こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
度々お世話になっております 半年前からずっと今まで察知した事の無い死の予感がグルグルと渦を巻いており最近頻発する地震により大きなものが発生するという、またその被害を受けて命を落としてしまうと魂が警告しているのではと最近感じて日々を過ごしております。 そこでなのですが過去に盗・嘘・邪淫【自慰/配偶者でない彼と肉体関係を持ってしまった。求めてしまった】・食べ物粗末にした時期がある・我儘・怒りに身を任せて暴れてしまう・ペットを飼育管理不足で殺生してしまった・以前にお話した真言の関係性は以下にな所もありますがそれでもしかしたら命を奪ってしまった人がいるかもしれない、それと同じく私が聞いた幻聴理由に僧の彼をせめてしまった【五戒⠀】・親になんで産んだんだと責めてしまった・失敗した写仏/写経を供養せずそのまま捨ててしまった【仏の身を傷つける事になる?】包丁でお腹を刺し自殺未遂をしかけたことがある・幼い妹を恐れさせてしまった・幼少期に兄に性的な行為をされそれを求めてしまった時期があった。 このような事からこの私が感じ取ってる嫌な予感が当たってしまった後の世の事を考えて地獄は実在するのでしょうか。 またこの様なものは深い階層のある地獄のどちらへ落とされるのか仏教の戒において知りたいです
自分は正直、社会へ出たくないです。出ると考えただけでも辛さで心が痛いです。(自分の思う社会へ出るという事は、就職したりすることで社会の役に立つことを始めると考えています) 自分ではとりあえず今をどうするかだけを考えることである程度精神状態を保っていますが、学校の先生や祖母は将来どうするのかとかをしつこいまでに聞いてくるので、最近苦痛に感じています(それを伝えても祖母は聞くことをやめてくれません) また、自分のやってることは逃げだと言われましたが、なぜ逃げてはいけないのでしょうか?選択肢としてある以上は問題無いのに。 こんな自分に嫌気がさしたりすることもあります。でも、自分の何かを変えたいと思う自分と、変えたくないと恐怖し、拒絶する自分がいつもいます。 そもそも、自分が仮に働こうという意思ができたとしても、会社や雇い主が雇ってくれるとは限りませんし、そもそも自分は他人の役に立つという行為そのものが苦手です。 また、ニートになろうと割り切ることもできません。親が死んだ場合にどうすればいいかを考えると眠れず、気がつけば夜中に無我夢中に飯を貪ってしまいます。 家ではパソコンしてるか寝てるか食ってるかしかしてないような気がします。それでよくないと考えても、何時間かしたら別のことで頭のなかはいっぱいいっぱい。 失敗することが怖いです。失敗を恐れては何もできないのは確かですが、今の社会はその失敗を許してはくれません。ニート叩きなんかそうでしょう。そういうこともニートになろうと割り切れない理由の一つです。 死にたいと思うこともあります。でも、死んだら死んだで迷惑でしょう。 よく誰かに助けてほしいと思いますが、そもそも何から助けて欲しいのか、どう助けて欲しいのかがわかりません。 具体的な答えばかりを求めすぎている気がします。自分はそれが悪いとは思いませんが。 また、普通であることが羨ましいし、それと同時に普通の人、特に自分が普通だと思い込んでる人達が怖いですし、そんな人達が構成する社会が怖いです。 とにかく、辛いと思うことを書くのも億劫になってしまいます。 自分だけがとは言いません。それでも、なぜこんなつらい目に遭わなくてはいけないのでしょうか? こんな自分でも改心して社会の一員になれるでしょうか? この辛さ、苦しみから開放されるにはどうすればいいのでしょうか?
こんばんは。智慧を貸してください。 私は自分自身の目、鼻、口、耳、肌で感じるものが事実・真実 頭の中の考えごとや不安、過去や未来のことが妄想と認知しています。 しかし、ネットやテレビなどで観るニュースや事件等は、世の中の何処かで起きている事実… 頭の中でそのニュースに対して考え事をしてしまい、これは事実か妄想かと幾度も捉われてしまいます。 人から事実か妄想か自分で結論を出したことはあるのと聞かれた時、テレビ・ネットでニュースを見たということは事実で、それについて深く考えだすと妄想だと思うと考えを口にする事は出来ました。 その時は、自分はこう考えているのだなと理解して悩みが消えるのですが、少し経つと同じように事実か妄想かと悩んでいます。 長い間、同じ疑問や自分の中の問題にモヤモヤしてしまっています。 長くなってしまい、ごめんなさい。お力を貸してください!
