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検索結果: 3002件

飲酒について

お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。

有り難し有り難し 66
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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

有り難し有り難し 83
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母といると苦しい、親不孝でしょうか

私は母と二人暮らしなのですが、とても苦しいです。少し冷たい態度をすると、ろくでもない人間だ、そんな風に育てた覚えはない、口論になればすぐに出て行け縁を切ると言われます。普段はなんの変哲もない仲のいい親子だとは思うのですが、それは仮面なのではないかと感じます。 大学を卒業し、仮面部分な仲良しな面はもうなく、いままで以上に関係は険悪になってしまっています。そんななか、自分を変えて成長したく、初めて自分から家を出ると話をしました。ですが金銭的な問題があり、今お付き合いしている彼の部屋へ同棲する形になってしまうことも伝えました。母はやりたいならやってみなさい、でも縁は切る。そう言って聞きません。離れて暮らす父にも、いままでの恩返しの気持ちがないのか、親不孝だ、家を出るな、今まで通り家のことをやって母を支えろと言います。 自分でも、人として間違っていることをしていることはわかっています。今まで育ててくれていた両親を裏切る行為だと、親不孝だと。でもこうでもしないと家から出ることは今後できないのではないかと感じてしまい、素直に家に戻ると言えませんでした。 家庭環境の問題なので、言葉でうまく説明できませんが私は今のこの状況から抜け出して、離れて暮らすことによって今まで見えてこなかったものを自分の体で経験したいと思っています。事あるごとにでていけと言われるのはとても疲れてしまいました。 私はこれからも我慢をし、父の助言を聞き入れ家を出ることを辞めるべきでしょうか。

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たまに自分でいるのが辛くなります

今年成人したものです。 私は幼い頃から上手く人間関係を築くことができません。人から聞いた話などから相手に対して裏切られたと感じたり、不信感を抱くと話し合いで解決するのではなく相手と距離を置いていました。距離を置くのもほぼ無視するような形で明らかに相手を傷つけてしまうものでした。この傾向は最近まであり、本当に情けなく、後悔しています。中学生・高校生時代にそれぞれで相手にしてしまったことを思い出しては自己嫌悪になっています。なぜ周りの友人は上手く人間関係を築けているのにいつまで経っても成長できていないのだろうと思っています。また、自分も人を傷つけた経験があるのにも関わらず、小学生時代に傷付けられた経験を乗り越えることができていません。いじめのようなものがあって、標的が何度か変わり、私が標的になった時のことです。クラスの半数以上の男女に悪口を言われていたり、暴力に近いことをされました。仲良くしてくれていた友人がいたのでその当時は完璧に心が折れることなく、やり過ごしていたのですがふとした瞬間に今でも当時の記憶が蘇り、トラウマのようになっています。現在は当時仲良くしてくれていた友人以外との交流は断ち切っていますが地元が同じであったり、友人との会話に出てくることから度々思い出しては苦しくなります。 人を傷つけてしまったことがあるのに過去にされたことを未だに乗り越えられずにいる自分がもどかしく、嫌悪感しかありません。自分でいるのが辛くなります。 今、自分にできることはこれ以上誰かを傷つけないことだと思い、これまで行ってしまったことを繰り返さないように意識していますが、人と関わったり、傷つけてしまうかもしれないのが怖くなり、現在通っている学校ではあまり関わらないように一定の友人以外の交流を止めてしまいました。生きにくいというかなんとなく前に進めていないような感じがします。前に進むためにはどのようにしていけば良いのがアドバイスをいただきたいです。

