先日父が亡くなり、通夜と葬儀を葬儀社からの紹介である導師にお願いしました。 葬儀の直前、葬儀社の方からの連絡で導師の控え室に参りました時少しお話しさせて頂きました。導師からは供養の仕方やお寺の合同葬のパンフ等頂いたのですが、私がネガティブな言葉で導師の言葉を遮ったり話の腰を折ったとの事で導師から不愉快だと言われ、そのお言葉に総早々に退散致しました。 時間になり導師が控え室から出て来られ皆が着席し、導師は開口一番長女の方と言い合いになりましたと仰ったのです。私は耳を疑いました。導師と言い合いなんてする訳もないです。導師に不愉快と言われたので、それではと席を立ったのです。 家族や親戚には何も話していなかったので、誰も理解できず反応もなかったからでしょうか、導師はそれ以上は何も言わず読経をされました。 でも、終わってから家族にあの意味は何だと聞かれました。私は大切な父の葬儀の時に導師を不愉快にさせてしまったこと、読経の前に導師に言われてしまったことで葬儀を台無しにしてしまい亡き父にも本当に申し訳ない思いで一杯で悲しくて涙が止まりませんでした。 葬儀もせめてもの親孝行だと、金額は張りましたが大手の葬儀会社に手配を依頼して抜かりなく、気持ち良くと思っていたのに情けないです。 葬儀社とお寺の住職の奥様から、導師に何でもご相談下さいとのお言葉に甘えてしまい、結局は導師を不愉快にさせてしまった自分自身が情けなく、葬儀も気持ち良く満足にあげられなかったと後悔の日々です。 ご相談したいのは、戒名を頂いたお寺の導師だから当然四十九日も同じ導師にお願いするべきとの意見が家族にあります。一方、親族に非があっても、導師が葬儀の時に持ち出す言葉ではなかったのではないかとの意見もあります。 私にしても導師が何も仰らなければ水に流して四十九日もお願いするつもりでおりましたが、葬儀をぶち壊しにされたような思いは残りますし、不愉快と仰られたので四十九日に出席する勇気はないです。 今後は亡父の出身の地方のお寺に納骨する予定です。そのお寺に問い合わせましたら四十九日法要、開眼供養、納骨供養など引き受けてもらえるとのことです。 同じ導師にお願いして私は欠席するべきか、或いは納骨して頂く地方のお寺に四十九日法要をお願いするべきか、悩んでおります。よろしくお願い致します。
自分を大切にしなさいと言われました。 自分を大切にするとは具体的にどうしたらいいでしょうか? 自分の立場が悪くなるようなことはしない方がいいと、割りきることも大切だと、上司の言うことを聞いて仕事をしていれば、 「自分のために働いている」と責められ、 自分の思ったことを言えば、なんでそんなにこだわるのか、と責められる。 疲れているから休め、と言われるが、休んでいる余裕はない。 諦めれば楽になる、でも、諦めたくない 自分の体を大切にしろ、と言われるが、大切にする方法はどこにも書いてありません。 誰も教えてくれません。 自分の立場を守れと言われるが、お前は自分の立場を守っていると責められる。 心構えがないのは詐欺師だと。 人を信用するな、でも、信頼関係が大事だそうです。 自分の好き勝手やっている人は許されるが、 私が自分の考えを持てばそれは違うと否定される。 いろんな人から矛盾することを強要され もう壊れそうです。 もう誰にも迷惑をかけたくない。 両親にも申し訳ない。 諦めたくない、でも私はいったいどうしたらいいのかもわかりません。 考えがまとまりません。 自分を大切にするとはどのようなことですか。
つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
