去年11月に病気で大切な母親が永眠しました。84歳でした。一周忌に墓に納骨をしようと準備していますが、母親の先祖代々のお墓のある寺に問い合わせたら、墓の管理者の許可が必要といわれました。母親は四姉妹の末っ子で長女と母親が先祖代々の名前です。長女と母親は生前あまり仲良くなかったらしいのですが、母親は代々のお墓に入るのを望んでいました。長女には何の遠慮もせんでいいよと常々言ってました。長女親族とはずっと連絡などしてこなかったのですが、墓の管理者となるとやはり長女の子供たちでしょうか。長女も生存してるのか不明です。今名古屋に住んで30年経ち、代々の墓は石川県で遠方で、数年に一度母親共々墓参りしていました。自分は40代独身で父親と姉の3人です。まだまだ一周忌経ってないので日々淋しさと悲しさは溢れた日々です。 代々の墓に普通に入れると思っていたので、今不安と一番最善はどうしたらいいか、そして、自分もおそらくこのまま独身で生きてくと自分が亡くなった後の不安、母親と同じ場所に絶対に入りたいのでどうすればいいか、、是非ともアドバイスいただけけたらと思います。 もし、先祖代々の墓に母親が入れないと母親との約束が果たせない辛さ、悲しさとか強く抱いてるので、不安です。 片足が不自由だった高齢の母親といつも一緒にいれたことが凄く幸せでした。側にいて当たり前と思ってた大切な存在だったので悲しみと淋しさもとてつもないです、、 今はまだ母親の遺影と遺骨をミニ仏壇に添えて日々お参りしています。涙が止まりません。 今後の残った自分、高齢の父親、姉の3人も絶対に母親と一緒に永遠にいたいのでその点も含めてアドバイスよろしくお願いします。。
現在、高校一年です。 入学してすぐに、黄檗宗のお寺の息子さんとお付き合いするようになり、今で8カ月になります。 とても仲良くしてるのですが彼の性格上、ケンカをすると口いっぱいに文句を言われます。 お前と俺の住む世界は違う。とか、お前に俺の家の事のなにがわかるねん。とか、とにかく理不尽な理由でキレられ、毎回私が謝って仲直り。みたいな感じです。 とにかく、口いっぱいにまくし立てて言ってくる彼の性格をかえてあげたいのですが、彼は以前、周りの顔色ばかり見て心を病んだ過去があるらしく、思いっきり言い返すこともできません。 私が言ったことで、病んでしまったらどうしようという思いがあります。 別れる事も考えましたが、私が居ることで精神安定している。と彼が言っていた事を考えると、別れる事を考えるより、彼の性格を何とかしてあげたい。と、言う気持ちになりました。 どうしたらいいでしょうか? 彼の家は、男3人兄弟の長男でとてつもなく、期待をされてるみたいで、デートをしても朝早くから遊んで、4時には帰る。夜まで一緒にいた事もありません。お父さん、お母さんの言う事にとてつもなく忠実で、右向け右の状態で自分の意思は家では無いみたいです。 どうしたらいいですか?
死後の世界ってあるんでしょうか?
