私の知る情報のみでの考えです。 ご気分を害されてしまうかもしれませんので、先にお詫び申し上げます。 私はお寺さんでよく参禅しております。 時々お話を聞いていますと、色々と疑問が出てまいりました。 お寺では精進料理と思っておりましたが、時には肉も魚も食されるそうです。 外食にも出掛けられ、肉魚お酒など好きに召し上がられます。 お接待で出された場合は、残して捨てられてしまうくらいなら 犠牲になった命ももったいないので頂くのは分かりますが、 自分から望んで食べるのは何故なのでしょうか。 私も普通に食べてきておりましたが、海外の電気も水道もない村に行ったことがあり、 牛やヤギの首をナイフで切って殺して解体して刻んで…と全て見てしまい、 それから食べたくなくなりました。魚も、網がかけられれば必死に逃げます。 人間は自分や他の人の肉を削いで食べようとはほぼ絶対にしませんが、 その他の生き物に対しては美味しいと言って頬張ります。 その時点で人間(自分)より下に見ているのではないでしょうか? : お寺のご子息の多くの人は、人前では真面目にはされておりますが、 嫌々なりました、仕方なくなりましたと言われます。 お坊さんになりたくてなった方にお寺を継いでもらおうとしないのでしょうか? : お坊さんと言えど男性ですので性欲があるのはもちろんですが 参禅者にセクハラをしてくる住職には正直減滅いたします。 お金があるのなら、お店に行けばいいと思うのです。 またお金をお持ちの方は、金があるから…と余裕を見せますが、 そんなにあるなら困っている所に寄付でもすればいいのではないでしょうか? : 真面目に誠実に仏教を学び、実践しているお坊様はどこかにいらしゃいますでしょうか? そういった方がいらっしゃればそちらに参ってみたいです。
はじめまして 供養に関して知識が乏しく、お坊さんの意見をお伺いしたいと思い登録いたしました。 私には長年お付き合いしている男性がいます。私はシングルマザー、彼もシングルファザーです。 先日、彼の息子さんが自死で亡くなってしまいました。遺書には学生の頃から生き辛さを感じていたと書かれていたそうです。 私は親族ではありませんが、お通夜お葬式と行かせていただくことができました。 お通夜お葬式といっても、お坊さんも呼ばず、戒名やお経なども一切ない家族がお線香をあげるだけのものでした。 私は田舎育ちということもあり、よくあるお通夜お葬式しか知らなかったので、少し不安なのです。 彼は冠婚葬祭に関して何も知識がなく、信心する宗教などもないので、なんのこだわりもないようなのですが、このようなお通夜お葬式でも故人は成仏できるのでしょうか? 彼とは神社仏閣巡りをしたり、西国三十三所巡りにも行ったりしているのですが、、、。 自分が供養する気持ちがあれば、形などにはこだわらなくてもよいのでしょうか? どうか、お導き下さい。
はじめまして!いつもハスノハでの相談をありがたく拝見しております。 私は現在大学4年で、葬祭業者として内定を1ついただいております。 しかし、転職のしにくさや、忌みに触れる仕事であることから、親や学校のキャリアセンターから葬祭業での就職に反対され、不安になる気持ちを抱えております。 もともと苦しんでいる人不安を抱えている人を助けたいと言う思いで就職活動をしており、葬祭業は私が大好きな祖父をなくしたときにきちんとお見送りできてよかったなぁと思ったことから志しました。ただ、親の期待に応えたい、もう少しお給料を良くしたいなどの思いもあり、同じ志を生かせる職業として病院での事務などを目指して就職活動を続けておりますが今回のコロナ禍の情勢もあり、なかなか他の内定が出ない状況にあります。 ハスノハのお坊様たちは実際に葬祭に深く関わるお仕事をなさっていると思います。その際周りに反対などされなかったか、不安はなかったか、葬祭に関するお仕事を日々どんなお気持ちでなさっているのか、また、必死に努力をしてもなかなか結果に結びつかない状況にどのように対処されているかなど伺いたいと思っています。 色々と質問して申し訳ありません。ぜひお答えをいただければありがたいと思います。
