こんにちは。 動画で仏教の勉強をしている時に、難しい話ばかりで 長時間勉強が非常に集中が続かなく、飽きてしまうのですが お坊さん達はどうやって、 仏教の勉強をしましたか? 実践ないことには身につかないことは承知なのですが、 実践の仕方、歴史を学ぶためにその動画を見ています。
個人情報を悪用する「ならず者(犯罪者)たちのせい」で、軽軽に自分のことすら、話せなくなってしまいましたね。 私のスマホにも、「カネ(個人情報)を盗む目的」の通知・メールが、何通も来ています。迷惑千万です。 意志疎通をはかるためには、お互いの個人情報を、把握する必要があるのですが・・・。それが、容易ではなくなりました。困ったものです。 悪影響は、このhasunohaにも及んでいますね。一見すると、話が噛み合っていないように感じる問答が、散見されます。これも、お互いに、個人情報を開示できないために生じる齟齬なのでしょうね。 回答僧を名指しで批判する人もいるようですが、私に言わせれば「筋違い」です。 短い時間、限られた文字数、ごくわずかな手掛かりだけでは、限界がありますよね。回答僧の皆様は、知恵をしぼっておられると、私は思っていますが・・・。 冒頭に書いた理由から、(私も含めて)多くの人が、疑心暗鬼に陥っていると感じます。それに、コロナが追い討ちをかけてしまいましたね。 回答僧の皆様は、このような難しい状況下、意志疎通をはかるために、どのように対処されていますか?
現在勤めている職場では 道端で倒れ脳障害を患い健在の頃の一切を忘れ、名前さえも行政がつけた仮の名前。家族から見放され亡くなった後もお迎えもない方、まだ50、60代と若い年齢にもかかわらず回復が見込めず寝たきりでただ死を待つ方など そういった境遇の方々を日々お世話させて頂いています。 私は無宗教で霊感やスピリチュアル的な事には無頓着ですが 10年程前から夢枕?で不思議な事が度々あり(例えば仏壇の前に4人のお婆さんがいて物凄く怒られて゛妙゛の文字を見せてくる。横綱がつける化粧回しをした寿老人みたいな方が私の手に石を積むなど)最近では 「洞穴光明」といった言葉が眼前をチラチラ。後で調べると何かと仏教へと繋がっていきます。 今まで挫折の連続の人生でしたので自分自身に叱咤激励されてる感覚で捉えていました。しかしながら、今後 中長期的な目標や計画がなく 職業柄 将来の自分の姿が目に浮かび早めに゛他界゛したいと考えいて自制する日々です。 家庭を持てば 心境の変化があるかもしれませんが、悲観した未来を持ったまま 恋愛、婚活などをしようともおもいません。 ただ、まだやり残してる事があるような感覚、それがあるのは事実。 生き続ける上で普段からの心構え、意識の持ちようなどアドバイス頂けたら幸いです。よろしくお願いいたします。
私は自分の肌にコンプレックスがあります。そのせいで人と話すことは大好きなのに最近は学校に行くことも苦痛に感じています。 望んでこんな風に生まれたわけじゃないのに、なぜこれほどまでも悩まなきゃいけないのかという思いで胸が痛いです。 この悩みのせいで生きることがつらくてしょうがないです。 違うことに没頭すれば忘れられるかな、と考えてもすぐに‘‘どうして私だけ”と思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょう。 どうしたら前向きに生きていけるのでしょうか。 教えてください。
この度3人目を妊娠しました。 まだ一昨日わかったばかりで、正直、驚きました。避妊をした上で妊娠したので、避妊がうまくできていなかったのです。 ひどい人間で申し訳ないのですが、実際妊娠してみて喜びよりも不安が大きく、今なぜか、とても落ち込んでいて、落ち込んでいる自分にも苛立って、せっかくきてくれた命に申し訳ないです。2人の妊娠、出産を経て妊婦生活、そして産後がどれだけしんどいか知っているので、余計に不安です。 そして、我が家は現在とても裕福なわけでもありません。 ネットで3人目の妊娠について調べていたら、「裕福でないのに3人も4人も産む家庭は子供がかわいそう」「3人目の妊娠が不安ならなぜ性行為をしたの?気持ち悪い」「3人出産した女性が一番不幸というデータがある」「そもそも子供自体贅沢品で、裕福な人しか授かるべきではないのに3人なんて論外」という意見を沢山目にしました。読んでいて涙が止まらず、胸が痛くなり、でもそうなるのは自分もそう思っている部分があるからで、それなのに3人目も妊娠してしまって、自分がみっともなく思って仕方ありません。 今回、私も妊娠がわかった瞬間喜べず、毎日このように絶望しているので、産めないと思い、中絶を考える時もあります。主人には何度も産めないと言いましたが、せっかく授かった命だから頑張ろうと言ってくれています。 今いる2人の子供がニコニコと笑って楽しそうな姿を見て、もしかしたらこの子達にも色んな我慢をさせてしまわなければならないのかもと思うと涙が止まらず、私が妊娠したことは間違いだと思ってしまうのと同時に、お腹にいる子に本当に可哀想な考えで情けないです。 自分が情けなく実家、義実家の家族にまだ妊娠の報告はしていません。 話がまとまらず申し訳ないのですが、3人目の妊娠、出産に対してどう思われるか、もしコメントをいただけましたら幸いです。 書き終えて読み直して、改めて、自分が愚かなことは重々承知です。
もし、知らない誰かに殺されたら許すべきですか?或いは殺されかけて障害持ちになったらその人を許すべきですか? 人の怨みは集団であればあるほど増幅します。犯罪リスクも高まります。 この日本も例外ではありません。 いつ誰かに恨みを持たれて、その恨みを共有してなんていうことをしていたら、そいつ殺しちゃえば?と誰かが言ってその人は殺されてしまうかもしれません。 殺されて、或いは障害持ちになってもその人を許すべきか教えて下さい。
昨日、二度帰らないと言って出て言ったはずの母親が帰ってきてしまいました。「夕飯くらいつくれ。このデブ。お前はいらない人間だから仕事もみつからないんだ。わかる、わかる。お前の顔は二度とみたくない」そう言っていました、昨日。今日、とりあえず夕飯の買い物に行きました。今までの母親の性格からして、ご飯を作っても必ず文句を言う。はい、言いました。「誰がお前か買ってきたものを食うか。こっちが買ってきたものを食べるな」ほら、ほら、です。お茶も私が沸かしているので母親はペットボトルのお茶を買ってきて飲んでいます。部屋は個人の部屋がなく1階を別々にいます。出ていけコールをされます。能無しで親を愚弄する女は雇われない。お前みたいな女はいらないんだ。お前の友だちも私を愚弄する(私に友だちはいません。母親に馬鹿にされるので嘘でいます)もう限界です。死にたい死にたい死にたい
