こんにちわ。私は3年ほど前、自分の人生を振り返った時にいくつかしてはいけないことをしてきたことを認識しました。例えば、小学生や中学生の頃友達をからかっていたこと。暴力をふるったわけではありませんが、やられた側からすればとても辛いことです。他にも中学生の頃、人生で一番後悔していることをしていました。当時はやった直後に後悔をしてやめようと思った程度で反省はしていませんでした。そして三年前に今までのことを振り返った時に、すごく罪悪感を感じました。過去の自分が、今の自分の善悪の基準で許せないことをしていました。謝罪、償いができることならまだ救われたかもしれませんが、いくら反省をしたところで、迷惑をかけた人に何もすることはできません。私の自己満足です。もちろん、反省をしてそういったことはしないと決意はしています。そうして考えているうちに、ニュースで見る悪いことをしている人、捕まっている人を見ると自分もあの人たちと同じなんだな、むしろバレないで今に至っているので罪を償っていない悪人だと思いました。それ以降、事あるごとに自分のしてきた事を思い出して罪悪感を感じます。そして、自分によくしてくれる人、友達、家族に申し訳なくなります。自分はそんなことしてもらえるような人ではないと思ってしまいます。もし、自分がこういう悪いことをしてきたということを知ったら、そもそも私と関わろうと思わないのではないか、私はいい人のふりをしているのではないかと思います。過去にこだわるのは良くない、今をよりよくしなければとは思いますが、どうしても自己嫌悪から抜け出せません。というよりも、逃げてはいけないと思います。人は過去や痛みを忘れるもので、常に辛いわけではありませんが、事あるごとに思い出しては落ち込み、またそれが和らぎ、を繰り返して生活しています。何かアドバイスいただけると幸いです。長文を読んでいただきありがとうございます。
こんにちは。是非教えていただきたいことがございます。 命日の8/19日に合わせてお盆のお墓参りをする事になっております。 送り火はそれに合わせて8/19に行ったほうがいいのでしょうか。 調べてみると16日におかえりいただくとなっていますが、16日に送ってしまうと 19日のお墓参りすること自体がおかしいことになってしまうのかな。 と、疑問が出来てしまいました。 アドバイスいただけると嬉しいです。
普段から好かれたくて人に親切にしたり、何か褒美を得られるからといった理由で行動を起こすことが多いです。 そのおかげでよく優しいね、えらいね、と言われますが、実際はとても自分本位な性格なので得にならないことだと途端に面倒くさがってしまいます。 他人に優しくするのも、自分が好かれたい、優しくされたいという下心からです。 浅ましいと自分でも思います。 優しくされたいから仕方ない!と開き直ったり、自分はなんて人間なのだと落ち込んだりする日々です。 どうしていいか分からず苦しいです。でも優しくされたいです。好かれたいです。見返りを求めてしまいます。 その一方で必死すぎてきもいなとも思います。 昔、友人から雑な扱いを受けていて、度々「いないもの」にされていました。発言、行動を無視されたり、否定されたり、馬鹿にされたりといった扱いです。それが2年ちょい続いて正直かなりきつかったです。 向こうは冗談のつもりだったらしく、のちに謝ってくれてこの件は解決しました。でもこれをきっかけに、こんな調子になった気がします。 また、「無償の愛」について語るドラマや人を見ると、そんなものあるわけないじゃん、と思ってしまいます。 そんな考えを持つ自分が嫌です。 長いうえに文章がまとまっていなくて申し訳ありません。 一体どうすれば考えを改められるのでしょうか。
先日もここで相談させて頂いたんですが、母親が亡くなり1週間程です。 来月の中旬に会社で私ともう一人入ってきた方の歓迎会を開いてもらいます。 49日までは、飲み会等を控えといたた方がいいと聞いた事もあります。 欠席はさすがにできないのですが、曜日の変更→10月に入ってからにしてほしいと幹事に言うか迷ってます。 時間が遅くなるので日程は皆さんの空いている金曜日に決定してました。 プライベートの飲み会なら勿論断りますが、会社の関係で私の事で日程変更少し言いづらいのもあります。 でも常識的に49日までは控えるべきと言われたら変更してもらう予定です。 肉とかも控えるときいた事がありましたが、大好物なので、家族父親も兄も普通に今食べています。 私が楽しく過ごしている事が供養とも思いますが、仏様になるまではやはりやめといた方がいいのでしょうか? ちなみに私はアルコール全く飲めないので烏龍茶で飲み会参加します。
前に爆竹を家に投げ込まれて、やってる奴の予想はついてたので、先生を通して聞いたら、認めました。 そのわりには、悪口をいってきたり、反省の色をみせません。 さすがに腹がたちました。警察に通報したらどのような対処になると思いますか? 一応本人が認めたという証拠はあります
親しくしていた友人が若くして不慮の事故で亡くなりました。つい先日まで普通に接していたのに、いまだに信じられない気持ちです。働き盛りでまだまだやりたいこともあったろうに、まだ伸び盛りの子どもたちの成長も楽しみにしていたのに、といろいろ思うと残念でならず、彼の姿を思い出しては冥福を祈ってしまいます。 私は浄土真宗の本願寺派門徒ですが、真宗では冥福を祈らないという考えがあるのを承知しております。「祈りは自分の欲望実現の手段であり、人生無責任思想へ結びつく考えです」「死者を頭から不幸な世界と決めつけ、自分の祈りでその不幸から抜け出せるとうぬぼれている」、真宗僧侶の著書にもある通りかもしれません。 まだ、彼の死を自分が受け入れられず、自分の無念を死んだ友人の気持ちにすり替え、冥福を祈ることにっよって自己満足を得ようとしているだけなのでしょうか。それでも、いまはまだ冥福を祈ることしか、自分の気持ちをおくところがありません。これからどう気持ちを整理していけばよいでしょうか、アドバイスをお願いします。浄土真宗のお坊様のお答えをお待ちしております。