現在大学2年生で、宗教学を学んでいます。 大学に行く意味を見出せなくなってきました。 親が教員なので、中学生のころからなんとなく教員を志していましたが、いざ大学に入ったら、他の教員志望の人たちの意識の高さに圧倒されてしまい、さらに教えることが得意でも好きでもないことに気づいてしまい、もう教員という道は諦めようかなと思っています。 そもそもこの大学、学部に入ったのも、志望していた大学すべて(教育系でした)に落ちてしまい、親は浪人はしてほしくなかったようで、受けるつもりがなかったのに親から勧められ、二次募集で受けてみたら受かったので入学しました。宗教学に特別興味があったわけでもないのですが、当時は教員免許が取れればいいと思っていたので軽く考えていました。ですが教員以外の道を探すとなると、今まで考えたこともなかったし、学問上現実的に考えられる就職先も少ないし、ピンとくる進路はありません。何のために興味のない学問を勉強しているのかと絶望的な気持ちになります。 サークルに所属していて、信頼出来る仲間もいます。サークルはとても楽しいです。友達がいるからなんとか通えているけど、その友達が夢や目標に向かって学びたい学問を学んで頑張っているのを見ると、自分は何をしているんだろうか、何のために大学に通っているのかと考えてしまい、辛いです。 もう大学をやめたいとも思いましたが、まだ幼い妹もいて、家に経済的余裕はないし、私自身が大学をやめるとして何をしたいのかはっきりしているわけでもないので大学をやめる勇気はありません。親に相談する勇気もありません。友達にも恥ずかしくて言えません。 かといってこのままなんとなく残りの3年間を過ごしてやりたくもない仕事につくのも嫌です。 最近は本当に大学で講義を受けるのがつらくて、授業に出ているフリをしたり、さぼったりすることもあります。 私はこの先どうしたらいいのでしょう。自分のやりたいことも、どうしたいのかもわかりません。何か助言をくださると嬉しいです。
憎まれ役。伝えなくてはいけないことは誤解が生じないようハッキリと言う必要があるわけで。とはいえ、やっぱり辛い時もあります。 損な役回り。それほど良いものでもないんだけどなぁ、妬まれ悪く言われればいじけてしまうこともあります人間だもの。 図々しいお願いなんですが、こんな私を励ましてもらえますか。 事情を知る人の言葉は、どうしても理想論で響いてこないんです。 一人で背負い込まなくていい、無理しなくていいと言われても、誰かがやらなくてはいけないわけで。誰も代わりはいないため私が引き受けるほかない。覚悟を決めた以上、投げ出すことはできないから淡々とこなしてはいるけれど。 部外者(例えば友人知人)に話して愚痴る質ではないため、この苦労も努力も知る人は殆どいない。別に理解されたい訳ではなく、落ち込んで孤独に負けそうになることがあるんです今のように。 旦那ちゃんの言葉は、色んな意味で明後日を向いているので笑えてしまって励ましにはならず。 たまーに、ただ純粋に、励ましの言葉が聞きたいなあと思ってしまいます。事情が分からこその純粋な励まし。 質問ではない無理なお願いで申し訳ありません。
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
今高校生なのですが、天台宗のお坊さんになりたいです。 どのようにしてお坊さんになることができるのですか? 仏教系の大学に行くべきなのでしょうか?
