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hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」

検索結果: 3037件

地獄に落ちかけたのでしょうか

初めて質問をさせていただきます。 私はよく印象的な夢を見ます。 ほとんどがその時の自分の気持ちや実際の出来事を反映していることが多いので、 自分なりに解釈し、現実世界の行動に反映するようにしていますが最近見た夢で納得が言っていないものがあります。 その解釈をお坊さんの視点でいただけないでしょうか? ========== 私は切り立った岩山に囲まれた峠に居ます。 そこには温泉施設があります。私は番頭さんに声をかけて温泉に向かいます。 温泉は階段を深く深く下ったところにありました。 暖簾には「男」「女」ではなく「嘘つき」「炎」と書いてあります。 変わった風呂屋だなあ、はて、どちらが女湯だろうと迷います。 なんとなく「炎」ではない気がして「嘘つき」の暖簾をくぐりました。 脱衣所は広く、そこには女性だけではなく、男性もいました。 混浴だったか、ではもう一方を見てみようと荷物を置いて「炎」の暖簾をくぐりますが、靴置きに並んだ草履がすべて大層大きいものだったので、やっぱりここは男湯かと思い「嘘つき」へ戻ります。 暖簾をくぐると、私の荷物が漁られているところでした。 ========== そこで夢は終りました。 夢なので大したことはない、思い過ごしだと思われるかもしれませんが私にとってはなんだか気がかりなのです。 シチュエーションとして、夢で見たのは地獄の入り口だったのでは? 炎の暖簾の向こうの草履は、鬼のものでは? 温泉ではなく、釜茹でにされるところだったのでは? もしかしたら何かしらの悪行を積んでいるのではないかと。 ポイントは、私は普段自分のことを嘘つきだとは思っていないこと。 こんな夢をみるきっかけになった出来事に心当たりがないことです。 自分が気付いていないだけで、悪い行いをしているのであれば改めたいですが無意識にやっていることにどう気付きを得ればよいのか方法を知りません。 お坊さんはこの夢をどう解釈しますか? また、無意識に悪行を積んでしまっていたとして、無意識下の行動を改めるにはどうすればよいのでしょうか。

有り難し有り難し 34
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私が主役になど思ってない。

私の書き方が悪く勘違いされている方がいらっしゃるのでここに書かせていただきます。 ①義両親は分娩に立ち会いたい訳ではない。 ②私はお見舞い等に来てほしいなど一度足りとも要求していないし、当たり前とも思ってないです。上のこの時は来ませんでした。 私が主役になど思ってません。 ただ、義父がこの時期に旅行へ行き留守番、その期間に出産されたら困る的な事を言われたから嫌がってるんです。 じゃあ逆に義父は自分勝手ではないんですか?嫁が臨月でいつ産まれてもおかしくない人を差し置いて自分の目の事を優先して旅行へ行き、その期間に出産するな!って事は?私からすれば、お義父さんこそ主役になっているように見えますけど。   お産は命がけで安全でもないし、病院からも、いつ産まれてもいいように準備してください。来れるように準備しておいてください。と言われているんですよ。 なのに、そのことは無視してお義父さんの目に合わせろ!見えなくなることの方が危機感がある。とおっしゃいたいのですか? お坊さんなら、諸行無常 生老病死をよくご理解だと思いますし、自分だけが悲劇のヒロインになっていると思います。 一ヶ月くらい行かなかったから、どうこうなるわけでもないし、すぐ病院に迎えず死産や後遺症で障害が出たらお寺ですからみっともないのではないでしょうか?うちの寺なら大問題でお義父さんも大騒ぎで、障害のある子供とはいらん。というでしょうし、私のせいにするでしょう。 私は嫁としてお寺の跡継ぎになる事も視野に男の子を望み、望まれたから二人で努力して授かったんです。 お互いに優先するところは優先する。 譲れるところは譲る。 でいいのでは?と思います。 男の人は妊娠も出産もできません。 今テレビドラマでコウノトリをやってますので見てください。お産はこうゆう事も起きる可能性がないともいえないのです。 参考までに…。

有り難し有り難し 43
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自己肯定感がなく、追い込んでしまいます

大学四年生、女です。美術大学に通っています。 ここ数年、将来の就職のことや人生のことを考えて気が重くなり、ネガティブな自分の性格も相まってとても辛い日々が続いています。 いくつか例をあげさせていただきます。 ☆他人に対して感じる気持ち ・例えば今日は大学で制作の進捗発表会があったのですが、みんなそれぞれイキイキと制作を進めていて、それに比べて自分はなんてダメなんだろう、、、と落ち込んでしまいました。 ・一年ほど前から、自分から興味を持ち映像の勉強を始めました。 でも大学で話を聞くと、その映像に関してすらも自分よりもっとできる人、自分にはできないことをできる人がいて、私は突出して優れているものがない、と思ってしまいました。 ☆自分に対して ・やることリストを作ったり、毎日日記で自分を振り返ったり、割と向上心を持って生活している方だとは思います。 しかし、頑張っても「今日はこれしかできなかったな」「これがダメだった」と思ってしまい、憂鬱な気持ちで一日が終わってしまいます。 勿論頑張れない日、うまくいかない日の方が多く、そんな日はさらにネガティブに落ち込みます。 口では「ポジティブに生きよう!」と言っていますし、やることリストにもポジティブな言葉を書いています。なのに、どうしてもダメです。 自己肯定感が低いのに、「自分はこんなものじゃない」と高いプライドを抱えているから、こんなに苦しいんだと自分では思っています。 元々楽しくてやってたはずのイラスト制作や映像制作も、 「上手に描かなきゃ価値がない」 「作品作って見せなきゃいけない」 と、自分を過度に追い込んでしまっているのか現状あまり楽しくありません。 それ故になかなか手も進まず、それでさらに「何もできなかった」と自己嫌悪の毎日です。 クリエイティブ職が希望なのに、なかなか手が進まない自分に対して、本当にモノづくりが好きなのかとさえ疑ったりしています。 もっと楽に、深呼吸して生きたいです。 私は自分に期待をしすぎなのでしょうか。 自分が何もできない人間だなんて思いたくないです。望む自分になりたいです。 でも多分、こんな気持ちが自分を一番苦しめているんだろうなと感じています。 長い人生、何が正解とかはないのかもしれないけど、後悔ないようには生きたいです。 なにかアドバイスいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 23
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過去の罪とどう向き合うか