父親が風俗を経営しており、その金で暮らし、高校を卒業し、大学に入りました。 そのことを知ったのは大学に入ってからで、それまでは父親に職業を隠されていました(ほとんど別居状態でしたが、自分も能天気だったと思います)。大変ショックを受け、親と縁を切ろうと家出をしました。しかし内臓の病気と精神疾患を患っており、信念を貫くことはかないませんでした。 その後大学を中退し、今は障害との付き合い方を模索しつつアルバイトをしています。中退の理由には、「女性が身体を売った金でこれ以上大学に行くわけにはいかない」というのは一つとしてあります。 恥ずかしながら、性欲と寂しさに負けて風俗を利用した経験はあります。そこでは良い思いもしましたし、生き生きと働いてるように見える女性も見受けられました。しかし世の中には性産業の悲惨な裏側の情報が飛び交っており、父親に何も話してもらえない私は、何を信じればいいのかわかりません。 私は搾取構造にもたれかかる卑怯な罪人なのかもしれない。そう自らに何年も問い続けて、性風俗の歴史について調べたり、社会構造について考えたりし続けました。しかし一人で考え続けても暗闇が広がるばかりで、途方に暮れてしまいました。あまりにも辛く、苦しい自問自答です。 過去、カウンセラーや社会学の教授にも相談したことがありました。それで返ってきたのは「風俗は犯罪じゃないから気にする必要はない」というものでした。しかしその答えに甘えてよいのでしょうか? 仏の道を歩んでらっしゃる皆様の智恵をお貸し願いたいです。風俗の存在に加担することは罪悪でしょうか?それが罪悪ならば、罪人の庇護に甘んじた私もまた罪人でしょうか? 何卒、お答え願いたく存じます
いつもお世話になっております。 昨年末に、息子を病気で亡くしました。 闘病生活も長かったのに、短いいのちでした。一生懸命闘い抜きました。 毎日毎日寂しくて中々やる気がでません。自宅でぼーっと過ごしています。 息子の死については頭では受け入れているつもりなのですが、心がついていかない感じです。 このままではいけないと思い、信頼できる方に息子のことを時々相談しております。ハスノハにも大変お世話になっています。先日もお世話になりました。誰かに相談して、なんとか気持ちを整理したいのだと思います。 その一方で、本やニュースに逃げて、息子のことを考えないようにしている時間も多くなってきました。 息子の柔らかい頬っぺた、抱っこした感触、私の体を触りながら眠る癖、どれも覚えています。覚えているはずなのですが、なんだか遠い昔のことだったような、忘れていっているのかもしれません。 自分が現実逃避をしていることも含めて、なんて薄情なのだろうと思います。 色々事情があって、家族にも相談できる人や出来ない人がおり、結局外に助けを求めているような状況です。 弱気になれば、「連れていって」と思ってしまいますが、あれだけ闘い抜いた息子を見ていると、絶対に死ぬもんかとも思います(今の状況では死んでも死にきれないので死なないと思います)。 忘れていく、現実逃避さえする私は冷たいのでしょうか。 今後、どうやって息子の死と向き合っていけば良いでしょうか。 いつも本当にすみません。 色んな肩に話を聞いていただきたいだけかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします。
久しぶりの質問させて下さい。 2点質問があります。 1)倶会一処の話を聞いて、お釈迦様や親鸞聖人など、歴上の人物(仏)にあえますか? 生で、説法を聞いてみたい。でも梵語わからんなー。言葉通じるかな? 2)西方極楽浄土は、極めて楽しいところ(国)?それとも極めて楽ちんなところ(国)? 金銀ギラギラは落ち着かないな・・ なんて、小学生みたいな質問ですが、回答頂ければ幸いです。
仏教の教えを忠実に実践すると植物のような存在になるなと感じました。 しかし仏性は人間にしか無いとも知りました。 なぜ元から罪のない動物や植物は仏になれない(なっていない)のでしょうか。 「仏性の自覚」とは「罪を持っている」という自覚のことでしょうか? 切れ端のような知識で申し訳ありません。 気になったので質問させていただきました。
先月父を亡くしました。 本当に仲の良い家族で、いつも一緒にいました。家族思いの父が本当に大好きです。父はいつも周りから羨ましがられているくらいでした。 その日も普段通り仕事から帰ってきて、たくさん話をしました。いつも通りの夜でした。頭が痛いと言って普段から頭痛持ちなので、暑さもあり、水分を取るようにお茶を渡したり薬を渡したりしました。本人もマシになったようで、ご飯を食べたりしていました。 夜中に変ないびきをしていて、見に行くと意識がなく、すぐに救急車を手配しました。 病院までなんとか頑張ってくれましたが、亡くなりました。 なんの覚悟もありませんでした。 私含め、家族みんな信じきれない様子です。いつも帰って来る時間に帰ってこない、座っている場所にいないのが辛すぎます。 私が夢を叶え、もうすぐ働く姿も見せられなかったし、定年後、行きたがってた海外旅行にもいけませんでした。後数年で定年だったのにと思うと私達のために精一杯働いてくれた父が無念でありません。亡くなったことも本人は気づいているのか、、などずっと考えてしまいます。 私たちが精一杯生きて、いつか大好きな父と再会できますか? 父は亡くなった愛犬とも再会できていますか?
