悟るにはどうしたらいいですか? 坐禅をする? 仏教の本をたくさん読む? 悟るにはどうしたら良いのか教えてください。
そもそも地球上の生命体は、なぜ生まれ、生かされているのでしょうか? 神や霊魂を説かない仏教では、空の思想がありますが、すべてが一体である意識の集合体がいわゆる他宗教で云う処の神 なんでしょうか? お釈迦さまは無記とされていて、信じる人は信じるで良いという姿勢だと思います。 しかしこれで、苦を抜いても、生かされている意味は分からないし、目指すところの解脱は、単に無になることと誤解されやすいと感じます。 神や霊魂については仏教では賛否両論ありますね。どう思われますか?
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。
お寺詣りのお焼香の前などに、お坊さんに向かって手を合わせて合掌しておられる方がおられます。正しい作法なのですか?
お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。
私はとても辛い人生を送らされています。 4年前に15歳の愛犬を亡くしました。その次の年に私の大好きだったお義母さんをガンで亡くし、その次の年に父を亡くし、その次の年には可愛がってくれてた叔父を2人も亡くし、今年は7月に母をガンで亡くし、今月になってお義父さんを亡くし、今日は14歳の愛犬を腎臓病で亡くしました… 特に母は父が亡くなってから認知症になり、介護が大変でした…それが一段落した途端に愛犬の腎臓病…ご飯を大好きだった子が何も食べなくなり、毎日朝晩流動食を食べさせ家で点滴までやっていましたが、心臓が耐えきれず虹の橋を渡ってしまいました… ずっと辛い思いをしてきていましたが、今年は特にひどいです… なんでこんなことばかり?私が何か悪いことをしたのでしょうか?何かの罰なのでしょうか? 子供の頃、虐待や言葉の暴力をしてきた認知症の母も最期まで頑張って見送ったのに…大切な家族である愛犬まで亡くしてしまい、母に子供の頃言われてた私は仕方なく産んだ子でこの世に生まれてきてはいけない存在だったという言葉が頭から離れません…だから、こんなに辛いことばかり私に来るのでしょうか? 私は肺に難病を抱えているので、次男が私の代わりに仕事をしながら家事をやってくれています…長男は親の反対を押し切って結婚をし家を出て行ってしまいました…次男は私がこんな体ではなかった時に自立したいと言っていたのですが、私がこんな体になってしまったので諦めて家に居てくれています。 私は次男の足かせでしかないのです。自由を奪い、人生を狂わせたのです。だから、罰としてこんな辛い思いをしているのでしょうか? やはり、母の言う通り私は生まれて来なければ良かった存在なのかも知れません… どこに行くにも5キロの酸素ボンベ入りのリュックを背負い、少し歩いただけで息があがり、ろくに歩くことも出来ないし、直ぐに疲れてしまう。周りから見たらだらけてるようにしか見えないみたいです。 足かせの私が消えてしまった方が次男は幸せになるじゃないかと思ってしまいます。 周りに迷惑ばかりかけている私が生きる意味や価値があるのでしょうか?今はただ、次男を楽にさせてあげたいといつもそう思ってしまいます。
はじめまして。 姉と一緒に33箇所めぐりを去年からしています。 GWに竹生島に姉といきました。 竹生島の弁天様の幸せのダルマというのがあるのですが その写真を撮り、わたしがブログにのせました。 知人がそのブログをみて ダルマさんの写真に良くないものが写っているので 削除したほうがよいといわれました。 ブログも写真も削除はしたのですが。。。 よくよく考えてみたら 写真を撮ってくれたのは姉でした。 姉にも写真のデーターを消すように言ったほうがよいのでしょうか? あと、その写真内容もお寺などに行き みてもらったほうがよろしいでしょうか? 姉は去年のはじめ離婚をし その後、33ヶ所めぐりをはじめました。 最初はどんな気持ちで はじめたかはわかりませんが 今は、わたしと旅行気分で楽しく回っているので このことを言うと、すこし気落ちするのではと心配です。 あと、あまり33ヶ所めぐりなどでお寺に行ったとき 写真などは控えたほうがよいのでしょうか? (写真撮影禁止のところは守っていました。) 知人が人の怨念などがあるからよくないと言われたました。 長くなりましたが、よろしくお願いいたします。