こんにちは。 私はまだ20半ばなのですが、最近どうも活力が湧いてこないと感じています。 具体的には、平日の仕事は全く問題がないのですが、週末になるとどうも布団から出られず。その後ふらとご飯を食べに出ては、近くの喫茶店でゆっくりして1日が終わっていきます。 ある一面を見れば、ゆったりした休日を過ごし満足しているところもありますが、一方でまだこの歳でこの活力のなさはいかんなあ、と感じるところもあります。 今のままでも不便はありませんが、できればどこかのタイミングで思い切ってこの活力のない自分を大きく変えてみたいなあと思います。 半分ぐらいは好奇心から生まれている考えなのですが。 そこで、今のような自分がもっと活力をもっていきいきと週末を過ごすための、「きっかけ」になりそうなものをいくつか教えて頂けませんでしょうか。 毎朝の早起きでも、週末の山籠もりでもランニングでも、どんなものでも構いませんが、お坊さんが自分を律するために取り組んでいるようなものなどがもしあればぜひ聞きたいです。 宜しくお願いします。
こんにちは。私は、今とても好きな人がいるのですが その人は同性の女性です。 海外ではキリスト教や他の宗教を理由にして同性愛者を排除しようとする人がいたりしますが、仏教が比較的浸透している日本ではあまりそんなことは聞いた事がありません。 仏教では同性愛についてはどのような考え方をするのでしょうか。よろしければ是非教えて下さい。
私は春から大学生になった女子です。 突然ですが死が怖いです。コロナウイルスが怖いです。自分があのウイルスにかかっている気がするかかって死んでします。家族や親戚がかかったら死んでしまう。その恐怖で毎日夜泣いて眠れません。もしこのまま眠ったまま死んでいたらどうしよう。と思うとさらに眠れません。とても辛いです。 死が怖いと考えたのが小学6年生くらいでした。夜寝る時にふと考え大号泣しました。それからあまんまり深く考えていませんでしたが、今回のコロナウイルスで更に怖くなりました。あの頃はまだ幼かったのであまり深いところまでは考えれなかったのですが今は悪い方悪い方にしか考えれずにインターネットで調べてはまた泣く毎日です。
学習性無力感に陥っているベテラン(若手も?)僧侶をよくお見かけします。そして、それは無理もないと感じています。現場の本音を、差支えない範囲でお聞きしたく思います。 法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない本音を感じるし、一見したところ支持してくれている方も、実は事なかれ主義の惰性だったりで、、。傍から見ていても気づくので、いたたまれない時がややあります。そんな現実の中、気力を振り絞って活動しているお坊さんをよくお見かけします。私にはそう見えますし、時折ボヤくお坊さんが実際におります。責めるつもりは微塵もありません。 ここで本音を語るのは難しいとは存じますが、虚しくなることはないのでしょうか?また、なぜこんな状況が長年続いてしまったのか?今後はどうする方針か? 考えをお聞かせください。 宗教家の宿命なのかもしれませんし、開き直って腐敗していく方も多いようなので、、そんなマジメなお坊さんにこそ、もっと暴れまわってもらいたいです。
そもそも地球上の生命体は、なぜ生まれ、生かされているのでしょうか? 神や霊魂を説かない仏教では、空の思想がありますが、すべてが一体である意識の集合体がいわゆる他宗教で云う処の神 なんでしょうか? お釈迦さまは無記とされていて、信じる人は信じるで良いという姿勢だと思います。 しかしこれで、苦を抜いても、生かされている意味は分からないし、目指すところの解脱は、単に無になることと誤解されやすいと感じます。 神や霊魂については仏教では賛否両論ありますね。どう思われますか?
以前書き込みした「葬儀が無くて暇」の寺での話です 某有名人の葬儀をしたのがよほど嬉しかったらしく 住職がその様子をいろいろ話してくれました。 この業界で有名人の葬式を行えるのは ステータスか何かですか? 遺族の悲しみを想像すると坊さんの嬉しそうな様子の ギャップが未だに埋まりません。 とある質素な葬儀を悪い見本のように言い 盛大な葬儀を良い見本のように聞かされたこともあります。 お寺さんから見たら人の死はそのような扱いなのでしょうか? そもそも個人的なに葬儀の内容を他所で話されるのは 有りなのですか?
