約1か月前、ひき逃げに遭い、夫は突然帰らぬ人となりました。「いってきます」「いってらっしゃい」「バイバーイ」これが、主人と私、そして1歳の娘との最後の会話となりました。 夜11時過ぎ、警察の方から「ご主人が道に倒れていて怪我をしており、意識もないので救急車で運ばれました。今から病院に行っていただけますか?」と言われ、私は、飲みすぎて転んじゃったのかな?という程度にしか思っておらず、「ご迷惑をおかけしてすみません。すぐ行きます。」 と答えて、娘を連れて病院に行きました。 すると、何やら慌ただしい雰囲気…聞くと、「事故に遭ったようだ」と。 それからバタバタと手術室に運ばれ、私と娘は待合室で待っていました。 事態の深刻さに気付いたのは、手術室から戻った主人にICUで面会した時。たくさんのチューブで繋がれ、血だらけでした。 そして、主人の意識は二度と戻ることなく、次の日の朝息を引き取りました。まだ30歳でした。 それから、通夜や葬儀など気持ちの整理もつかないまま過ぎて行きました。なぜこんなことになっているのか全く理解できず、心と体がバラバラになっている感覚で、頭がぼーっとしてただただ涙が溢れ、最後まで主人にすがりついて泣きました。 まだよくわかっていない娘は、「おとうさん、ねんね〜」と言いながら無邪気に笑っていました。それを見てまた、涙が止まらなくなりました。 その後、主人をひき逃げした犯人は逮捕されましたが、それで主人が帰ってくるわけではない…心にはポッカリ穴が空いたまま、何もする気になれません。 たくさんの方からお悔やみの言葉をいただき、「娘さんのためにもしっかりね、頑張ってね。」 と言っていただきました。ありがたいです。 でも、「娘がいるからこそ、父親である夫にはいてほしいんです。娘の笑顔が支えにもなるけれど、それを見てさらに苦しくなるんです…」 という気持ちになってしまいます。 これから先、どうやって生きていけばいいのか…娘は心の支えであり、主人が残してくれた宝ですが、それでもやっぱり辛いのです。苦しいのです。消えてなくなりたくなります。自殺しようとは思いませんが、主人のところに行きたいと思ってしまいます。 この苦しみとどう向き合っていけばいいのでしょうか?
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
くだらない質問を何度もすみません。気になったもので・・・ お坊様的な感覚で印象に残ったご飯とかありますか? すごく俗な言い方ですが、「修行の後に飲んだビールは最高だった。」程度で良いです。(これは無いですよね。) ちなみに自分は、山の中腹から山頂まで3往復駆け巡ったあと、3時間後に食べた、ただの白飯が最高においしかったです。 後、まったく関係ないことですが、ここで相談させていただきまして。少し前向きに生きられそうです。 支えてくれている会社の人やアドバイスをくださったお坊様、読ませていただいている悩みの回答等、大変助かりました。 ありがとうございます。
先祖供養はどうのようにすればいいのですか?インターネットを見ても様々です。 正しい供養って何?と思うようになりました。過去帳を作り戒名を付けて1人1人供養しなければならないともありました。 本当にそうなのでしょうか?
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
こちら曹洞宗です。生前戒名を望んでいますが、自分で希望する戒名はあ るのですが、戴くことはできますか。また位についても大姉を希望している のですが、どこかの檀家になっていないとだめだとか規律はありますか。出 来れば永平寺で戴けたらと思っています。他宗では、総本山は戒名に関与 せずというところ、また信女しかお約束できないところもあり、悩んでいま す。よろしく回答お願いします。失礼な質問だったかも知れませんが、お許し ください。祖父が真言宗で高野山で生前戒名をいただいています。
与えて頂いた命ですが、限界です。 この世間から離れ、仏門を目指す事は出来ますか。
「他力本願」という言葉を、先日法事でのお説教で聞きました。とてもありがたい考え方だなと思ったのと同時に、少し腑に落ちないところもありました。 現代人のためか、「自分で努力して得た結果は自分の功績」という考え方が自分でも世間でも当たり前のようになっています。支えてくれる周りの環境や近しい人々の支えがあってこそという考えももちろんわかりますし、それがなければ絶対一人では何一つできないだろうと自分でも実感があるのですが、自分で何かをしたことも紛れもない事実なのに、それをまるでなかったことのようにしてしまうととてもがっかりすると思います。ひどい時は卑屈になることもあります。 他力本願という考え方をちょうどよく受け入れていくために、「自分自身」というものと「自分の行い」とをどのように折り合いを付けて考えていけばいいのでしょうか。心構えのようなものを伺いたく存じます。よろしくお願いいたします。
こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。
最近ニュースで悪い坊主が逮捕されていますが、hasunohaのお坊さんはどう思われていますか?
