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hasunoha 問答検索結果 : 「 生きる意味 」
検索結果: 6359件

生きることをやめたい。

こんにちは。 29歳、医療職の女です。 いつからか、タイトルのように『生きることをやめたい』と思うようになりました。ですが、自分の命を経つ一歩が踏み出せずここにいます。 とても恵まれた環境にいることは自覚しています。家族からも愛され、幸いにして友人や恋人と呼べる関係の人もいます。楽しいと感じることもたくさんあるし、幸せを噛み締めることもあります。 ですが、その楽しさや幸せを感じているときでも「死にたいか?」と問われれば「はい」と答えられます。死ねば周りの人が悲しむことも想像できます。それでも、もう生きていたくないのです。 なぜか。 自問自答すると、結局 自分のことを好きになれない 自分が無価値だと感じている ことが根底にあるように思います。 冒頭に申しましたように、医療をかじっているので、この自己肯定感の低さをどうにか変えれば良いのだろうということはわかります。 でも変えられないのです。変えてまで生き続ける理由も価値も自分にはないと考えています。だからずっと“生きていたくない”と思いながら毎日生きています。事故や事件に巻き込まれて死ねないかな。このまま寝て目が覚めなければいいのに。 ただでさえ、死ぬことすらできない自分が嫌いなのに、自分の失敗を酷く嫌い、ストレス耐性の低い私は、ちょっと嫌なことがあるとさらに自分のことが嫌いになります。 そんな精神状態で人を励ましたりケアしたり指導したりする仕事もつらい。 こんな気持ちを抱えながら生き続けるのがつらくてたまりません。このつらい気持ちから逃げたくてたまりません。 理由なく生き続けるには無価値過ぎる自分は、どうすればいいのでしょう(生きるのに目的や理由が必要とは思っていませんが…)。この気持ちにどう折り合いをつければ良いのでしょう。 むしろなぜ皆さんは生きていられるのですか?死にたいと考えることはないのですか? とりとめのない内容ですみません。 死ぬ勇気はないので、当分自ら死ぬことはないと思いますが「死にたい」「自分など死んでしまえ」「なぜ死ねないんだ」と言いながら泣く日々が少しでも楽になればと思い相談させていただきました。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 21
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泣けてくる理由がわからない

半年前、母が95歳で亡くなりました。高齢ではありますが直前まで元気だったので、周りからしてみれば突然のことでした。 母は亡くなるその日、私の目の前で倒れ、その後数時間であっけなく逝ってしまいました。 若い頃は活発で正義感が強く面倒見のいい真面目な母でした。晩年は年相応に不自由な身体にはなっていましたが、亡くなるその日まで自分の意志を持って生活していました。 ただ、私に対しての干渉が酷く、何かにつけて口を出してきて、自分の思い通りにならないと機嫌が悪くなる人でした。私も反発して声を荒げることはありましたが、私を産んで育ててくれた母だからと思い、できる限り母の要望には応えるようにし、身の回りの世話もしました。けれどもいつしか母の存在がとても鬱陶しくなりました。今思い返しても腹が立つことの方が多か思い出されます。 だからでしょうか、母を看取った直後、悲しみや寂しさはなく、開放感しかなかったです。 ところが葬儀が終わった翌日から、なんとも言えない不安感に襲われるようになりました。何かにつけて母が倒れたその瞬間のことやその時の母の表情、母の声にならない声、倒れる数時間前の様子など、繰り返し繰り返し思い出し、胸が苦しくなります。そして一人になると突然スイッチが入ったかのように込み上げてきて、大声で泣いてしまいます。 寂しくもないのにどうして泣けてくるのか、何度自分に問うても未だよくわかりません。 同じような境遇の人と話をしても、皆それぞれ少しずつ想いが違い、この自分の感情に説明がつかずモヤモヤが残ります。 悲しくもなく寂しくもないはずなのに、なぜ涙が出てくるのか、ずっと考えてばかりいます。 なかなか母の遺品整理をする気にもなれず、自分自身の今後の生活にも希望が持てません。 この感情を説明づけることは無理なことなのでしょうか。