恋人はいないし友達も予定が合わなそうです。 好きではない女性と遊ぶことはできますが、 それは相手にも失礼なような。 どうするべきでしょうか。
約4か月前に2回、親との関係修復の件で相談しました。その後の、その続きの相談になります。 その後も、手紙を出したりしましたが、返事はありません。自分でも、ここに相談させていただき回答をいただいたので、何度も読んで考えたりしました。 親には親の気持ちがあるのでしょうから、諦め時かなとも感じたりしています。しかし、最後に親戚に仲裁をお願いしたいと考えました。 ただ、親戚は迷惑かなと思い頼めないでいます。最後は、これが精いっぱいの考えで他に浮かばずです。仲裁と言うより、仲介というのかもしれません。
灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に関する質問があります。 灌仏会(花祭り)釈迦牟尼の誕生日に於いて「天上天下唯我独尊」などの誕生偈を唱える宗派はありますでしょうか? また、その唱える誕生偈の文面とその引用のもととなったお経は何でしょうか? ご解説お願いいたします。
私は就職活動中の25歳大学院生です。 就職する時に大切なことは5年後、10年後の計画や目標を立てる ことだということを何度も人から言われるのですが そもそも自分のやりたいことがない私には将来的な計画や目標を 立てるのが難しいのですがどうすればいいのでしょうか? また、仕事をしてから初めて自分のやりたいことがわかるという 意見もあるようですが今の自由に職業選択ができ、職業を自分で取捨選択し、その責任を自分で取らなければならない時代にはあまりこの意見はつじつまが合わないような感じがするんですがどういう風に 考えていくのがいいんでしょうか? なにかアドバイスいただけたら幸いです。
一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?
以前友人を自死で亡くした事があります。 だいぶ乗り越えてはいますが、ふとした時に急にものすごい悲しみにおそわれる時があります。 でも、それは仕方のない事と受け入れていましたが最近また違う感情に悩んでいます。 今とくに悩みや死にたいと思う事があるわけではないのに、自分が死ぬ事ばかり考えてしまいます。自分が首をつっている所や胸に包丁をつきさしたり、そのような事が頭にうかんできます。 死にたいわけではないのに、そうしたくなるんです。 とくに疲れている時や、自死した友人の事を思い出すときに。。 鬱なのかなぁ、と思いますが自分が突発的に死んでしまうのではと不安になります。だけど、深い悲しみからか心が壊れてしまい、死ぬ事に対して怖いとか感情もなく無の感情になる時もあります。 自死した遺体も見ていますので、その光景が頭から離れない時があります。自分が認識しているより心のショックが大きいかもしれません。 どのように心をもっていっていいかわからず、早急になにか心を変える言葉をいただきたく書かせていただきました
幼なじみの父親が亡くなりました。 小さい時からかわいがってくれたおいちゃんです。 葬式の日程を聞くと 家族葬だから遠慮して欲しいと返答。 おいちゃんの仕事、友人関係も断るとのこと。 最後にお別れがしたかったのですが 別の意味で涙が出ました・・・ 最近、こういうの多いんですか?
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
アラフォーの主婦です。 私には2歳下の弟がおりますが、子供のころからひどいてんかんで、ついに廃人みたいになってしまいました。 障害者手帳持ちで結婚なんて無理でしょう。 父はアル中状態で小さいころから毎日言葉の暴力などをうけてました。 二時間、三時間グチや否定的な言葉をなげつけられてました。 弟はストレスでけいれんを起こしたりするので母は弟だけをつれて別室ににげて私は「お父さんの話をだれか 聞かないと!あなたは大丈夫だから」といけにえにされてました。おかしいと気づいたのは成人してからです 夫は鬱状態 子供はとても手がかかります 母は孫や私と遊びたがりますが、私の悩みなどは「お母さんのほうが大変。あんたも一人でがんばりなさい」と… 私も小学生のころからいじめられつづけています。 就職しても覚えが悪く、人との付き合い方がよくわからず、いつもクビです つい最近、弟の間にもうひと一人兄弟がいたと発覚しました 生活に苦しくおろしたそうです。 私がこんなに不幸なのは母が手にかけた兄弟のせいでしょうか
よろしくお願いします。 「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。 「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」 というような雰囲気を感じています。 特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。 その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
お忙しい中、申し訳ありません。 心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。 昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。 バスにある若者が乗ってきました。 若者は優先席に座りました。 次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。 別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。 若者はうつむいて座っています。 お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。 次の瞬間、乗客たちは驚きました。 若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。 乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。 私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。 あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。 お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。 このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。