質問が殺到している何故なんだろう?と思っていたら、TVで紹介されたからなんですね。 今回は寺関係などの質問をさせて頂きます。 ただ字数足りなくなり、PART1とさせて頂きます。 近いうちにPART2も出させて頂きます。 1、(といいながら複合的…)皆さんのお寺は、檀家との付き合いはどんな感じですか? 自分の家は遠くてほぼなく、自分は住職の顔を8年は見てないし、このままだと次会うのは誰か死んだ時かなと思っています。 ちょっと寂しいかなと思ったり…。 大変不躾なのは承知ですが、「レンタル駐車場みたい(契約更新のときだけ会う)」が、自分で考えていて、いい得て妙だと思ってしまいました。 どこもこんな感じなんでしょうか? 檀信徒の集会もありますが(ウチは毎年不参加)、そういうのではなく、寺(菩提寺)の中に入って、個人的に歴史が好きで寺の話を住職から聞いてみたい、本堂で一緒にお経を上げたりしたい、法要の時は興味がなかった絵の説明をもう一度聞きたい見たい。 前にお墓参り行ったら、お経の声がするも、分厚い壁が、自分と菩提寺を区切って、声なんて掛けられませんでした。 どうなんでしょう、どうしたらいいでしょう?例えば、お墓参りのついでに会うのも駄目なんでしょうか? 家長でもないのに勝手すぎですか? どうにもならない高望みなんでしょうか? また、父はお寺ってもんは何かしらにつけて、お金を取ろうとすると言い、お金を取られやすくなるんじゃないかと不安に思ったりもしています。 2、無知ゆえの心得違いかもしれない興味本位の質問ですが、菩提寺が檀家さんのために行っている事ってあるんでしょうか? 疎いので業務連絡と墓周りの清掃しか思い浮かばないです。 例えば法要じゃなくても、檀家さんの事を想ってお経をあげたりするんでしょうか? 3、ぶっちゃけ寺で檀家回りを知ったんですが、自分の家に来たことは一回もないです。 日蓮宗ではやらないのでしょうか?それとも遠すぎるから?(家は埼玉、菩提寺は神奈川) 今年はやって欲しいと言ったら来てくれるんでしょうか? 日蓮宗の方、教えてください。 今回はここで一旦区切ります。 近いうちにPART2を出したいと思います。 追記、前回のお坊さんの贅沢についての返礼が遅れましたが書けましたので、回答頂いたお坊さんは宜しかったらどうぞです。
ペットの猫に噛まれたので何回か叩いてしまい、目を離していたらぐったりしていてそのまま亡くなってしまいました。 殺すつもりはなかったです。 私が代わりに死ねばよかったのです。涙が止まりません。 私は生きる価値がないのです。食事もできず睡眠もあまりとれません。それなのに辛さを埋めるためにまた猫を飼いたいと思ってしまいます。 本当に自分勝手だと思います。 家族もいないので毎日おやつをあげて大事にしていたのに。 私の手で殺めてしまいました。 私なんてずっと苦しめば良いのです。
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
深夜1時過ぎ息ができない肺が痛いということで救急車を呼んでほしい」と訴えて来たので119番してそのまま救急病院へ。 速攻入院ICUに入りました 検査は続いていて、一旦家に帰るように言われました。朝8時前に家に着き、一息つく暇もなく病院から、「すぐ来てください」私は病院へ 無菌室で彼は力なく、痛みに耐えていました。会話はできるということでお話をしました。 「いい病院に来れてよかったね(私)」 「(息子)治りに来たのに痛いのと呼吸できないの取れないよ」 「きっと治るよ!(私)」 かなり辛そう呼吸が苦しそう。欲しいものは?ときいたら、お水が欲しいということでペットボトルを3本渡す。面会時間限られているので 「また来るね」 2日目の昼呼吸器を付けるのですぐ来てくださいといわれたが、着いた時にはもう装着して、眠っていました。 眠っている我が子の手やおでこに手をやる、足が出ていたので足の裏をさする「治りますように!」 3日目の朝 「すぐ来てください!」 着いた時には、もう眠っていました。 医師が「死亡確認をします」 信じられなくて突然すぎて。。