私は小学校3年生まで、人の気持ちが考えられなくて怒りっぽい子供でした。 身体的な特徴をからかったり、友達が嫌がっているのにわがままを言って泣かせてしまったりしていました。 逆に私がからかわれた時は相手に暴言を吐いて10倍返ししてしまった事もありました。 大きくなるにつれて人の痛みがわかるようになり、言わなくなりましたが当時傷つけてしまった人に対してとても申し訳ない気持ちでたくさんです。 その方の親の気持ちになったら最愛の子供がいじめられるなんて怒りでいっぱいなのもその当時は考えられてませんでした。 あと母親に迷惑かけてしまった事も いつも後悔しています。 特に街中で子供を見ると心が痛くなります。 傷つけた人が今もトラウマで苦しんでないか不安です。 本当に謝りたいけど転勤族だったので昔の同級生とは繋がりが一切ないので出来ないです。
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
20代の会社員男性です。主体的に動くことを面倒に感じる自分の心を治したいです。 毎日仕事に向かうことに苦痛を感じ、かといって没頭できるほどの趣味も無く、毎日をただ何となく生きており心が磨り減っているように感じます。頭ではこのままではいけないと思うのですが、新しい出会いや趣味を探してみようと考えてみる度に頭の中に最初に浮かぶ言葉は「面倒くさいなぁ」なのです。特に仕事ではこの傾向が顕著に現れるので、毎朝「仕事に行きたくない」という心の声と格闘しています。 自分の人生を振り返ると自ら意欲的に動いたことが無く、たとえ動いたとしてもそれは常に必要に駆られたから又は誰かが用意した餌に釣られたからでした。 こんな自分を変え、挑戦することに喜びを感じられるようになる方法は何かあるのでしょうか。よろしくお願いします。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。 具体例 これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか? 中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。 仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。
私は昔からライバルがいる方が頑張りがきくタイプでした。受験勉強の時などは友人と点数を比べ合って競いあうことで、最後までモチベーションをキープすることができました。 しかし、仏教ではあまり他人と比べたり、競争心を持ったりすることは奨励されていないというイメージがあります。 たしかに他人と比較する事で、自分も他人も傷つける事がある、という事は私自身が身に染みております。 でも、他人と比較し競争心を持つことは人間の成長過程ではやはり必要な気がします。仏教では競争心の利点については認めていないのでしょうか?
小さな頃からなにか困ったことが起きると私が我慢すれば良いと相手を優先し自分で自分の気持ちを押し殺してしまいます。 人のために自分の限界を超えるまで行動して後から逆に迷惑をかけてしまうこともあります。 そしてそのような状態の時幸せかと言われるとむしろ苦しみを感じていて、心も体も悲鳴をあげて、誰もいない時にほっと幸せを感じます。 最近自利利他という言葉を知りました。 この言葉について調べてみたのですがわからないので詳しくお聞きしたいです。 特に自利とはどういうことを言うのでしょうか? このままでは誰も幸せになれず自分も潰れてしまいそうで怖いです。 よろしくお願いいたします。
散々聞かれた質問だと思いますが なんでですか?? だってコンビニより多い数あるお寺で 二足のわらじの方だっていらっしゃると聞きました。 他になりたい職業はありましたか? 今他になりたい職業ありますか??
こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。
私は今年から社会人になりましたが、高校在学中にやりたいことに挑戦したいと会社に通いながら専門学校に通う事に決めました。 しかし、専門学校にいった初日で辞めたいと思いました。 私は幼い頃から生きることに意味や価値が欲しいと強く思っていました。 しかし、ずっと意味を見つけられず、生きることに全くと言っていいほど執着を持てずにいました。 しかし中学生の時に、自殺未遂なんて当たり前の人達が集まるサイトを閲覧するようになり、少し経った時にある1人の方が「死のうとしたけど死ねなかった」と書き込みをされていて、そしてまた別の誰かがその人に「死ななくて良かった。生きていてくれてありがとう。」と書き込んでいるのを見て、自分でも知らない内に泣いていて、涙が止まりませんでした。 その時に生きていればいつか私を必要としてくれる人に出会えるかもしれないと思い、その時初めて生きることに執着を持ちました。 それから中学生の時にやりたいと思える仕事を見つけ、この仕事だったら誰かに必要とされる、価値ある人になれると思い目指すようになりました。 そして前述に書かせて頂いたように専門学校に通う事になりましたが、初日を終えて、理屈ではなく悟りとでも言うのでしょうか、私には慣れないと漠然と思いました。 中途半端ではなく本気でなりたいと思っていました。しかし今まで臆病者で自分のやりたいことを言い出せず初めてそれを口に出し、挑戦した結果が今回の専門学校でした。 しかし、やめたいと言っても学費などは後から返すつもりではいましたが既に親に払って貰ってしまっている事とたった一回行って辞めたいなんてことを言うのはかなり気がひけます。 幸い学費はあまり高くありませんが通う時の交通費がばかになりません。辞めるなら早く辞める方が交通費的にはとても良いのですが僅か一日で辞めるというのは、親からすればよくない気持ちだと思います。 一日通って帰ってからあまり良くなかったんだろう事に母は気付き、学費は仕方ないけど、交通費的にも辞めるなら早い方が良いよって言ってきてくれました。 私はどうしたら良いのでしょうか。 長文、支離滅裂な文章で申し訳ありませんがご回答頂けると幸いです。
こんにちは。 いつもお世話になっております。 先日、約2週間ほどタイとマレーシアに行ってきました。人生初の海外旅行です。渡航前にトラブルもありましたが、無事に体調も崩すことがなく日本に帰国することが出来ました。 タイに行った際、いろんな有名な寺院や博物館などに行き、お釈迦様の人生を学んだり、出家や悟りについて勉強したりしました。ある有名な寺院に行き、エメラルドグリーンに広がる屋根を見ながら坐禅を組んで眺めていました。すると、不思議と心のモヤモヤや悩みが一気に吸い込まれているようで、気づけばずっとボーッとしていました。 悩みとかがなぜかちっぽけに思えて、健康がどれだけ素晴らしいものか過去のことを思い出しました。昨年大怪我をしてしまい、毎日辛く、後悔と健康体ではない自分の体に苛立ちを感じました。でもまだ跡はあるけれど少しずつ治ってきた自分の体を見て、治る力があるということ、辛くても乗り越えることができたこと、この力があるっていうことは、怪我は健康状態でなくても、あるいみ私自身の体や心は健康だったのではないかと、坐禅を組みながら感じました。こんな気持ちになったのも初めてで、正直タイに行って、仏教に触れる度、不思議な気持ちになるというか、変な言い方になりますが、お釈迦様はいらっしゃるんだな、仏様は本当にいらっしゃるんだなと強く感じる場面が多くありました。その度にパワーをいただいたというか、僧侶の方にもご祈祷していただき、それ以来、気持ちが変わったといいますか、長旅で心も体も疲れているはずだけど、生きる力がたくさん漲った感じがします。この瞬間が本当に幸せに思え、旅行中何度も思いました。人生、様々なことがあるけれど、この旅行先での最高の幸せに出会うための備えって、健康であることなんだなと何度も感じました。 日本に帰国したあと、待っていたのは人間関係の悩み。生きる力は未だにたくさん漲り、むしろ挑戦したいことばかりでうずうずしています。だけど、友達に気を使うことが辛くて、朝も辛いなと呟きながら出発しました。 明日も会わなきゃ、大丈夫かな、何かあったのかな、ちゃんと話の輪に入れてるかな、常にある友達といると思います。 1人になると、なんでこんなこと思わなきゃいけないんだと我に返ってしんどいな、辛いなと嘆くばかりです。 こういうとき、どのような心構えで過ごしていけば良いのかと思います。