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。
浄土真宗(西本願寺)です。 菩提寺から、墓檀家には月参りを義務付けると言われました。 理由は、ある檀家が行方不明となり、墓維持費も徴収出来ず、無縁墓トラブルで警察沙汰にまで発展したため、無縁墓対策としてとの事でした。 何かズレているように思えてならないのですが。 月参りをすることで、檀家との繋がりが絶対的なものになるとは思えません。 そもそも、墓を放り出して行方不明になるなんて、寺との信頼関係が出来ていなかったからでは!? 月参りの意義が分からなくなりました。 月参りが出来ないのであれば、墓仕舞いをするようにとまで言われています。 後継ぎがいませんので、墓仕舞いも考えないといけないのですが、まだまだ先の事と思っておりましたので、今回の寺からの発言に不信感がつのっております。 私は、毎日家族が仏壇に手を合わせる事が一番だと思っています。(言い換えれば月参りは必要ないと思っています。) それだけではいけないのでしょうか?
私は 現代医学では治すことのできない 病を抱えた娘を出産しました。第一子ということもありとても本当に可愛いくて大切な存在であり私の人生の全てでした。そんな愛しい娘が 懸命に生き 0歳と4ヶ月4日という短い生涯を終えました。 出産前から 我が子が短命であるという宿命を抱えて産まれてくることが分かったいたので覚悟は出来ているつもりでした。いざ娘が天に召されてから 毎日涙が止まらず 寝付けない日々が続き 精神的にも肉体的にも いっぱいいっぱいです。 娘のことを思うと 母である私が1日でも早く立ち直ることが 彼女にとって安心できる事なのだろうとは思っているのですが もう 出来ることなら娘のそばへいきたくて仕方ありません。 今 何を生きる糧として生きていけば良いのかも分かりません。 どうしたら良いのでしょうか。
お釈迦様が入滅の前に弟子のアーナンダに自灯明、法灯明を教えましたが、私は今の世の中こそ、この教えをとても大切にする必要を感じてます。 私は、この、自らを灯とし、他者を拠り所にしないという教えを自分の人生に課しています。自分を理解した上で自らを律して、自分の力で立っていることをとても大切にしているつもりです。 しかしながら、社会の中で多くの人と関わりますが、情報がありふれて混迷するこの時代に、他者との関わり方も形を変えて複雑で多様になる為、自らをよりどころに自らを灯すことも難しく感じることがあります。 そこで、法灯明、法をよりどころに、仏様の教えを学ぼうと考えておりますが、仏教の教えに頼ることは、自らを拠り所にすることになるのでしょうか?法とは、どのようなことを指すのでしょうか? 私は人生で、困難や逆境を前にした時に、自分に自信がなくなり、生き方に、選択に迷いが生じることがあります。誰かに頼らず、自らの意思で乗り越えようと思うのですが、何かの道しるべがほしくなる時があります。 法灯明として仏様の教えに頼ることに、自分が考えることから逃避する恐れを感じるのですが、法灯明の法について教えて下さい。 何の教えを、どのように学び、どのように自分に取り込むべきでしょうか?また、その方法について、何かアドバイスがあれば教えて下さい。
阿弥陀如来の本願によりたのみ、感謝してお念仏を称えれば極楽浄土に往生できる、これはわかります。 しかし、この世で生きてる間に正定聚に入ったとして、それで苦しみを感じないような境地に至れるものなんでしょうか? 聖道門には六波羅蜜がありますが、六波羅蜜を行ったところで苦しみを逃れられない、というのはわかります。ただ、苦しみとの向き合い方はわかります。 浄土教ではこの世の苦しみとの向き合い方について、どのように教えてらっしゃいますか? いま浄土門のみ教えについて調べており、純粋に疑問だったので質問させていただきました。
あるお坊さんのサイトを見た時、こんなこんな考えがあるのかと思った事があります。 「ヘビに食べれそうになっていた猫を助けた人が称賛されている。食べ物を奪われたヘビの気持ちはどうなのか、人間が他の生き物の生き死にを決めていいのか」 この考えを見て、猫を助けるべきだったのかそうでないのか、答えは無いと思いますがお坊さんの考えを聞きたいと思って質問させて頂きました。
もう死ぬしかない気がします。 頑張っても、学ぼうと思っても 学んでたことが 間違ってることだらけでした。 惨めです。 こんなに間違ってる人はいないです。 みんな笑ってると思います。 私は最下位です。
彼がなくなりました。 仕事のノイローゼからきたうつ病による自死でした。 恐らく衝動的なもので、だから、自殺だとは思ってません。 病死だと思っています。 ですが、亡くなる直前に電話したのは私で、もしかしてそれが彼の自死に最後の一押しをしてしまったのではないか、私と電話しなければ今も生きていてくれたのではないかと後悔ばかりです。 後追い自殺も正直考えましたが、色々な仏教のお話を読んで何とか踏みとどまっている途中です。 また彼が亡くなったのが受け止めきれず、仕事が手につかなくなり辞めて実家に帰ってしまいました。 遠く離れているのですが、彼の為にできることはありますか? 宗派で何か違うのでしょうか? 彼の家は高野山真言宗でした。 彼の供養のために、彼が早く楽になれるように私にできることを知りたいです。