もっと早く大きな病院になぜ行かせなかったのか?後悔ばかりです。「治るために来たのに苦しいの治まらない」と最後まで言ってた息子です。 病気で辛かった時かかりつけの医者以外に行っていれば、 悪化しなかったかもしれない! 発熱に耐えて、仕事などに行かさないでもっと早くやすめるように会社に言えなかったのか!? してやれなかった後悔が後から後からあふれてきます。 救急車呼んだ時間から夜明けまで、息子の事で一杯で寝れません。 電話の音も怖いです。 私がいま息子のために、してあげることは何でしょうか? 息子の魂はどこにいまいるんでしょうか? 助けてください。幸せになってほしかった息子が喘息と肺炎の悪化で若くして死んでしまいました
質問はタイトルの通りです。 実際に行ったおすすめのお寺でも大丈夫です。 お寺って静かですよね。周りに人がいても、1人で居るような落ち着いた気分になります。 私は音と光と匂いに弱いので静かな場所の方が好きなんです。 お坊さんという職業を理解していない部分もあり、失礼にあたる質問だったらすみません。 ここからはお忙しい方は読まなくて大丈夫です。回答いただけるだけ嬉しいです。 私は10月いっぱいで死のうと考えてます。 家族の分の家事や弟のお世話、買い物などはきちんと続けて最期までやろうと思ってます。 みんな忙しいのに私を消すのは申し訳ないです。 でももう二十歳なのに、自分の食事やお風呂すら出来なくなってきました。 親にも伝えましたが、いろんなことをしろと私に頼むのを止められないみたいです。 親の期待にも優しさにももう応えられません。 20年間、10時まで寝坊したことが二度、受験に落ちたことも二度、それから立派な大人にならなかったことは謝ろうと思います。 最期は自分の好きなように動いて良いと思いますか? 遊びに行きません。ダラダラ休みません。家族の手助けや頼み事は全部叶えます。その代わりお寺に行くことは許してくれると思いますか? 質問しておいて、後押しが無いと行けそうにないんです。力を貸してくださる方、一言だけで良いのでお願いします。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
私の父は以前働いてた会社が倒産し、無職になりお金が無く、学費も材料費も検定代も成人式の振袖代も自分で稼がないといけません。そのためほぼ毎日バイトをし、多い時では6連勤もし、身も心も疲れました。 そんな時思うのです。もし父がちゃんと働いてお金があれば、怖いお客様のクレームに我慢しながらバイトをすることも無く、自分のやりたいことに時間を使ったり、観たかった映画を観たり、読みたかった本をとことん読んだり、自分のことに時間が使えるのにと。 周りの友達もバイトをしてますが、学費に使わず、ディズニーランドに行ったり、遠くまで旅行したり、好きなアーティストのライブに行ったり、すごく羨ましいです。私には到底出来ません。 私だって普通の生活がしたいのに、普通の生活って何なんだろう。今私が生活しているのが、普通の生活なのだろうか。 普通の生活って、何ですか?
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
林真理子さんの「野心のすすめ」という本が70万部突破と書いてあったので、書店で買って読んでみました。 題の通り野心をもちなさいという本なのですが、読んで私はとても共感し元気にもなりました。上を目指して常に挑戦していくことは大切だと思います。 そしてこの本の中に、何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てるというようなことが書かれていました。 煩悩って除夜の鐘で叩くのもあって、持っていてはいけないものというように教えられた感じがするのですが、野心を持って上に行きたいということはだめなのでしょうか?私は林真理子さんの本に励まされたので、もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要だと思います。 いかがでしょうか?
