漠然とですが20代の頃から、いつかはどこかの宗教の信者になって、それを心のよりどころ、自分の手本にして生きていきたいと思ってました。 そして去年、座禅を知りとその流れで曹洞宗を知りました。座禅を知ったと言っても座禅会などに参加したわけではなく、ただ、座禅に出会った程度のものなのですが、ちょうど悩んでた時期と重なり、座禅、道元禅師の言葉がその時の自分の心にすっと入って心が楽になった気がします。 私の家は分家で、宗派は浄土真宗らしいのですが、母親にそのことを伝え相談したところ、自分の好きな、信じることのできる宗派に入ればいいと言ってもらえました。 そこで神様も仏様も何もかも知らない私が曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう? どうすれば信者になれるのでしょうか? また、こんな気持ちで宗教を決めてしまって、いいものなのでしょうか? この質問で浄土真宗から、曹洞宗に変えたいと言ってますが、決して浄土真宗をバカにしているわけではなく、ただ、その時の私に曹洞宗がすっと入ってきたような気がするだけです。 よろしくお願いします。
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
初めまして。 私は小学、中学生の頃に同級生から仲間はずれにされたことや幼少期のトラウマなどで高校生の頃から他人の反応や言葉遣い、対人関係で気を使いすぎてしまいます。そのせいで自分自身がすごく疲れるし日々生きるのが苦痛です。いじめを受けていた理由としてはADHD、ASDなどが要因の一つでした。 その頃はまだ発達障害と診断はされておらず、親も気づいてなかったので周りの友達からは面倒くさがられたり空気が読めない奴と思われていました。女子特有のいじめも中学時代に経験して高校生になったぐらいからは鬱になってあまり学校にも行かなくなり、 地元の心療内科に通い始めました。 その頃から抗うつ剤などを飲み始め、朝起きれなくなりなおさら学校に行きにくくなりました。またトラウマで同級生やバイト先の人、どんなことでも関わる人に対して嫌われたくないと思ったり、本音を言ったら嫌われると思い気を使いすぎてしまう性格になってきました。 26になった今ではどんどんこの性格がひどくなってきていて本当に生きづらいです。心だけでなく、身体のほうにまで影響が出ていて肩こりや頭痛が酷くてまともに仕事ができていません。気にしなくていいことまで気にしてしまうので自己嫌悪も酷く、鬱になります。友達に本音は言えないしリアクションもわざとオーバーにしてしまったり、八方美人な反応をしてしまいます。 人生で誰からも好かれると言うのは無理と言うことはわかっています。100人いたら私のことを嫌いな人は少なからずいるというのは分かっていても嫌われたくないと反射的に思ってしまうのです。もうそんな人生に疲れました。友達も素を出せるのは1人とかで、あとは母親と祖母ぐらいです。この性格を治して自分自身をもっと好きになりたいです。 病院ではすでにカウンセリングもしているので、私がこれから生きていくうえで心掛けたらいいことや皆様からの何かアドバイス、助言をいただきたいです。分かりづらく拙い文章で申し訳ありません。よろしくお願いします。
最近は、犬や猫などの小動物はペットというよりも家族、という感覚になってきていて久しいですが、その反面酷い動物虐待の事件が後を断ちません。 ネットが出来てからというもの、わざわざそういう動画や画像をネットに流したりする外道も多いです。 殺処分も同様ですが、そんなひどい目に遭った子たちは、ちゃんと成仏できるのでしょうか? 恐怖と苦しみを引きずったまま、この世を彷徨っているのではないだろうか? そしてそんなことに楽しみを見出す外道にはちゃんと罰が下るのでしょうか? 最近立て続けに酷い事件を知ったので、どうなのだろうとずっと思っています……。
お世話になっております。こちらの相談を利用させて頂き、お陰様で人生で最悪な時を脱したと自覚しています。 頂いたお言葉を反芻し、心の支えにしています。人間関係が希薄になりがちな現代につながりを実感できる貴重な手段です。 だからこそ、余計なお節介とは重々承知しておりますが、気になってしまいます。 近頃、メールでのアンケートやLINE相談などの受付が開始して、ユーザーとしてはますます身近になったものの、お坊さんや運営の方のご負担が随分増してしまったのではと考えてしまいます。 自分の人生経験は浅いながら、相談を受ける側も、する側も、感情的になったこともあります。どれも大変、労力を使います。自分が明日から大勢の悩み相談を受けろ、と言われたら卒倒するかもしれません。 日常でも、就職活動でセミナーなど受けるうちに、講師の方はどんな心持ちでいるのだろうか、相談員として人の話を聞く人はどうやって自分をケアしているのだろうか、ということに気が向くようになりました。 是非お聞きしたいです。日々、沢山の悩み相談に向き合い、なお相談者の悩みに飲み込まれない秘策があるのでしょうか? 自分は過去の経験から、ちょっとどころではなく人が苦手なのですが…人がお好きだからできることなのでしょうか? 自分より他人へ目を向けられるくらい回復したのも、hasunohaのお陰です。 収入がでたら物理的に応援できるのをモチベーションに就活を頑張っていこうと思います。