とあるゲームで、大好きなシリーズ作品があるのですがその作品が新作を発表したり活動をするととてもしんどくなることがあります。 15年以上好きな作品で、何時間も何周も繰り返しプレイするほど愛していたのですが自分が社会人になった頃からその作品の新作の作風が自分の好みから少しずつ外れるようになってきました。 それでも新作が出る度に購入し、ひととおりクリアをしました。 SNSもその作品をきっかけにたくさんの方と交流しているのですが作品が活動する度に見かける楽しそうな書きこみや、公式からの発表を見ると何故かしんどくなります。焦りや不安に近い気持ちになります。 たかがゲームのことですが自分が長い間好きだったものですので他のことをしているときも時々ふとつらくなります。苦しくなるときもあります。それでもその作品のことはこれからも応援していきたいです。 こういう時の気持ちの持ち方や受け止め方を教えてください。
3月に娘が亡くなってからお世話になっております。 2ヶ月数日後の先日私の祖母が亡くなりました。95歳でした。 生前、私共夫婦、長女、二女で入院先にお見舞いに行っておりました。 長女が亡くなってから祖母は、順番が違う、一人でかわいそうだと泣いていました。早く行ってやりたいとみるみる弱くなっていきました。 きっと長女の側に居てくれるんだと思います。 続けて悲しむわたしの姿を見て二女の気持ちが心配なので心配させないようにしたいのですが、空回りしているような気がします。 長女に手を合わせて落ち着かせていますが、手を合わせる際には念仏を唱えるのでしょうか? 長女に話しかけたり、近況を話したりしますが本来長女にしてあげることは何かと思いまして聞きたいと思います。
いつもお世話になっております。 忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、 「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。 これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を 受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、 ということでしょうか? それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう 自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。 という教えでしょうか? 後者が当てはまるとすれば、 例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく 堂内にいるので接触しないよう待機、 立ち去ったら私は私のお参りに入ります。 ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている 一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく 席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに 「お手数をおかけしてしまってすみません。 おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」 と言ってお支払いをしてお店を出た…とか… いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
社会人になってから3社目、転職してきて半年ですが、仕事が出来ない上に、みんなに嫌われているように感じてます。相談出来る相手もいません。会社で居場所がなくて、本当に辛いです。 今の職場は、世に言うホワイト企業で、働いている人はみんな優秀で、環境はとても恵まれています。着いていけないのは私の実力不足と、コミュニケーション能力の欠如が原因だと感じてます。 嫌われた原因は、私が仕事出来ないのに出しゃばって仕切ろうとしたことがあったことが原因だと思ってます。 そのときは本当に私は口だけの人間でした。 上司にマネジメント能力を求められていて、意味を履き違えたんだと思います。今はバイトさんにさえ、指示を出されるような状況です。 仕事については、私なりに努力しているつもりなのですが、空回りなのか、努力が足りないのか、本当に何も結果がでません。結果を出そうと思えない…というか、本当に何も出来ないんです。何を求められているのかが、理解できないです。 私自身は半年前よりは私なりの成長を感じてはいるのですが、そんなの微々たるもの過ぎて、周りからみたら本当にお粗末なものだと感じてます。 今、チーム全体で取り組んでいる仕事があるのですが、私が使えない人間なので、みんな余計に呆れているような気がします。なので、今はよりツラい思いでいっぱいです。 努力で補えばいいのですが、机に向かっても全く頭が回らず、逃げ出したい!ということばかり考えてしまいます。 会社を辞めることを検討するべきか、でも、この歳で逃げてばかりいるのもよくないですし…、でも、このままいても私は何も身動きがとれなくなってしまうような気もしています。 お恥ずかしいかつまとまりのない相談ですが、何かアドバイスをいただければと幸いです。
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。