今月、無事に女の子を出産しました。 そして、出産当日。 私は以前から余命宣告されていた 恩師のことが気になり、身近な人に 容態を聞くと、 会ってる方がいい と言われました。 でも、その日に急遽入院が決まりました。 私は先生にお願いして恩師に会いに 行かせてもらうことにしました。 恩師は痩せ細り、寝ていましたが 私が行くと目を開けて、出産するために 入院することを伝えると拳を作って 頑張ってと言いました。私が答えると いつものように微笑みながら 頷いてくれました。 私の顔を焼き付けるかのように じっと顔を見つめました。 そしてその日に出産。 身内の人に伝えてもらうと、 よかったと言ってくれました。 次の日、恩師にボイスメッセージ を送りました。それを聞かせて もらうと電話だと思って はーい!こんにちはと言ったそうです。 その日は痛みで辛そうだったみたいで、 身内の方も驚いたそうです。 私はなんとなく、退院の日を1日早めて 赤ちゃんが帰ってくる準備をしようと思い、 1日早く退院しました。それを身内の方に 報告すると、会えるなら会ってほしいと 言われました。あなたを待ってる気がすると。 私はすぐに向かいました。恩師は寝ていて 声かけしても応じてくれませんでしたが、 帰る間際に、わかりますか!きましたよと 伝えると目を開いて頷いてくれました。 そしてまた寝てしまいました。 その日の夜、恩師は亡くなりました。 出産から3日後でした。自分の人生に 悔いなしと言っていました。私はそれから 元気だった頃から亡くなるまでの恩師の 変わり様が頭から離れず、受け入れられず、 怖ささえ感じています。実は出産の3日前に 祖母も亡くしました。大往生でした。 重なりましたが縁起が悪いとは思いませんし 祖母の死は受け入れています。 恩師の死が受け入れられないというより わからないです。またご飯に行こう、 相談しよう、早く会いたいと思ってしまいます。 写真やラインのやりとりを見返す日々です。 悲しいよりも、最期に会った人は誰?と いう感じです。恩師はどこへ行ったのですか。 私のことを待ってくれていたのですか。 そして私が死ぬまでもう会えないのですか。 本当にわからないのです。今もどこかで 生きていて落ち着いたら生まれてきた子を 見せたいのです。おかしいけど、頭では わかっているけどわからないです。
こんにちは、宜しくおねがいします。 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・ ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。 迷える私にお言葉をいただきたいです。 宜しくおねがいします。 とんぼ
先月からご縁があり、とある相続関係の仕事をさせていただきました。内容は、同じ区画内の土地と建物の権利者がそれぞれ4人おり、権利が複雑な為、権利関係を整理するという内容でした。その一部にとあるお寺の所有の土地があり、事前に住職にお話しをしたところ他の権利者に譲渡(売買)の話をしてもらえないかとの事だったので、時間がかかりましたが何とか承諾いただき他の3人の権利も整理できそうな所まで話がまとまりかけたところ、 そのお寺の住職が売らないと突然言い出し、話が破断に終わりました。私が残念に感じたのは、その住職はお金の話(そんな安い金もらってもしょうもないなど・・)が多く、また誰が損か得かの話も多く、仏に仕える方として有るまじき発言だと感じました。同じ住職としてどう思いますか?私はお寺や住職さんの心を作るお話が好きで前から「住職」という職務を全うしている方には尊敬の念がありましたが、そこのお寺の住職さんは欲深く、由緒あるお寺なのに修行が足りないのかな?と感じました。大きなお寺ほどそういう方が多いのですか? ちなみに私は今回の仕事に対して報酬はなく、奉仕(無料)でさせていただいておりました。どちらが仏に仕えるものかわからなくなりました。同じ住職でもこの方欲深いな?と感じる方いますか?