お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
先日ニュースでも話題にりましたが、シリア難民の3歳の男の子が溺死した件を見て涙しました。 自分にも小さい子供がいますが、多くの子供が何不自由なく育っている日本と、住むところもない多くの難民の子供。 難民の数は年々増加の一途だそうですが、全て大人のエゴの結果です。 どうすれば解決できるのだろう?と思いましたが、なかなか妙案もありません。ご意見いただければ幸いです。
自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで… また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか? あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。
こんにちは。 いつも話を聞いてくださりありがとうございます。 昨年父を亡くしましたが、父が跡継ぎではなかったので残った家族は仏事にうとくて知らなかったり迷ったりの1年でした。 お盆もいまいち他人事でしたので、少し教えていただきたく思います。 (我が家は浄土真宗です。) 父の遺骨は合祀でお寺に預かっていただきました。 お仏壇は実家で母がみています。 初盆ですのでご住職に実家でお経をあげてもらうことにしましたが、それとは別にお墓参りのタイミングはいつが適しているのでしょうか? 合祀ですので、他家も集中してお花もすごい量になると聞きましたし、駐車場も少なくどうしたものか?と悩んでいます🌀 迎え火送り火までは考えてなく簡略化してはいますが、はたしてお盆中の父の魂?はどこにいるのでしょうか? どうお盆の供養をしたら父に届きますか? アドバイスをよろしくお願いします。
こんにちわ 長男は発達障害があり、就労しておりますが、 日々疲労困憊して、苦悩の日々をおくっております。 なかなかむずかしいとはおもいますが、 仏門での修行によって、 克服できないかともおもいます。 なかなか本人をその気にさせるのも 難しいのではありますが、 まずはその可能性が つまりその気になれば、修行する道があるかどうか? を、お聞きしたいです よろしくお願いいたします 伊藤 寿
前回も質問させて頂いた続きになります。 自分の至らなさで彼女に二股され彼女は相手の男性の方に行ってしまいました。そこまでは致し方ないと思って気持ちの整理もついたのですが、その相手の男性が自分の働いている店舗に不幸にも異動してきました。相手の男性も元彼が自分だと知っています。普通に話しかけてきます。せっかく忘れようとしていたのに、いやでも意識してしまい、集中力がきれてしまいます。気持ちもムラがでてきて落ち着きません。 何かいい気持ちの落ち着かせ方や心構えはないでしょうか?
二日前に次男が自殺しました。 22才で発達障害があり就活もうまく行か ず大学から単位不足の為卒業延期の手紙 がきました。手紙を本人に渡し出かけま した。その四時間後に命を絶ちました。 なぜもっと慎重にしなかったのか、 もう1年、学校に行って就活もやり直し てみようかと話しをするべきだったと 悔いています。 そうすれば自殺しなかったと思うと こんな終わり方をさせてしまって 可哀想で申し訳なくて悔いています。 自殺したあと、楽になったのでしょうか 苦悩から解放されたのでしょうか 何のために生まれてきたのか 可哀想で申し訳なくてたまりません。 どうか教えて下さい。
般若心経を素人が唱えると、成仏出来ない霊が寄って来る、取り付かれると聞きましたが本当ですか? 後、寝る前に聞いたり唱えたりすると悪夢を見るとも聞きました、、 写経や坐禅に興味があるのですがこの事を聞いて恐くなり始める勇気がありません。
友人のお父様(曹洞宗寺院のご住職)が危篤との知らせを受けました。 遠くにおり、こちらも仕事を放り出して駆けつけるわけにもいかず、ご存命のうちにお会いできるのは無理なようすです。 もし、ご葬儀に伺うとすれば、一般のかたのご葬儀とどうちがうのか、何か気をつけなければならないことがあるか、寺族の方がやってもらって助かること、物は何でしょうか? どうかお教えねがいます。
死んだらどうなるのでしょうか。 地獄や天国に行くのでしょうか。 それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。 仏教的にはどうなんでしょうか。
僕は浄土真宗に関心を持っているのですが、浄土真宗の信仰は他の宗教とは明らかに異質ですよね。人間の信心には真の心がないから、他力の信心であると。 そこで単純な疑問なんですが、浄土真宗は信仰する宗教なんですか?? 仮に信仰しないのだとしたら、仏に身を「任せる」ことはできないのではないですか?? 人間の信心は真ではない。かといって信心がなければ仏に「任せる」ことができない。 この矛盾点を解消したいのです。 また、親鸞や妙好人と言われた人々はどうだったのでしょうか?