昔から自分で決めることがとても苦手です。 いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。 高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。 自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。 責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑) 長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
あるお寺に予約を取り、悩み事を聞いていただくことになりました。 お布施が必要だと思いますが、どれくらい包めばいいのでしょうか? 時間は 9:30〜11:30くらいまで。 何もわからないもので…、アドバイス頂けたらと思います。
十方諸国土に三世諸仏様、 数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、 特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、 仏像様も身近にない 在家の者は 自分が集中して拝む仏様というのは、 どうやって選ぶのですか。 別に選ばなくても良いのですか。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
極楽浄土へ行くためには 戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。 では戒律と私がしたことについて 殺生をしない まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね? 蚊やゴキブリなど殺していますし 肉や魚も食べています。 盗みをしない 盗みは少年時代よくやりました。 しかもつい数年前万引きをして 警察に捕まりました。 このことについては 反省しています。 酒を飲まない ビールを飲んでます。 悪口を言わない 極力言わないようにしていますが 嫌なことされたり頭にくることされると 時に反論や悪口を言ってしまう時があります。 嘘を言わない 嘘はついたことはよくあります。 大人になってからは正直に生きたいと 思ってましたが会社などで働いていると 普通に本音を言うと怒られたり 敵対されいじめの標的にされた事がよくあります そういう経験をして以来 時に思ってもいない嘘を言って ごまかしその場を乗り切ることがあります。 ふしだらなことをしない これはあまりしませんがエロ動画や画像などは 鑑賞します。こういってことでも ふしだらなことになるのでしょうか? 心から懺悔をし善行を積み 南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば 罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか? そもそも地獄は実在するのですか?
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。
自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています 個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか 今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います 瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります 個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
もともと、姑が過干渉で嫁いびりが酷かったですが、夫と姑が全てを決めて振り回されてきました。 義両親とは別居前提で結婚しましたが、結婚して1年程したある日、突然同居と言われ、拒否すると暴言・暴力を振るわれました。夫は勝手に実家に帰り、私は怪我で日常生活が不自由なため、実家で療養しています。 同居の理由は車で20分程の通勤ができないの一点張りで、寺だからとのことでした。また、夫は寺務が忙しいと2ヶ月程音信不通になり、その後離婚して欲しいという手紙が送られてきました。事件後から今まで、私と実家の誰が連絡しても返事がなく、怪我の心配などもありませんでした。 話し合いもなく一方的に手紙で別れ話をする夫と義実家に誠意を感じません。 そこまでして寺族は寺に住まないといけないのでしょうか? また、彼らは僧侶として教義に反する部分はあるのでしょうか?
4年越しに再び質問を利用させていただきたく思い書いております。 タイトルの通り私は父親が自殺しています。亡くなってからもう4年になります。しかし4年経つにも関わらず自分の中でどのように受け止めればいいのかが分かりません。 私はずっと後悔しています。本来ならば「子ども」は親が自ら死ぬことを引き止める最後の砦の様な役割をする所、私は死ぬきっかけとなってしまいました。何回も謝りました、何回も後悔しました。 ですが何度後悔しても何も変わらないことも事実だと、4年という年月を経る中でも気が付かされました。残された家族の中でも父の事はあまり触れない話題として扱われており、扱う時も重たい話にはしてはいけない雰囲気があります。もしかしたら私だけ考えすぎなのかもしれませんが、自分の中で父の自殺をどのように受け止め、どのように消化すればいいのか、受け止めきれるものなのか分かりません。 本当は父のお墓に手を合わせ謝りに行きたいのですが父方の祖父母とは父の自殺を機に疎遠となり、父のお墓の場所や有無さえも分かりません。 このような状況で私はどうしていけばいいのでしょうか。ご返信いただけましたら幸いです。