はじめまして!両親に対する自分の負の感情について悩んでいます。 大好きが大前提にありますが、悪いところばかりが目立ち、嫌になることが最近多いです。 母は、普段は人当たりがよく明るい性格ですが、身内に対して、敵対心が強いです。特に父に対しては、お酒を飲んでいる際にスイッチが入ってしまうと、泣きながら、父からモラハラを受け続けているというような事を言い続けます。こうなると、酔いもあり、何を言ってもダメです。ちなみに内容は、『過去に』父が言った言葉についてです。 酔いながら泣く母が何を望んでいるのかが分からず、いつも適当にあいずちを打って、寝かしつけます。(この状態で父に会うと、永遠と終わらない激しい喧嘩になるからです) 母はこうやって聞いてもらえるだけで良いと言いますが、私自身が、変えることができない昔の話を繰り返し聴くことが、正直辛いです。 かと思いきや、次の日はやたら父に尽くすような行動をし、またそれに対しての見返りがないことを怒ります。心優しく大好きな母ですが、とても見栄っ張りで、すぐに他人と比較し、過去の話ばかりする所は良くないと思います。 また父に関しては、優しいが(甘いの表現が正しいかもしれません)、非常に頑固で、気に触ることを言うと直ぐに怒ります。母に対し、労う言葉や姿勢などを見せて欲しいと言うと、母が悪いんだとキレ出します。 一家の大黒柱として働く父を尊敬していますが、頑固な面や、嫌なものから逃げる所等が目につき、父に対し常に腹を立てています。母とは普段良く話をしますが、父とは最低限です。 わたしは、自分は幸せな家庭に育ったと思います。これは昔から変わらない考えです。父母も人間で、良い面もあれば悪い面があるんだ、と割り切れない自分をどうしたらいいのか、悩んでいます。 また、自分も同じように父母の悪い面を受け継いで、将来同じような事になるんじゃないかと、不安です。 贅沢な悩みなんだろうと思いながら、ずっと悩んでいた事を質問させていただきました。長文で失礼いたしました。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。
天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
NHKでみたのですが、永平寺での修行はとても大変そうですね 修行していた方、どうでしたか? 並の人ではとても耐えられないような修行ですがどのような気持ちで修行していたのですか?
死にたくて死にたくてたまりません。 近いうちに死のうと考えています。私が死んでも悲しむ人はいません。死んでも地獄だとしても構いません。もう限界です。生きる価値がないので死ぬだけです。地獄でもいいのですがどちらかというと極楽浄土に行きたいので祈ってください。厳しい言葉は聞きたくありません。聞き飽きました。仏教の勧誘も入りません。わがままでごめんなさい。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
何度も申し訳ありません。もう直ぐ妻の四十九日を迎えますが、気持ちが落ちつくどころか妻の後を追い自死したい願望が非常に強くなりました。 何処へ行くにも何時も妻と一緒だったので、その時その時の光景を思い出してしまい大ぜいお客さんがいるお店でも涙を流しそうになってしまいます。 今、改めて私が妻を心から愛していたことと、本当に家の事は妻に頼りっきりであったことを痛切に感じてます。ですから、尚更辛く生きる希望もありません。 できることなら四十九日を無事に済ませ納骨をし、自死したいくらいです。ただ、私にはワンちゃんが2匹(妻が可愛がっていた)いることと、相続の問題があるので自死を躊躇っています。 質問は、私が自死をした場合、先に自死をした妻に再会できますか?今までのお言葉では、自死者も必ず成仏をするとのことでしたが、もしそうであるとすると私が自死をしても成仏をし、妻に再会できると考えても良いということでしょうか? 良い歳してつまらない質問かもしれませんが、私にとっては、大変重大な問題なのです。あの世で再び妻と再会をし、また夫婦になりたいのです。 本当は、この様な質問をする事が怖いのです。自分の意志や今までの御答えと間逆な御答えがあった場合、どの様にすれば良いのか混乱してしまいそうだからです。現在、病院に通っていますが、どうしても前向きな考えができません・・・どうかお教え下さい。
ネット配信サービスで映画『ファンシィダンス』を観ました。 主演の本木雅弘さんは私とほぼ同世代ですが、公開当時はお寺に関心がなく、観ていませんでした。改めて今観ると、とてもコミカルで楽しい作品で、「もっと早く観ておけばよかった」と思いました。(当時のバブル時代の雰囲気も懐かしいです) この作品はお寺での厳しい修行が見どころですが、実際に修行を経験されたお坊様方のご感想や体験談、ツッコミをぜひ伺ってみたいです。 たとえば―― 「ここに共感した」 「ここは現実ではあり得ない」 「自分の時はもっとツワモノがいた」 「私はこんな失敗をやらかした」 ……などなど。 宗派や時代は問いません。皆さまのリアルなお話を楽しみにしています。
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
こんばんは。 どうしよう。涙が出そうです。 病気の事に関しては以前通院していたないかの先生は「もっと前からなってたんじゃないの?」と言われました。 病気でもたいしたことないんですが、今テレビでも話題になっている「バセド病」です。よーく考えてみると先生の言うとおり小学生の頃からだったと思います。よく「目が大きいね」といわれてました。 学生の時は、なんでも興味津々でした。夢もありました。でも今は、やりたいこともないです。前向きになれません。 どうせ死んだって、亡くなった友人に逢えるわけでもないし、将来の旦那様と同じ墓は入りたくないし。 やっぱり一人がいいです。 何故そんなに無縁仏がいけないんですか?
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします