僕は浄土真宗に関心を持っているのですが、浄土真宗の信仰は他の宗教とは明らかに異質ですよね。人間の信心には真の心がないから、他力の信心であると。 そこで単純な疑問なんですが、浄土真宗は信仰する宗教なんですか?? 仮に信仰しないのだとしたら、仏に身を「任せる」ことはできないのではないですか?? 人間の信心は真ではない。かといって信心がなければ仏に「任せる」ことができない。 この矛盾点を解消したいのです。 また、親鸞や妙好人と言われた人々はどうだったのでしょうか?
こんにちは。 現在高3で、大学は家を出て京都の大学の仏教の学科を受験しようと思っています。 お寺のお家では無いのですが、高校が仏教系の高校で、授業で教えを学ぶうちに仏教をもっと詳しく学びたいと思ったため、仏教の方面への進学を希望しました。 学びたいことを学ばせて貰える環境に大変感謝しています。 志望理由書に将来のことについて書かなければならないのですが、 将来の夢が今までできたことがなく、大変困っています。 仏教を大学で学んだなら仏教に関係する職業も考えているのですが、お坊さんじゃなくても仏教に関われる仕事はどのようなものがありますか? 仏教の団体?の仕組みをよく知らないため、 教えていただけるとうれしいです。
こんにちわ 長男は発達障害があり、就労しておりますが、 日々疲労困憊して、苦悩の日々をおくっております。 なかなかむずかしいとはおもいますが、 仏門での修行によって、 克服できないかともおもいます。 なかなか本人をその気にさせるのも 難しいのではありますが、 まずはその可能性が つまりその気になれば、修行する道があるかどうか? を、お聞きしたいです よろしくお願いいたします 伊藤 寿
死んだらどうなるのでしょうか。 地獄や天国に行くのでしょうか。 それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。 仏教的にはどうなんでしょうか。
はじめまして。 あまりにも早すぎる妹の突然の死から一週間が過ぎようとしています。 妹は昨年病気がわかり闘病しておりました。一旦治療が終わり良くなったかの様に思われましたが、今年に入り2月頃から体調不良を訴え治療しておりました。 しかし、良くなる所か悪くなる一方で先日話も出来ないまま逝ってしまいました。 妹には夫と息子が1人おり、位牌や遺骨は妹の自宅に現在あります。 離れているため頻繁に行くことはできません。 また、あちらの家族とは親交が少なく行きづらい状態です。 義弟のせいで妹は体調を崩し、病気にまでなってしまったのだと思われるような日記も出てきました。 そんな人たちの所には行きたいともおもいません。 父や母も妹を失った悲しみが強く、いつも妹に話しかけるような仕草をしています。 妹を思い出しては後悔ばかりで涙がとまりません。 現在、自宅には祖父母の仏壇があり毎日手を合わせています。 こちらには妹の位牌も遺骨もないわけですが、妹に毎日手を合わせたいです。 写真を飾るのも良くないのでしょうか。 写真を飾る場合はどこに置けばいいのでしょうか。 私たちはこれからどのようにしていけばいいのでしょうか。 アドバイスがありましたら教えてください。 よろしくお願いいたします。
自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで… また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか? あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
仏教について、学生時代に少し学びました、 お釈迦様は、「諸法無我(自分という実態は無い)」と 解かれたと教わりました。 しかし、「仏説阿弥陀経」の中で、四カ所「我」という漢字が出てきます。 「我見是利」「如我今者」 「亦称説我」 「當知我於」とあります。 この上記の4つの「我」と、「諸法無我」の「我」は何が違うのでしょうか? お教えいただければ幸いです。 よろしくお願いします。
お世話になっております。 昔から貴女は幸せだと言われても幸せだと思えませんでした。どうしたら幸せだと感じられますか。この悩み、悩めることも幸せなんですか。なにが幸せなんですか。幸福感の追求も煩悩ですか 例えば小学生の時、UNICEFの募金活動を見ても、「自分が死ねばアフリカの子供は長生きできる」と母に言って叱られた思い出があります。幸せだから、自分は不幸だ、死んでいい人間だと思ってはいけないのですか…? よく思い出せば4歳くらいから人に気遣いをして生きてきました。が、それが原因とは考えられません。いつも何かしらの理由をつけて自己完結で悩まないようにしてますが、いつも考えてしまいます。単純に経験不足で、年数を積めば自ずと理由をつけて消える悩みかもしれません…。はたから見て嫌な質問してごめんなさい。大分お世話になっているので、この質問で最後にします。しかし20うん年生きてきて一番の悩みなんです。ご回答のほどよろしくお願い申し上げます。
昨日無事に、祖父の四十九日法要と納骨式を終えました。 初めての法事だったこともあり、 いくつも失敗してしまったことを気にしています。 (1)葬儀屋さんから、当日はお位牌と骨壷をお持ちくださいと案内され、遺影を持って行きませんでしたが、祭壇には遺影を飾る場所がありました。 (2)祖父の骨壷に名前などが入っていませんでした。納骨式でご先祖様の骨壷を見て、名前などを刻印できたことを知りました。知っていれば入れてあげたかったのに… (3)最後にお斎に向かい、親族揃って会食を済ませましたが、一番大切な祖父のお位牌をお墓に置いたままでした。帰り際に取りに行きましたが、とんでもない大失態です。 後悔しても後悔しきれず、祖父にも申し訳ない気持ちです。 何かできることはありますでしょうか。
死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい 何度もhasunohaで 相談して お坊様達から お言葉をいただいても 死にたい気持ちは変わりません。本当に死にたい。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
死にたいです 泣いてばかりです 某芸能人方も辛くて死んだんだと思います 世間の人はなんで…とか思うかもしれませんが死ぬほど辛いという事ですよね なぜ嫌なことをしながら生きないといけないのでしょうか なぜ頑張って生きなきゃ行けないんでしょうか 自分が満足したら死んではいけないのでしょうか
そもそも地球上の生命体は、なぜ生まれ、生かされているのでしょうか? 神や霊魂を説かない仏教では、空の思想がありますが、すべてが一体である意識の集合体がいわゆる他宗教で云う処の神 なんでしょうか? お釈迦さまは無記とされていて、信じる人は信じるで良いという姿勢だと思います。 しかしこれで、苦を抜いても、生かされている意味は分からないし、目指すところの解脱は、単に無になることと誤解されやすいと感じます。 神や霊魂については仏教では賛否両論ありますね。どう思われますか?
9月に主人を亡くしました。 寂しくて悲しくてたまりません。 でも泣いても怒っても何をしても主人は帰ってきません。わかっているのに、心がついていけずほとんど毎日泣いてしまいます。 だけど、主人の成仏を願って毎日手を合わせ 南無阿弥陀仏と朝夕唱えています。 主人はそばにいる。見守っていると言われますが、感じることが出来ません。 どうしたら、主人がそばにいてくれていると感じられるようになりますか? 主人の気配を感じて生きていきたいです。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。