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
こんにちは。私は、今とても好きな人がいるのですが その人は同性の女性です。 海外ではキリスト教や他の宗教を理由にして同性愛者を排除しようとする人がいたりしますが、仏教が比較的浸透している日本ではあまりそんなことは聞いた事がありません。 仏教では同性愛についてはどのような考え方をするのでしょうか。よろしければ是非教えて下さい。
お世話になります。 夫が亡くなって、初めてのお盆。 まだ気持ちのきりかえも整理もできないまま… まだ未だ、仏壇の前に手を合わせれない自分…遺影に向かって話しかけれない自分がいます。 提灯など、飾る事になってる風習ですが… うまく準備ができません。 あまり、きちんと飾りたくない自分がいます。 でも、光を灯してあげないと、亡き人は来てくれませんよね? そもそも、夫がちゃんと成仏できてるのかもわかりません。日頃からも、線香の匂いが一瞬したり、花のちょっと妙な匂いがしたり、今までに嗅いだことがない匂いがしたり… どれもこれも一瞬です。 やはり、私がくよくよしたり、日頃からお線香をあげなかったり、南無阿弥陀ととなえなかったりしてるからでしょうか。 夫の死が普通と違うので、なんとも言えない気持ちのまま時が経ってます。 長くなりましたが… 初盆、日頃から亡き人は、家族を見守ってくれてたりするし、近くにきてくれてたりするのですよね? なのに初盆になったら、帰ってこられるから.とはどういう事なのでしょうか? もし成仏してなくて、後悔のあまり、常にウロウロしていたらどうなるのでしょうか? 初盆になって、あれこれと、準備をしないといけないのは何故ですか? また15日のお帰りの意味とは… 初盆にかかわらず、常に、ここにいてほしいし、15日のお帰りもないでほしいです。
人の欲にまみれた社会で生きるくらいなら、生きていない方が楽と考えてしまいます。 1. よりサスティナブルな社会へ向けた技術の促進も、結局人間が人間のために、人間が生きやすい社会を持続するためにであって、環境問題はより悪くなるばかりと感じます。 このようにな人間中心の社会が怖くて、そこで働くことも辛いし、そもそも生きることも虚しく感じます。 2. 会社では当然ですが、ビジネスに必要なツールを操るなどのスキルアップを求められ、結局人を評価、差別化して競争することから逃れられないことも辛いです。私は今まで、学歴社会の中で割と上手くいった方でしたが、その分なのか、人と比較し、頑張り続けなければならないことに疲れてしまいました。人間を差別化せず自分もされず、生きていきたいです。 もちろん、友人関係や家族関係において喜びもを感じることもあります。しかし、それよりも結局虚しさの方が勝ってしまいます。周囲の人間が悪い人たちとも思っていないです。 結局、自分自身に原因があるのだと思います。そんな自分も好きになれません。 長くなって申し訳ございません。 生きる喜びをどうしたら見つけられますか?
今まで苦労ばかりの人生でした、両親の病気で振り回された人生です。 父は癌で、母はうつ病があり夜中に発作が起きたとか遺書を書いたもう死ぬと電話がかかってきて、すぐ駆け付けたり、両親の通院に付き添ったりと仕事を休職したりして自分より親のことを優先していました。今も病気の経過が良くないので嫌がる夫に頭を下げて親と同居しました。そのとたん、次は最愛の幼い娘が事故でなくなってしまい、3ヶ月後には母が倒れ救命車で運ばれ今も入院しています。娘を亡くして絶望で起き上がれない状態なのに、父親も体調が悪いので私が色々病院に行かなければならなく辛い毎日です。親を面倒みるのが当たり前だと思っていましたが、なんで自分だけこんな恵まれない人生なのでしょうか? 宿命なのでしょうか? こんなにも辛い人生生きているのがしんどくなりました。この家でもう救命車を4回も呼んでいます。 どうして娘も奪われないといけないのでしょうか、娘だけが生きがいで頼りでした。それなのにどう生きていけばいいのでしょう、死ねと言われている気がして、これでも生きていかなければならないのでしょうか?
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。
今日 日経平均の下落に賭けるお寺、京都の青蓮院門跡が日経平均レバレッジETFを6億円空売りしました。 株とは、人の雇用であり将来 値上がりを期待し投資します。株価は、経済先行指数といい、株が上がれば景気がよくなる兆しとなります。 しかしながら空売りとは、値下がりを期待したもの、大口でしかければ、それだけで、値段は動いたりします。 つい最近も18億円を 高野山真言宗、お布施を外国債などで資産運用し失敗してます。 質問は、財テクがお坊さんの中で流行っているんでしょうか? お寺の維持には 檀家だけでは なかなか回らないんでしょうか?