有り難し有り難し 13
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2025/01/30

宗教の社会学

 イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。  キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。  即ち「生」が罪としています。  釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。 「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で 「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」 この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。  この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。  即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。  三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。 また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。  

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死ぬことに決めたのに死なせてくれない

義理の母には子供の頃から迷惑をかけてきて、怪我をさせたことや所持品を誤って壊してしまったこともあります。父親に騙されて再婚したと言っていましたし、恨まれる理由には山ほど心当たりがあるので、昔から何度も「気持ち悪い」「嫌いだ」と言われても納得できます。自分でも世間様に馴染めない人柄だとは自覚しています。 なのでもう無理に生きていたくないのですが、どうにも母は私のことを「生き汚く悪賢い怠け者」と思っているようです。日々聞かされる私の存在を疎ましく思う言葉の数々に堪えてまで生き恥を晒そうなどとは考えていませんし、昔から考えていることは何もかもうまくいかない空回りの人生で悪知恵などあろうはずもありません。怠けたいのは事実ではありますが、そんなぐうたらな人間に生きる価値などないことも百も承知、なので死にたいのです。 こういった話をどこにしても、「母は本当は私のことを想ってくれているよ」と知ったようなことを言われます。そんなこと万が一もないのは、一つ屋根の下で暮らしている自分が一番理解しているのだから、そんな無責任な慰めで我慢を強いられるのは納得がいきません。もう何かを耐えてまで生きていたくなんてないんです。 でも父は悲しむでしょう。口数が少なく何を考えているかわからない父ですが、多分悲しむんじゃないかな、とは思います。母から、未だ学校生徒の、自分の腹を痛めて産んだ子供たちの目の前で日常的に離婚を求められていてまで、仕事をしていて生きてて楽しいのかな、とは思いますが、これ以上の心理的負担に耐えられるか心配なのは事実です。 お医者さんに今度かかることになりましたが、初診の日まで母の「はやく消えろ」アピールを耐えてまで診療してもらうような理由がないというか、そこまで人生に希望が持てません。なので次に何か耐えられなくなったら、もう現世の人間関係なんてどうでもいい。自分ひとりだけでも楽になりたいので、死ぬことにします。 母はヒステリックでなんでも決めつける人なので、私が死んでも見当違いのことしか言わないでしょう。それは生きて聞いた人が勝手に解釈すればいい。 せめて、本当はなんでこの人は死んだのか?というのを、どこかに書き残したかったのです。これを読んだ人にだけ、理解してもらえれば、それだけで生きてて満足でした。もう何も要りません。今は死だけ欲しいです。

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我が子すら、信じてあげられない。

低学年の娘と、園児の育児中です。 実の両親に育ててもらえず、養父に育ててもらった私は、 ドラマに出てくるような「笑顔の家庭」に憧れを持ち、 結婚・出産をしました。 しかし、母のいない環境で育ったからか、「母と子の関わり方が全くわかりません。 ほめてあげたいと思っても、ほめる所がわからない。 怒るのではなく、叱れる親になりたいと思いながら、叱り方もわからない。 イラダチばかりを子供にぶつけてしまいます。 娘は、怒られないようにと、嘘をつくようになってしまいました。 最近では、「宿題は音読だけ」と言っていましたが、実際は漢字や算数の宿題が出されていました。 また、体操着が洗濯に出ない日が続いたので、「体操着は?」と聞いたら、「学校に忘れた。」と。 しかし実際は、体操着は家にあり、体育の授業は4回程見学をしていると判明。 嘘をつく原因は私がつくっているとわかってはいますが。 「どーせ、また噓でしょ」と、思ってしまい、子供の話に耳を傾けてあげられません。 我が子を信じてあげられない、ダメな自分。 親に信じて貰えないと感じながら育ってゆく子供の将来。 自己嫌悪と、不安でたまりません。

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言葉にイメージがあるのは変ですか?