私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。
こんばんは。 私は友達や知り合いからは、とても優しい性格と言われているのですが、家では短気で一度キレるとなかなか普通の状態に戻りません。 私はたまに母と怒鳴り合いをしてしまいます。 それはとても些細なことです。 なぜこんなに大事になったの?と自分でも思うくらい大喧嘩をします。 私は一度キレると母に罵声を浴びせ、話を終えようとする母の腕を掴んでは騒ぐということをしてしまいます。 自分でも心の中では早く止めたい。なんでこんなことしてるんだ。と思ってはいるのですが、大声を出しているときはすごく頭にきていて、もうどうにでもなってしまえ。と自分の体を止められません。 私の母は心臓が生まれつき弱く、そして愛犬にストレスを与えたくないので罵声を浴びせたりするのを本当はやめたいんです。 でも日常の会話で母に自分の気持ちを伝えても、精神科でもらった薬を飲んでも(最近は、若いうちから飲むのはやめたほうがいいと言われているため飲んでおりません。)まったく治りません。 喧嘩した日の夜は罪悪感で胸を痛めています。 沸点が浅いので深くする方法。 言い合いになったとしても冷静な状態で言い合い出来るようになる方法。 もしキレてしまって大事になりそうなとき、自分を落ち着かせる方法。 この3つを教えていただきたいです。 全部じゃなくても構いません。 よろしくお願いします。
私はまだ未熟ですが曹洞宗の僧籍をもっていて色々勉強しています。 そこでふとなぜ観音様や阿弥陀如来様や大黒天様など存在しない(存在してるか分からない)ものを祀ったり信仰しているのだろうと思いました。 お釈迦様は神仏に祈るより自己を見つめて悟る 自分は自分で助けるということを言っていると私は解釈しています。(間違っていたら訂正していただきたいです) 僕より人生経験が豊富であろうお坊様達に意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いします🙏
バツイチ同士の再婚です。前の結婚では子どもはいません。友人の紹介で今の夫と出会いました。 夫はお寺の住職で、私は寺族です。 結婚当初から、お互いになんとか折り合いをつけてやってきましたが、去年子どもを出産してから、出産する前と同様にお寺の仕事を求められています。 お寺の跡取りの問題で、去年後を継がないと夫が言い出し、父親(住職)とケンカをしたこともあり、それが産後の事で、お寺の仕事と育児で私が限界になっていて、一度実家に帰りました。ケンカの理由は、夫が掃除をしている時に何もしない父親がそばで笑いながら通り過ぎた事に腹を立てたみたいです。 ちなみに、夫は子どもの面倒は一切みません。 去年の6月に出産し8月にはお寺の草取り・除草剤まき・落ち葉拾い・掃除をしてきました。 夫は唯一パチンコが趣味で、去年はよく行っていました。 ある日、いきなり無視されるようになり、理由が分からなくて、義両親にどうしたらいいか相談しました。相談の途中に夫が話に入ってきて、お寺の事を何もしない私が嫌になったと言いました。前からお寺の事は義両親に任せており、兼務寺もあり、そちらをメインでやってましたが、育児に追われて、夫頼みになっている部分はあったと思います。が、去年までは私メインで掃除をしており、育児との両立が出来ず、ケンカをして実家に帰っていた時期がありました。 何とか二人でやっていこうと、話し合い、帰ったつもりでしたが、育児に参加しない夫からしたら、子どもよりもお寺だと言います。 妊娠中からしんどいと言っても信じてもらえず、出産直前まで除草剤を背中に背負って7リットルタンクで撒いていました。 子どもは7ヶ月になり、朝が遅く8時に起きています。ベッドでの転落が心配な為、私も8時に子どもと一緒に起きているのですが、夫から朝起きてこないことを言われ、日中のお寺の仕事もしてないと怒られました。夫は朝6時には起きて欲しいそうです。そして、できるなら育児・家事・お寺の仕事を全部やってみろと言います。そうでもしない限り、何も手伝わないと言われました。このまま結婚生活を続けるかどうか悩んでいます。
うつ病を患って、22年になります。 その間、離婚、両親の死、交通事故等、最近では、大阪北部地震にあい、被害を受けました。 今年の3月下旬ごろから、うつ病が悪化し、辛い日々を過ごしています。 身の回りの何もかもが、できなくなり、廃人のようになってしまっています。 お寺にお参りに行くのが好きで、動ける時は、お参りに行って、よい治療効果があるのですが、今は動けず、お参りにも行けません。 生きるのが辛くて、死ぬことも考えます。 離婚した時から、尼寺に入りたいと思っていましたが、その後、交通事故にあい、膝や腰が悪くなり、正座もできません。 年齢も50を超えていて、うつ病も患っていますが、心身を病んだ人間でも、出家得度はできるでしょうか? 心身を病んだ人間でも、受け入れてくれる、お寺を探しています。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。