何もしなければ人間は地獄に堕ちるが、助かる方法もあると聞きました。 その方法とは具体的に何をすればいいのですか?
人間は殺生罪などを犯しているので死後は必ず地獄だと聞きました。 死後が必ず地獄であることを釈迦は言ってますか? 言っている場合、どの経典に書いていますか?
人への気持ちがコロコロ気分が変わる時があり、とても疲れてしまいます。 例えば、自分がAさんは意地悪だから嫌い!と思っていたとします。Aさんが欲しいものがありました。それはAさんにとってはなかなか手に入りませんが自分は容易に手に入れられるものでした。当然、そのことは黙っておこうと思っています。しかしある日突然そのAさんに対して見返りもなく(すごいと思ってもらいたいわけでも、感謝されたいわけでもなく)急に「そんなに欲しいなら…」という気分になり、「うちの近くで手に入るから買っておくよ」と手助けをします。その数日後、なんで私はこんなに嫌いなAさんに手を差し伸べたのだろうか!?という気持ちが突然押し寄せて、嫌な気持ちになります。Aさんが「あの時はほんとにありがとう!またよろしくね」と言ってくると、余計に「あんなにいつも意地悪されてるのにどうして私は助けたんだろう。せっかくこれまで上手に距離を置いていたのに!」と自己嫌悪に陥ります。 こんな感じで、ちょっと例が微妙なのですが、基本的には「嫌だから距離を置こう」と思っていてその方針でやっていこう!と決めていたものが、何かの拍子に「いいじゃないか、受け入れよう」と心の中でガラリと変わります。そしてまた「嫌だから離れよう」に戻り、受け入れたことを大後悔するのです。小さなことから大きなことまでよくあります。 この気持ちの浮き沈み(主に対人関係に対して。)はどうコントロールしたらいいのでしょうか。嫌なことをされてもその相手を適当に受け流し、時に受け入れることができれば心が楽になり生きやすいと思います。そんな考え方になりたい。ただ、そのような気持ちには一瞬しかなれず、その時の行動を後々後悔するのに疲れてしまいました。どうやったらこの気分のムラをなくせますか。
以前こちらで質問する機会を頂き、とても気持ちが軽くなったこともあって今回また、性懲りも無く投稿することをお許しください。 私は現在、正社員として働いています。 自分なりに日々なんとか働いてはいますが、最近限界を感じています。 ・就いている職種が、自分の中で最も苦手としている事柄であること。 ・仕事の拘束時間が周りよりも多いのに給料はとても安いこと。 ・上司(いわゆるお局様)との関係に、プレッシャーや恐怖を感じすぎて疲れていること。 ・時間とお金がかかる趣味を嗜んでいますが、仕事と趣味の両立がとれないこと。 以上のことから、仕事を辞めて、パートで働きたいと考えるようになりました。 しかし、それを周りに相談しても「3年は働け」と言われるばかり。 周りがそう言う気持ちは、私にも分かるのです。なにせ私は、社会で生きるのに向いていない。責任感はないし、働くより休みたいし、人とはなるべく関わりたくはないし、マイナス思考で、取り柄もない。実家暮らしで周りに頼りっぱなし。我儘で、人よりも理解力がなければ、学力もない。今の職場で正社員として働いていることは、まさに奇跡に近いのでは?と思うのです。 パートに転職したい、と情報を探ってみても、「正社員のほうが将来安泰」、「パートはやめた方が良い」という意見が多いです。 でも、自分の人生に期待もできず、将来も変わらず底辺なのだろうなと思うと、人生80年というのはあまりにも長い。 それなら、誰か他の人に私が生きる分生きて欲しいですし、私も楽です。 ならば、30歳を目処に死にたいと思うようになりました。 そう思っても、「死にたくない」し、「将来への不安」は捨てきれず、自分でもなにが正解か分からないのです。 自分がなにを思ってるのかすら、分からないのです。 人に相談するのもどうしてか苦手で、難しいのです。 「仕事を辞めたい」し、「30歳で死にたい」 でも、「将来への不安」「死への恐怖」は拭いきれず、結局毎日、地球の酸素を無駄遣いしています。 我儘で、矛盾ばかりの甘えた自分がこれから何を信じて頼りにしていけばいいのか、どなたかお手すきの際にご教授頂けると幸いです。 長々と申し訳ありませんでした。
祖父のお骨について相談させて下さい。 私は現在結婚をして家を出ています。 実家とは折り合いが悪くほぼ、連絡を取っていません。 先日義実家の用で納骨堂に行った際に、私の祖父が入っていた納骨堂が建て直しされた事が分かりました。 2年前に建て直しをするから遺骨を一旦引き取る旨を実家は知っていましたが引き取らず、そのままにしていた様です。 現在は本堂の隅に置かれている状況ですが、今年中に引き取らないと処分されてしまうそうです。 その為実家に連絡を取ってみたのですが、あいまいな返事しか返ってこず、多分そのままにするつもりの様です。 私と祖父は血が繋がっていませんし、結婚をして家を出ているので私側でお墓を買ったり納骨堂を新たに買ったりする事は金銭的にも厳しいです。 実家も散財ばかりしているので新たに納骨堂を買ったりする事ができないと思っています。 永代供養か共同墓地を考えていますが、直ぐにはお金を出せない状況なので、一旦遺骨を家に保管しお金が貯まったら永代供養、あるいは共同墓地…と考えています。 しかし、実家では遺骨を引き取りたくないの一点張りです。 もう、どうしたら良いのか分からず困っています。 どうが、ご助言頂けないでしょうか…