真言宗では真理を第十住心として、 全てそこに向かう道の半ばであるように説かれていると、 理解しているのですが、 浄土真宗は第一住心から第十住心の中のひとつなのか 全く別の道なのか、また、たどり着ける真理に違いが有るのか お教えいただけると有難いと思います。
姉の旦那様のお母様が亡くなりました。 急の訃報だったと母から連絡があり、兄弟の私と兄夫婦は、 御葬式のみ参列して貰えれば良いとの事でした。 直ぐに姉と御主人に連絡を入れ、 お悔やみをお伝えし、早々に失礼しました後、 御葬式に行くにあたり、 再度母に今度はメールで連絡を入れたのですが、 故人の宗派と、喪主、故人の名前を聞いた所、 「何するの? 宗派は分からない、、、 名前も漢字が難しい、、、」 と不審がられてしまいました。 以前にもこちらのサイトにご相談をさせて頂く機会がありましたが、 私は少しお寺に行く機会が多いので、 宗派によって葬儀のマナーや、持ち物などが違うと言う、 少しだけの知識ですが、そういった事もありますので、 母が、故人の宗派を聞いている物と思い伺ったのですけれども、 予想外に引かれてしまったので、私は驚いてしまいました。 母には、 故人の宗派が特にない場合はそれでいいけど、 あるようだったら、聞いておいた方がいいよ。 豆知識程度に読んで貰えれば幸いです。 と、返信をしておきました。 返事が来ない所を考えますと、さらに不審がられてしまったかもしれませんが、 仕方ありませんね(⌒-⌒; ) 普通はそのような反応をする物でしょうね。 御葬式に行くにあたりお教え頂きたい事があります。 子供の頃に出て依頼ですので、 御香典の書き方や、数珠、葬儀時のマナーについて、 お教え頂けますでしょうか。 故人の宗派はこれ以上は聞かない方が良いかもしれませんし、 教えて貰えなかもしれません。 現状、催事場での家族、近い親族葬のようです。 行った時に、どの状況でも大丈夫のようなマナーや、 持ち物などがありましたら、宜しくお願い致します。 又、会社に親族関係で不幸があった際は、 伝える事になっておりますが、 ご確認でお伺いしたいのですが、 姉の旦那様のお母様は3親等でしょうか。 (私の会社からの弔電はいらないよと、 断られたら報告は控えようと思います。) ご質問は以上です。 長いご質問で申し訳ございません。 サイトを検索すればわかる事だとは思いますが、 皆様からのお伺いが、より安心致しますので、 どうぞ宜しく御願い申し上げます。
はじめまして。冷静になるために、ご相談させていただきます。1年ほど前から、ある禅宗の修行僧の方とお付き合いをしています。 ただ先日、私から将来の話を切り出したところ、師匠(老師)の跡を継ぐため妻帯はできないと言われました。 1年前は将来を考えて告白をしてくれたそうですが、そんな無責任なことがあるのでしょうか。 彼の人生ですから、私がとやかく言えることではないと思います。ただ、残された私の心はぼろぼろです。 日々の修行をしていくなかで、そういう選択肢が頭をよぎったとしても、1年前の気持ちを貫いて欲しかったのです。1人の人間を傷つけてまで、決心することでしょうか。 私には修行や仏教の世界はわかりません。その道で生きてこられた方々に、冷静なご意見がいただきたく、相談させていただきました。よろしくお願いいたします。
はじめまして。 自分で考えても答えが見つからず、この場をお借りして質問をさせていただきました。 近頃、自分が何のために生きているのかわかりません。人は皆、何か目的や目標を持って生きているのだといいます。そのために一定の苦痛を我慢し、対価を得ているのだと思います。 それでは、何も無い私は一体どうしたら良いのでしょうか。 特別幸福でも不幸でもありませんし、現在の生活や職にそれほどの不満があるわけでもありません。ただ、今後生きていくうちに、生きる目的や意味が見つかるとも思えないのです。自分の人生に、何の楽しさも見出すことが出来ません。 私は、偶に人に容姿を褒めていただくことがあります。それを喜ばしいことであると捉えられていたのも短い間のことで、現在は一種の偏見や差別のように感じられてならないのです。 ある人が言うには、私はこのみてくれのおかげで何の苦労もせず、稚拙さを見逃され、失敗を許される楽な人生を送っているそうです。 そうかもしれないし、そうではないかもしれません。仮に私がそうではないと思っていても、周囲からはそう捉えられているのだと思うと、相手にも、そして自分にも期待するのをやめるほか、ありません。 こんな自分でも人と関わるうちに人間らしい感情を育てることができるのではないかと考えたこともありました。しかし、そうではありませんでした。何もない自分を知られる恐怖からか、近づいては離れるということを繰り返し、結局相手を傷つけてしまいます。 こんな人間が、これからどうやって生きていけば良いのでしょうか。 毎日、死ぬ事を考えています。 死ぬことではなく、死の直前に訪れるであろう痛みへの恐怖から実行に移せずにいます。 これまでの人生のこと、今後の人生のことを私なりに沢山考えたつもりです。死後周囲の人間に迷惑がかからないよう、できる限りの準備は整えてあります。 早く、この煩わしいすべてのことから解放されたいです。 私はまだ手遅れではないのでしょうか?