先日、母と かわいそう という言葉について口論になり、私の感覚を伝えてみたところ、かなりきっぱり否定されました。 (ありえない そんなふうに感じるのは性格がひねくれてるからだ等々) 普段は温厚な母なので、私がおかしいのかなと思い、質問させていただきました。 まず、辞書には "みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持であること。ふびんなさま。" とありました。もちろん意味は理解できます。 母は、辞書の定義通りの解釈ができているようで、色々な人や物事に かわいそうね と言います。 しかし、私は同情してしまうような辛い状況があったとしても、かわいそう を人に使うことには違和感を感じます。 なぜかと言うと、私には「かわいそう」は高みの見物というか、なんとなく他人事のように聞こえるからです。また、上から目線だったり、ちょっと軽蔑する感じもします。 上手く伝わるか分かりませんが、すごくお金持ちの人がお金が無くて困ってどうしようもない人をせせら笑って「(私じゃなくてよかった〜 )かわいそうね」と言うのに特段支援はしない、みたいな感じです。 ネットで検索すると似たような意見はありますが、私にとって都合のいい意見を無意識に探して見ているような気がしてよくわからなくなりました。 こんなふうに、もともとそういう意味は無くても、なんとなく言葉に裏のイメージを持っているのはそんなに変でしょうか。あまりにもきっぱり否定されたので怖くなりました。 乱文になりましたが、お答えいただけると嬉しいです。

有り難し有り難し 19
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どうしたら生きていていいと思えるか

現在既卒で就職活動をしているニートです。 文章を書くのが弱くて読みづらくてすみません。 今までの人生を振り返ると、 小さい頃から死にたい消えたいと思っていました。 高校入学まで周りの大人が敷いてくれたレールを疑わずに歩いてきました。 次の進学先で親と揉めたことで、自分の心が完全に消えてしまったような気がします。結局実家から通える何の努力もせずに入れる大学に通いました。 4年間掛けても自分はこんなとこに居るはずじゃなかったと受け入れることが出来ませんでした。 いよいよ就活になって自分を見失った状態で上手くいくはずもなく、現在に至ります。 必要とされるより不必要とされたい。 他者からの期待されるのがつらい。 本当は20歳になるまでに死のうってそれだけは決めたのに、決めていたはずなのにまだ生きていることで自分の考えていた人生からも外れて何をしたらいいのか分かりません。 もう何がつらくて泣いているのかも分からないけど涙が止まらない日が続いています。 自分の存在を自分で認められない、もうやり直せない人生なら死んだ方がマシだと思っています。 結局書き出してみたところで何に悩んでいるのかすら分かりません。ただ誰かに何でもいいから聞いて欲しかっただけかもしれません

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身の上に起こることには全て意味がある

こんにちは。 よく「自分の身の上に起こることは全て意味がある」と言います。「あの時の経験があったから今がある」といったような、主に辛い経験をした時に言われるようなことが多いと思いますが、私には納得いかないというか、それを経験する必要がどこにあるのかわからないところがあります。 一つは10代のときに父をある日突然亡くしたこと、 もう一つは兄に暴力を振るわれていたこと、 あと一つは、母が大病を患っていること。 特に上2つは多感な時期に経験したこともあってか、どうしても「経験してよかったんだ」と思えません。できれば経験したくなかったです。「辛い経験をした人は人に優しくできる」とか「同じ経験をした人に寄り添うことができる」とよく聞きますが、この2つを経験しなくても、人に優しくできるし、寄り添うこともできると思います。 今まで他にも色々と辛いことはありましたが、特にこれらの経験はどうしても「経験しなければいけない理由」がわかりません。私は家族の縁が薄いのかなとは思いますが、それも経験しなくてはいけないことなのでしょうか。そこから何を学べばいいのでしょうか。そこから「しか」学べないことってあるのでしょうか。

有り難し有り難し 14
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