明けましておめでとうございます。 昨年は色々とありがとうございました。 新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。 一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、 『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』 という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。 最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。 しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。めでたいな。でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。用心してしっかり行かないと』 と考えるようになりました。皆様の解釈はいかがでしょうか。 (死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが) 二つ目は、婆子焼庵という公案です。 内容は以下転載です。 『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、 衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。 そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する ことにした。すると 修行僧は「枯れた木が 寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と 言って、娘の誘いをはねのけた。 娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話 してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、 修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。 さて「婆さんの真意はいかに」というもの』 私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。 性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。 片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。 皆様はどんな解釈や回答になりますか? (作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください)
最近特に気持ちが落ち込む日が増えてきて、朝から憂鬱になります。 周りからどう思われているのか、何か言われていないかなど気にしなければいい事を気にしてしまい自分で自分を追い込んでしまいます。 人は人、自分は自分と思いながらも周りと比べてしまう自分やネガティブな自分が嫌になり変わりたいと思っていてもなかなか出来ない日々に疲れてしまいます。 子供達がいじめられたらどうしようなど起きていない事に心配したり、どう気持ちを切り替えたら楽しい毎日を送れるでしょうか? 学校行事などに参加していますが、人と会って何か言われてないか気にしてしまい、正直人に会うのが辛いです。 まとまりのない文章ですいません。 何か考え方を変える方法がありましたら、よろしくお願い致します。
お坊さまがたは 輪廻転生信じていますか? ちなみに私は信じてません。
お坊さんは自分らしく生きる生き方や楽に生きる方法を解いていらっしゃると思います。生きている上でおかしいとかなぜという疑問が湧いてくると思うのですが。そこを突き詰めるとどうしても悲観的な真実というかリアルに突き当たるのかと思いまして。そこは理解をもって寛容に生きていらっしゃるのですか。怒りが湧いたり疲れたりしませんか。そこも受け止めコントロールというか多少の忍耐ありきでらしく楽に生きていらっしゃいますか。
こんばんは。 今年も一年が終わります。御世話になりました。 年の瀬にくだらない質問で申し訳有りません。 毎年、1月1日から日記を書き始めるのです。気に入った日記帳を見つけ、今年こそはと気合が入るのですが、挫折してしまいます。 まず、出だしの内容が暗黒すぎて嫌になってしまうんです。毎年、今年は明るい内容を!と目標にするのに、毎年同じ出来事で文句ばかりの内容の1月になります。 義弟や主人の従兄弟からもらう子供達へのお年玉の金額が必ずうちより少ないとか、なぜか一月に集中する主人の休日出勤とか、思わず文句を言ってしまう出来事が続くんです。 来年もきっとそうで、主人の休日出勤は確定事項で、また暗黒日記になりそうです。 しかし、今回は日記帳すら決めてなく、書くのをやめようかと思うのですが、やっぱり、来年こそはと思う自分もいます。 明日、日記帳を見に行く予定ではいますが、どうしたら後で見返しても嫌な気持ちにならない日記を続けることができるでしょうか。
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?