真言宗の聖天様の勤行を毎日しております。お寺の勤行に入っていなくて、私が勝手ながらネットで拾った勤行の以下の真言はお唱えしてもいいのでしょうか? 勿論勝手にいれたのだから駄目なのでしょうが気になっております。 特に悦與と調和の真言の意味が知りたいのですが。 1 召請真言 オン ハキュラシュダ デイバタ ヤジャク ソワカ 2 供養真言 オン アボキャ ホジャマニ ハンドマ バジレイ タタギャタ ビロキテイ サンマンダ ハラサラ ウン 3 悦與 オン ハラウンマニエイソワカ 4 調和 オン シャトロ ハラマタニエイ ソワカ 以上です。 何卒ご教授頂ければ幸いです。
なぜ皆様方はお坊さんになろうと思ったのですか? 後を継ぐにしても、色々あるのではないかなと。 いきさつや、思いたったことなどぜひ教えて下さい。
婚約者を亡くして5ヶ月が経とうとしています。 仕事も再開し、元の生活に戻りつつありますが、家に帰った後や休みの時など、無性にさみしさがこみあげます。 仕事が忙しい上に結婚のことでさらに無理をさせてしまったのかもしれない、子供がほしいと私が言ったばかりに高血圧の薬を飲まずにいてしまったのかもしれない、などと私と出会わなかったら彼は生きていたのかもしれないと考えてしまいます。 結婚の話を伝えていた友人にも彼の死を伝えられていません。 まだ自分で伝える勇気がないということと、友人たちに私がかわいそうだと思われたくないという気持ちがあります。結婚の話をしていたとても幸せな私のままの記憶でいてほしいという、私のただのわがままです。 どうしようもない位悲しくて大泣きをする日もあれば、泣かずにいられる日もあります。 いつになれば、この悲しい出来事にきちんと向き合えて、気持ちにブレがなく考えられるのでしょうか。 質問にまとまりがなく申し訳ありません。 愛する人を亡くしたものへ、生きるための力をいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
私は統合失調症という精神病を患っています。毎日病院のお薬が手放せません。そのお陰で他の人が当り前にできることも、私にはできなかったりするのです。 昨日だったか、出家したいということを書いた覚えがありますが、実は半分夢物語だと思っています。症状で集中力がなく、情緒不安定、薬の副作用でいつも眠いし、今の仕事(作業所)もきつくて一時間くらいで帰宅しているのです。 この病気で二回、入院した経験もあります。 この病気にかかってから、私は二回宗教を変えました。深く考えたつもりが情緒不安定になりすぐ不安が沸き上がって、自分の進む道に自信が持てないのです。しかし以前慎重だったのが、症状により衝動的に行動するようにもなっています。深く考えたつもりで衝動的に行動→不安→自信をなくすの繰り返し。 私、前はキリスト教のシスターや牧師になりたいと思ってたんですよ。仏教もすぐ離れてしまうかもしれません(イスラームやキリスト教にいたときも、すぐ宗派を変えたりしていました) 真言宗→浄土真宗→曹洞宗を行ったりきたりしてます…(笑) 病気と本来の自分の性格の区別ももはやつかない。 なんで私はこんなんなんでょう?前世の因縁ですか? なんかよくわからなくなりましたがなんかメッセージをください。
道元禅師様について書かれた本を読んでいました。 そこに「本来本法性 天然自性身」と教典にあるのに、なぜ修行をしなければならないのか、と道元禅師様は当初疑問に思っていたとありました。 その疑問から、如浄禅師の「坐禅はすべからく身心脱落なるべし」という言葉で解き放たれた。とありました。 そこで... ①なぜ修行をするのでしょうか ②修行とはなんでしょうか ③修行の目的はなんでしょうか ④なぜ道元禅師は如浄禅師のその言葉で、この疑問から解放されたのでしょうか。 曹洞宗の和尚様はもちろん、いろんな宗派の、いろんな方のご意見を聞いてみたいです。 私は強がっていますが、精神的に弱く、心が不安定になりやすいです。 いろんな方に支えられ、助けられて生きていると実感しています。 常に100%の心ではなくて、上下することの少ない、安定した心を持てるようになりたいです。