こんにちは。 現在高3で、大学は家を出て京都の大学の仏教の学科を受験しようと思っています。 お寺のお家では無いのですが、高校が仏教系の高校で、授業で教えを学ぶうちに仏教をもっと詳しく学びたいと思ったため、仏教の方面への進学を希望しました。 学びたいことを学ばせて貰える環境に大変感謝しています。 志望理由書に将来のことについて書かなければならないのですが、 将来の夢が今までできたことがなく、大変困っています。 仏教を大学で学んだなら仏教に関係する職業も考えているのですが、お坊さんじゃなくても仏教に関われる仕事はどのようなものがありますか? 仏教の団体?の仕組みをよく知らないため、 教えていただけるとうれしいです。
はじめまして。 あまりにも早すぎる妹の突然の死から一週間が過ぎようとしています。 妹は昨年病気がわかり闘病しておりました。一旦治療が終わり良くなったかの様に思われましたが、今年に入り2月頃から体調不良を訴え治療しておりました。 しかし、良くなる所か悪くなる一方で先日話も出来ないまま逝ってしまいました。 妹には夫と息子が1人おり、位牌や遺骨は妹の自宅に現在あります。 離れているため頻繁に行くことはできません。 また、あちらの家族とは親交が少なく行きづらい状態です。 義弟のせいで妹は体調を崩し、病気にまでなってしまったのだと思われるような日記も出てきました。 そんな人たちの所には行きたいともおもいません。 父や母も妹を失った悲しみが強く、いつも妹に話しかけるような仕草をしています。 妹を思い出しては後悔ばかりで涙がとまりません。 現在、自宅には祖父母の仏壇があり毎日手を合わせています。 こちらには妹の位牌も遺骨もないわけですが、妹に毎日手を合わせたいです。 写真を飾るのも良くないのでしょうか。 写真を飾る場合はどこに置けばいいのでしょうか。 私たちはこれからどのようにしていけばいいのでしょうか。 アドバイスがありましたら教えてください。 よろしくお願いいたします。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。
仏教について、学生時代に少し学びました、 お釈迦様は、「諸法無我(自分という実態は無い)」と 解かれたと教わりました。 しかし、「仏説阿弥陀経」の中で、四カ所「我」という漢字が出てきます。 「我見是利」「如我今者」 「亦称説我」 「當知我於」とあります。 この上記の4つの「我」と、「諸法無我」の「我」は何が違うのでしょうか? お教えいただければ幸いです。 よろしくお願いします。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
お世話になっております。 昔から貴女は幸せだと言われても幸せだと思えませんでした。どうしたら幸せだと感じられますか。この悩み、悩めることも幸せなんですか。なにが幸せなんですか。幸福感の追求も煩悩ですか 例えば小学生の時、UNICEFの募金活動を見ても、「自分が死ねばアフリカの子供は長生きできる」と母に言って叱られた思い出があります。幸せだから、自分は不幸だ、死んでいい人間だと思ってはいけないのですか…? よく思い出せば4歳くらいから人に気遣いをして生きてきました。が、それが原因とは考えられません。いつも何かしらの理由をつけて自己完結で悩まないようにしてますが、いつも考えてしまいます。単純に経験不足で、年数を積めば自ずと理由をつけて消える悩みかもしれません…。はたから見て嫌な質問してごめんなさい。大分お世話になっているので、この質問で最後にします。しかし20うん年生きてきて一番の悩みなんです。ご回答のほどよろしくお願い申し上げます。
昨日無事に、祖父の四十九日法要と納骨式を終えました。 初めての法事だったこともあり、 いくつも失敗してしまったことを気にしています。 (1)葬儀屋さんから、当日はお位牌と骨壷をお持ちくださいと案内され、遺影を持って行きませんでしたが、祭壇には遺影を飾る場所がありました。 (2)祖父の骨壷に名前などが入っていませんでした。納骨式でご先祖様の骨壷を見て、名前などを刻印できたことを知りました。知っていれば入れてあげたかったのに… (3)最後にお斎に向かい、親族揃って会食を済ませましたが、一番大切な祖父のお位牌をお墓に置いたままでした。帰り際に取りに行きましたが、とんでもない大失態です。 後悔しても後悔しきれず、祖父にも申し訳ない気持ちです。 何かできることはありますでしょうか。
死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 何度もhasunohaで 相談して お坊様達から お言葉をいただいても 死にたい気持ちは変わりません。本当に死にたい。