数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。

有り難し有り難し 507
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主人が他人から命を奪われた苦しみ

主人は他人から命を奪われました 身体も半分なくなりました 即死でした、ほんとにこれからの 人生を夫婦で楽しみにいたので どれ程の無念だったか…残った私も いつでも私を一番に思って愛情をくれてた唯一の主人が殺される形で突然逝ってしまったのです、結婚30年目でした、あの事故から2年が経ちますが、私自身は未だに何も受け入れられないし、人との関わりも何を話したらいいのか、病気ならそのままを伝える事は出来ると思うけど、こんな経験はあまり話せる物ではありません 上手くできないし、でもわかって欲しいと思ってしまって、でも無理だと知っての繰り返しで色々悲しいけど思い知りました、その度孤独感に襲われます、ゆっくり進めばいいよと言われて、それしか出来ないと それでもなんとかありったけのエネルギー使って頑張れーと奮い立たせて来ても経験してない人との距離は縮まりませんでした、それでも くよくよしてると主人が成仏出来ないよ、なんて言われて 経験してみなよ、好きでそうしてる訳じゃないんだ、心がもう無理なんだよ❗と怒りにも似た感情が出てきてまたそれが私を苦しめます 生きる事じたいを頑張らないといけない…殺されてなければほんとは 今も元気で普通にしてられたのに… と憎しみも増幅します ほんとに毎日何かと葛藤して それでも感情をコントロールしながらなんとか生きてます 何年こんな思いが続くのか 何も悪くない私達がどうして… でも主人にはちゃんと成仏して穏やかでいて欲しい、ちゃんと供養もしてますし、お花、ご飯、お水を供えて祈ってます、愛する人の命を他人から突然奪われる、この世でこれ以上の苦しみってあるのでしょうか? 私はちゃんと主人に届くようにいきて行けるのでしょうか? 正直疲れて何もかも捨てたくなります、経験して初めて知る苦悩と葛藤でこの先に光は見えません あるのでしょうか? ただただ真面目に生きてきたのに なぜ?どうして?、わからず 救って欲しいです

有り難し有り難し 84
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男性への苦手意識と顔面差別

標題のとおりです。私は男性がすごく苦手で、人によっては恐怖心や嫌悪感を感じており、仕事にも支障が出るほどです。元々人見知りも強く、これまで女性としか接しない環境にあったこと、また、過去に同級生の男子から軽いイジメを受けていたことがトラウマになっているのだと思います。この数年で、かろうじて目をあわせて会話を成立させることができるようになったのですが、それでも距離を詰められるのは苦手ですし、ずっと目を見続けて会話をするのが苦痛で、話している間一瞬他のものに目をそらしてしまうことがあります。そのことが原因で先日お客様からこっぴどい苦情をいただきました(親の育て方が悪い、バチが当たれ云々)しっかり目を見て謝罪をした上で、親は関係ない旨をお話すると逆上され、ただただ怒鳴られ、自分の中でさらにトラウマになりました。しかしこの方、可愛い女性には目がなく彼女達には一切怒鳴ったり口汚なく罵ったりしません。また、この方以外にも女性を顔で選ぶ方が何名かいらっしゃり、あからさまな差別をします(○○さんは可愛いから、○○さんならいいといった感じです)男性にとってやはり女性は顔が全てなのでしょうか。そう考えただけで気持ちが悪くなり、ますます男性を嫌いになりそうです。どうすれば克服することができるでしょうか。(ps.恰幅のよい人や勢いのある話し方をする人、威圧的な男性が特に苦手です。好感をもっている男性や、全く平気である男性も一定数います)

有り難し有り難し 56
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亡くなっても本当にまた会えるのでしょうか?

また質問にきました。よろしくお願いします。 先月51歳の大切な大切な彼氏を病気で亡くしました。彼はバーのマスターでたまに行ってましたが、この8月に2回目の離婚をしたあたりから急激に仲良くなり、ほぼ毎日一緒に居ました。期間も短かすぎて10月から入院したので、思い出や思いでの詰まった物や、病気が悪化しだしてからは話しもろくにできなくて。憤りの無い寂しさと後悔と自分の情けなさ、不安、などどうすればいいのかもう分からなくて。 愛してると何度も言ってくれた彼を不安に思ったり。 本当にもう会えたり話せたりできないのでしょうか? 彼は本当は無になってしまったのでしょうか? 話を聞いてくれそうな、カウンセラーや霊視のできる所をいつも探してしまいます。 愛おしくて、愛おしくて、息がつまります。。私はまだ35歳でまわりの皆んなは幸せにならないとって言ってくれますが、彼を一生忘れられないまま他の人と幸せになれるのか自信もありません。 私があっちに行くその時に彼は迎えに来てくれますか? どうも自分本意な事ばかり書いてしまい本当にすみません。 皆様、行き場のない思いをどうか聞いてやって下さい。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 179
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ある僧侶の死

前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。

有り難し有り難し 71
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