相手は、ノロウイルスです。 日常生活に支障を来す程の、強い恐怖心や不安感があります。 何とか仏教の教えをヒントに、克服できないものかと質問しました。 例えば、 (1) 汚物を処理する時の精神的ストレス (2) 激しい症状による肉体的苦痛 (3) 二次感染の不安 これらを過剰に恐れない考え方(捉え方)が見つかれば、気持ちが楽になり、もっと生きやすくなると思います。 適切な対処法は厚生労働省のHPを見て知っています。また、どんなに予防しても対処しても100%じゃない、なるときはなるもの、と分かっています。でも、心が追い付いてこないのです。 3つのうち1つでも構いません。ノロウイルスに対して動じない心を持てるよう、どうか知恵を貸して下さい。 よろしくお願いします。
兼業の寺院の長男です。 姉が一人いますが私が跡継ぎとして育てられました。 子供の頃に跡を継ぐかは将来考えると親に言ったら叱られたのが衝撃で、以来、自分が必ず寺を継ぐものと思って生きてきました。 祖父も父親も僧侶として素晴らしいと思った事もなく、僧侶資格を取る為の過程で出会った講師の方達の話もポジショントークばかりの様に感じて僧侶に良い印象はありませんでしたが、経典や宗祖の残した言葉は興味深い部分もありましたし、継ぐ事で世話になった親の肩の荷を下ろしてあげられて、檀家さんの役に立つなら継ぐのも悪くないと納得していました。 しかし私が結婚してから、私達夫婦は寺と仕事を両立する為に両親とは異なる生活の仕方を計画している事を話すと、両親は話し合うまでもなく「寺をやる気がないのか」「そんなに寺を軽視していたのか」等と不快感を示しました。私達は詳しく説明して、話も聞かず頭ごなしに否定するのはおかしいと両親に抗議すると「お前達の考えを知らなかっただけ。自分達の態度は悪くない」と、話し合いもせず不快感をぶつけた自分達の失礼な態度を認めません。 両親は私が成人しても寺について何の話し合いもしませんでしたが、両親は私達が両親の気持ちを察して両親の思い通りに暮らすものと勝手に信じていたようです。 挙句の果てに私が跡取りである事や両親の寺のやり方は「祖父が決めた事であって自分達に責任はない」とさえ言いだしました。 もちろん私の人生選択に責任を負うのは私自身ですが、間違いなく私に影響を及ぼしてきた親なのに、恥ずかしげもなくそんな事がよく言えるなと思います。 姉は姉で結婚して家を出る時も、寺の事など気にもかけなかったくせに、両親の肩を持ち、後継ぎなら両親のやり方を踏襲するのが当たり前だと私達を責めます。 私が「貴方が私の立場なら今の時代でも両親のやり方を黙って引き継ぐ事を受け入れるのか?」と聞くと姉は「自分が跡取り?意味が分からない」という様子で、姉にとって跡取りとは私以外であるはずがなく、姉が私の代わりになる事を想像するどころか、私が継ぐ事をありがたいと思った事さえなかったようです。 私は寺や家族の事を思って選択の幅を狭めてまで生きてきたのに、家族にその人生を軽く見られてなお継ぎたいとは思わなくなり跡取りは辞退したのですが、寺族の跡取りへの思いというのは一般的にこの程度なのでしょうか。
浄土真宗の寺院の住職の子どもは、やはり跡取りとして育てなければいけないのでしょうか。 私は浄土真宗の寺院の長男であり、現在は一般企業に勤めておりますが、ゆくゆくは継ぐつもりでおりました。 しかし、「寺で生まれたから」という理由で小さい頃から跡取りとして育てていくことに疑問があり、子どもの人生を方向づけてしまう育て方はしたくないと考えております。 その旨を父である現住職に伝えたところ、「そのような考えであるならば絶対に継がせられない」とのことでした。 真宗に限らず、現在まで多くの寺院が残っていることは、安定した世代交代が可能である世襲がその一要因であろうとは思いますが、現住職がそこまで反対する理由を図りかねています。 私の代で廃寺するつもりは毛頭なく、今までの経験を活かして、地域に開かれたお寺にしたいと考えていました。考えが甘いかもしれませんが、万一子どもが継ぎたいと言わない限りは外部の人に継いでいただくつもりです。 とりとめのない文章で恐縮ですが、皆様の御意見を頂戴したいです。