有り難し有り難し 32
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虐待

私の父は社会的地位のある人です。 しかし、私は幼い頃から厳し過ぎるしつけをされ、今思うと、虐待ではないかと思います。 幼い頃は、言葉遣いを誤ったり、口を滑らしたりという事は誰にでもあると思うのですが、他人にしつけが悪いと思われたくなかったのか、父は人前でよく怒鳴りました。家に帰ると、お前のせいで恥をかいた、と言って殴られました。 また、あくびやクシャミ、物に躓いたり、子供なら笑ってしまう何でもない事でも、笑うと、 『何がおかしいのか?』と言って殴られました。 冗談を言っても通じず、殴られました。殴られるとき、避けたり頭や顔を手で覆うと、卑怯だといって余計に何十発も殴られました。小学生の頃、一度走って逃げましたが、捕まって首を締められました。母が叫んだので、助かりました。 大人になってから知ったのですが、父は子供の頃チックがあり、からかわれていたそうで、笑われる事に敏感になっていたようです。 今になって思えば、父も若かったし、自分の怒りをコントロール出来なかったのかも知れません。また、子供のしつけ方が分からなかったのかもしれません。 父に殴られている間、母はいつも見て見ぬふりでしたか、大人になってから、あの頃は自分が殴られたら嫌だから助けられなかったと言って謝ってくれました。 私は今ほとんど笑わず、笑うことが罪の様に感じる性格になってしまっていて、人の冗談も、笑っても大丈夫か考えてからでないと笑えません。 テレビのバラエティ番組を見ても、人の欠点や失敗を笑いにしていることが多いので、見ていて怖くなります。 学生の頃から、面白くない、なんか真面目すぎる、とか言われ、心から友達と呼べる人は誰もいません。笑ってあげた方がいい軽い失敗なども、よく考えてからでないと、怖くて笑えないのです。 社会人になってからは実家にはあまり帰っていません。両親に会いたいとは思わないのです。 父は社会に貢献する仕事をしてきて、今でも世間からは立派な人だと思われています。いくら父が立派な仕事をしても、本当はそんな立派な人間ではないと私だけが思っています。 父に虐待されていた事を誰かに打ち明けたいのですが、そんなに親しい人もいないので、お坊さまに知っていただきたくて、書かせていただきました。 心の中の苦しさを軽くする方法かありましたらアドバイスをお願い致します。

有り難し有り難し 94
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人生の選択

初めての質問です。 日々お忙しい中すみません。つたない文章ですが、読んでくださるとうれしいです。 私は今大学受験を控えています。美術系の大学を受けるために日々努力しています。 勿論絵を描くのは好きなのですが、気持ちが足りないせいかあまり夢中になって取り組めず、思うように結果が出ません。 もう、『才能が無い』と割りきって、諦めた方が良いのでしょうか。 しかし、今まで周りの事に無関心だった私は、色んな事に挑戦したり新しいことに取り組む事をしてきませんでした。 だからか、私に出来ることが絵を描くことしか残されていません。私から絵を描くことを取ったら、ほぼ将来への道が閉ざされてしまうのです。それに、今までしてきたことは何だったのか、と自己嫌悪に陥ってしまいます……。 『ほぼ』というのは、他にも興味のあることはあるにはあるので、いっそのこと、そっち方面に路線を変えた方が良いのではないか、と思ってきたからです。 人生、間違った選択をしてしまったためにそのあとずっと苦しむ様なことはなるべくしたくありません。 どんな事が自分に向いていて、合っているのかまだ分からないのです。 苦しんででも1度決めた道を突き進んだ方が良いのか、諦めて比較的楽しく過ごせるであろう方に進んだ方が良いのか、どちらが良いのか悩んでいます。 合っている道=楽しい ではないのかもしれませんが、今の私には何が正しいのかわからないのです。正しい答えなんてないのかもしれませんが。 長々とすみません。へんてこな文章になってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。喝やアドバイス、もらえると嬉しいです。

有り難し有り難し 23
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非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

有り難し有り難し 32
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生きるのは苦しみ?

うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。

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餓鬼を見ているようで

東京はお盆を迎えます。親族についてご相談させてください。詳細には書けませんが、かなり困った人です。 過去には、父母の相続について「やり方がわからない」等と言って放置し、弟と分けもせず、父母名義で送付される株式の配当金や優待券等を自分のものにしていました。次の相続が発生し、私とのやり取りとなりましたが、金融機関に「自分が全て相続することになった」と嘘を伝えて書類を作成した上、私には全く違う説明をしたり、必要な書類は送ってこないなど非協力的でした。 葬儀前から家で金目のものを探すなどする割に、入院費や葬儀費用はこちらに督促の連絡がきていました。法事に関しても、自分が施主となるものは行いませんし、参加もしません。今回も、相続に関する費用の支払いは後回しにされています。法事、各種支払いについては、仕事等を理由にしていますが、休みを取って遊んでいます。 逆に不思議なことに、本来受け取るべきものを受け取れる時には、些細なことで文句をつけたり、面倒がったりします。 金銭欲と自己保身のために、分けるべきものを分けなかったり、嘘をついたりといった状況を重ねてきたということだと思います。さらに、億を超える財産を受け取ったのに、もらえるもの、支払うものが気になるようで、既に終わっているものを調べたりしています。 周囲からは、そこまで面倒を見る必要はないと言われますし、私もそろそろ 精神的に限界です。 お盆にあたり、餓鬼事経などを読んでいると、この人について考えさせられます。お経では餓鬼が供養を求め、お釈迦様が供養の方法を弟子に教え、尊者や徳のある人々がそれに応え、功徳を廻向し、餓鬼が救われます。 仏教における施餓鬼供養や、現実でも不幸な境遇の人に寄付等で手を差し伸べることはまだ楽にできますが、このような人が身近にいる時にはどうしたらいいのでしょうか? 仏教の中で教えがあれば、また、お坊さまの意見があれば教えてください。

有り難し有り難し 22
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神や仏を信じない者がやっても良い?

見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 71
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仏教徒に対する疑問パート4

それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね

有り難し有り難し 37
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死後の世界について、助言をお願い致します。

私は、HSP(高感受性)の者で、霊は、見えないのですが、人の細かい感情や動物の気持ちも感じやすかったり、植物や大気のオーラを感じる事もあります。私は、見えないものに興味があり、死後の世界についてもよく考えるのですが、人生とは、魂を成長させる為の修行なのでしょうか? 死後の世界について、いくつかご質問したいと思います。お願い致します。 ①人は、体が死ぬと魂が体から抜け出て、人生を全うした善人であれば、現世への拘りが強く無く、死んだという自覚がある魂であれば、お迎えが来たり、来ない場合でも天国のような霊界に行くことが出来る。 ②現世への拘りが、強い魂や自分の体が死んだ自覚がない魂は、現世に留まり浮遊霊や地縛霊になって拘りがとれて、死を自覚するまで何年でも何千年でも現世を漂い続ける。 ③悪人(人殺しや自殺)をした者は、死後恐ろしいところや暗闇をさ迷い続けて生きていた時よりも苦しむ。 ④霊界で再度人間に生まれ変わる時は、霊界の偉い方と相談をして、どの体に入るか自分で選択する。そして、選択した体に魂を宿し、生まれてくる。体を選択するときには既に、その子どもとして生まれたら、どんな親の元で育てられ、どんな友人、恋人、結婚相手等と出会うのかわかった上で選んでいる。 ⑤霊には、私達と同じでお経の意味がわからないことが多い。 ⑥霊には、私達と同じ記憶と感情があり、精神は生きている者となんら変わらない。 ⑦霊は、生きている人と話せる。瞬間移動を出来る。軽いものを動かせる。電気機器などを動かせる。夢枕に立つ。体を生きている人と同じ見た目の姿に出来る。体に重量をつけれる。霊能力者と頭の中で会話が出来る。霊が見える人だけに憑依出来る。写真や映像に写り込める。 霊感の鋭い人には見えるが、普通は見えない人の方が多い。 ⑧地獄に鬼や閻魔大王はいない。死後の世界では、現世でのどの行いが良かったことで悪かったことか自分で解るようになる。死後の世界は、自分の心の現れでもある。 死後の世界は、精神世界で異次元空間。その空間は、現世と重なりあうように存在している可能性がある。 上記の①~⑧は本当でしょうか? 私が、死の世界について真剣に調べて、直感で感じたことです。長々と失礼いたします。ご意見お願い致します。

有り難し有り難し 63
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