのでしょうか?死んでもなお自殺を繰り返しているのなら、私があの世に送ってあげたい。でも魂も見えなければ、幽霊も見えません。 そんな事を考えていると、死が怖くなってきてしまいます。
浄土真宗を学ばせてもらって、信心を頂きました。 とても幸せな身なのですが、とあるSNSで仏教とは洗脳なんじゃないのかと言われて色々と言い合いになってしまいました。 それでモヤモヤしています。 「南無阿弥陀仏と言って救われるという洗脳を受けてるだけだと疑わないのか?」と何度も言われ、 私は「疑うのは阿弥陀仏の本願を知らないからだ、阿弥陀仏の本願は疑いようもない真実のものだから、それを疑ってしまうのは知らないだけだ」と言いましたが 「それは釈迦の言ったことを全部本当だと“仮定して”の話でしょ?」 と言い返されて返す言葉もありません。 (所々端折ってます) 質問になってないかもしれないですが、仏教は洗脳だと言われたときどうすればいいのでしょうか? 多くの人は言わないだけでこういう事を仏教に対して思っているのかもしれないと思うと悲しいです。 お坊さん方の考えをお聞かせ頂けると幸いです。
死ぬのは怖いです。 死は未知です、五億年という時を経っても意識は永久に無くまるで気絶した時のようです。 私はとても自殺願望が高いですが、私でもわかるようにこの世にいる人は誰も本来的には死にたくないと。 死はとても美しいものです、全てが虚無になります。 どんなにクローンが生まれたとしても、それは自分の意識でもなくクオリアもありません。 しかし同じように生きてるのも怖いです。 人生一回しかないという重い重い現実があります、そこにはどんな物理法則も変えられないという絶対的なルールがあるので一度でも足を切断やらしたら永久に手が生えてくる事もありません、誰かが死んだら永久に会えません、一度顔面に塩酸をかけられたら二度と顔は再生しません、一度ホームレスになると一生勝ち組になれません、一度HIVになると一生治りません。 悲惨な人生だったら一生悲惨なままです。離婚したら離婚したままで今後誰からも愛されることはありません。 そういうのが怖い。 人生は可塑性がありすぎて一度何かをやったらそこから変わる事がないです。 死と生は表裏一体です。 死があるから生が尊いものになります。一度しかないから一生とかいう言葉を使い自分の人生を有り難がります、死があるから身近な人が死ぬのを悲しみます。 私は、この物理法則が次々変わるのがこわいです。 現実が移り変わるのが怖い。 いまこの瞬間があるのが怖いです。 いつも恐怖や不安を抱えています。 私達は現実に金融資本で搾取されてます、労働で自分の貴重な人生の時間が搾取されています、二度と返ってこないです。 何処かで働いたら金になるだけでその時間は二度と返ってこない、私の親は底辺職に就いてたので何十年と人生を安く買い叩かれて人生という貴重な時間を費やしていました。 私は20代ですが私の貴重な時間を使用して作られた富を老人に吸われています。 また同じように過去の偉人や天才やらが貴重な人生を使用して発見、発明した数式や発明品やらなんやらを何の苦労もなく得ています。 そういうのが怖い。 いつか重い病気になったり、事故ったりして苦しみのが怖い。 来月の今頃は何か嫌な悩みが増えてると予想できるのが怖い 明日は口内炎で口が痛いかもしれない。 明後日は親友と仲違いするかもしれない。 生きるのが怖い。死ぬのが怖い。 恐怖から逃げたいです。