僕は仏教と神道が大好きで神様と仏様を同じように尊い存在として崇敬しています。 明治以前両者の距離は極めて近くほぼ同じ存在と言ってもよい状況でした。 僕はそれこそが仏教、神道双方の良い所でありそれが自然な形であると信じています。 今は失われてしまった神仏習合を実践しこれから先神道と仏教の距離を少しでも近づけることができるように、また双方の立場から物が見れるように僧侶兼神主になることが僕の目標です。 僕の家も寺院なのですが父にこのことを話すと家の宗派ではこの夢を実現するのは難しいと言われました。 そこで僕は真言宗の僧侶になろうと思っています。 そのための具体的な道筋もある程度決めてあります。 真言宗の大学に通い僧侶の資格を取った後、神主の養成学校で神主の資格を取り将来的に神社本庁の神社で働くという感じです。 寺院ではなく神社の側で働くのは、鎮守社や権現様をお祀りする形でどちらかと言えば神道の要素に寛容な仏教に比べ神道は明治時代に徹底的に仏教要素を排除した状態のまま基本的に変わることなくそのまま今現在まで続いており仏教以上に神仏習合の下地が出来ていないからです。 宗派として真言宗を選んだ理由は元々真言宗に興味があった事と歴史上真言宗は他宗派や神道など他の教えに対し積極的に共通点を探し共に進んでいく姿勢を持っていたからです。 しかし一つ問題があります。 真言宗における僧侶の資格と神道における神主の資格、この両立が出来るのかが分からない点です。 先ほど書いた通り僕は神社で働きます。 その状態でも僧侶の資格を持ち続けることは真言宗では可能なのでしょうか? 知り合いに真言宗のお坊さんや信徒の方がいないため聞いて確かめることも出来ません。 勿論お金や労力など神主の仕事をしながらも宗派、教団のために出来ることは全て果たしていきたいと思います。
既出の質問でしたら申し訳なく思います。 お坊様に拝聴したい タイトルの言いたいことは自分の宗教を決めて良かったと思うか ということになります。 私の実家では真言宗です(神道もやってます)。 私自身、信教することになんら不思議はないのですが、私は次男分家の立場で、自由にしなさいといわれております。 特に宗派、宗教を決めずに郷に入れば郷に従えで生きていました。 ただ、色々と話しを聴いたり勉強していく中で「なるほど先達の言うことにも一理あるな」と思っています 色々と悩み・障害・苦・反省を繰り返す今の自分の生き方に案内をお願いしたく存じます。 よろしくお願いします。
我が家は菩薩寺がない状態です。 昨今は宗派を問わない民間の祭儀場があり、近隣住民もそこを利用しています。 末代の私が宗派変えを言い出したため、総本山で近辺の菩提寺を探してもらったのですが、檀家を取っていないとのことで、菩提寺探しに難航しています。 急ぎで法要や葬儀があるわけではないのですが、私自身が素人信者なため、経験の深いご住職や僧侶様の教えを頂戴したいと考えているところです。 教えを乞う、というのはおこがましいのでしょうか。素人仏教徒にとって必要なものは一体なんでしょうか。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
以前、『あなたはダレ推し?』ということで質問いたしました。 http://hasunoha.jp/questions/138 みなさま回答いただいたご存命の推しメンは、「尊敬する師匠」的存在だなぁと思った次第です。 そこで、【身近な人で】ダレを推すのか教えて戴きたいです。 「尊敬する師匠」的存在ですと、ちょっと・・・取っつきにくいというか(質問しておいてすみません)。立派な方なので、本を出されていたり、勉強になる感じというか・・・。 AKB48のように、「会えるアイドル」ならぬ「会えるお坊さん」が知りたいです。 同じ宗派の方でも、他宗派の方でも、お一人でも、複数でも、けっこうです。理由もどうぞ。 ここで紹介したせいで、大変なことになる・・・そんな可能性もなきにしもあらずでしょうか??無理の無い範囲で結構です。宜しくお願いします。
息子を自死で失いました。 家は浄土真宗本願寺派らしいのですが、普段からあまり信仰心がなかった為直葬にしました。 亡くなった時に着ていた服や使った紐を私の枕元に置いているのですが、供養してあげた方が良いのか悩んでいます。 お坊さんをお呼びし読経してもらった方が良いのでしょうか? 納骨もしてあげた方が良いですか? 3日後が49日ですが、間に合いそうにはありません。 もし、今後お寺で供養してもらうとなると子供と繋がりのあったお家がお寺で宗派が違うのですがそちらにお世話になっても良いのでしょうか? そうなると今後は私の家系はその宗派という事になるのでしょうか? いくつも質問してすみません。 亡くなった息子が苦しまずにすむようにできる限りのことをしてあげたいのです。 ご教授頂ければ幸いです。
以前にご相談させていただきましたが、実家の菩提寺との関係が良くなく離壇の方向で住職と話を進めています。 菩提寺は真言宗智山派です。同宗派でお寺を見つけることができればよかったのですが、兄が学生時代にお世話になった先生が浄土宗の寺で住職をしており、葬儀社の信頼も厚く今後はそちらでお世話になろうと考えております。 ご相談に伺ったところ、菩提寺との関係がきちんと解消されれば入檀は問題ないとのお話を頂きました。 問題は菩提寺です。離壇についてお話ししたところ『戒名を返すように』との趣旨の話をされました。 授かっている戒名を返すとはどのような意味なのでしょうか? 菩提寺の過去帳から名前を消すこと? 位牌の戒名も新しい宗派で新たに戒名を作って頂かなくてはいけないのでしょうか? 菩提寺としては離壇を避けたいとの考えから離壇引き留めの色々な話をしてきました。 色々とわからない内容だった為、一度話を持ち帰りました。 転派と戒名についてご教授よろしくお願いいたします。
仏壇の掃除をした際、母の位牌を破損してしまいました。少しの剥がれではあるもののとても気になります。 母が不快な思いはしてないか、大変申し訳ない気持ちですぐに修理、又は新しく用意したいと思っています。 位牌が破損した場合どのような対応が一番良いのかわかりません。 檀家はなくお墓の霊園所属のお坊さんに法事などはお願いしている状況です。 どこに相談して良いかわからずhasunohaの皆様に相談させてただきました。 まず、今現在破損している位牌で母は居心地がわるくないか 修理と新しく用意する選択があると思いますが、修理するならどのような段階を踏むのがベストなのか(魂抜きなどの必要だと感じています) やはり修理ではなく新しく位牌を用意して魂をそちらにうつすのが一番よいのか ご教授いただければと思います。 よろしくお願いいたします。
私は浄土宗であり 阿弥陀様を渇仰している者です。 御本尊様のお力添えを頂きたいのは 勿論のこと、真言宗の仏様と言われている 不道明王様のお力添えも頂きたく 思っているのです。浄土宗と真言宗。 宗派が違うのですが信仰しても 良いのでしょうか?また、仏教において 宗派は違えど仏様は全宗派に 通じておられると考えており 固定の宗派でありながらも 自身の成長に向けお力添え頂きたい 仏様に対し心から念仏や読経をする事が 正しい事であると考えているのですが 如何なものでしょうか。
今年で20才になります 僧侶(尼さん?)になりたいのですが 私自身資格も知識もなく 調べてもみましたが情報を得られず 質問させて頂きます 私の家は神とうです 身内にもお寺に関わる人物は いないと思います 仏教に通じていないと ダメなのでしょうか 宗派によって変わってきたりしますか もしなれるとしたら、どこに 何と言って相談したら良いのでしょうか ただの社会人が転職(?)できるものなのでしょうか 質問が多くなってしまい 申し訳ありません 世を儚んでいるとか ただ漠然と人の役に立ちたいと考えているわけではありません 僧侶になりたい と思ったのには理由がいくつかありますが、意志はしっかりとあります 修行が辛いものでも耐えられます 質問に関わらすアドバイスなども 頂けたらと思います どうかよろしくお願いします
我が家は真言宗智山派です。 私自身、毎朝においてご先祖供養として開経偈から普回向まで唱えています。 ①我が家の墓前において、お彼岸やお盆などにおりんを鳴らして般若心経のみを唱えることはご先祖様や隣接のお墓に対して問題ありませんでしょうか。 ②親類縁者などの墓前で、上記と同様のことをすることは問題ありませんでしょうか。 ③違う宗派の場合がありますが、その場合も般若心経を唱えて問題ありませんでしょうか。 同じ質問が過去にありましたら、同じ質問で申し訳ございません。 お忙しいところお手数をおかけしますが、何卒よろしくお願いいたします。
親友を若くして亡くしました。彼とは学生時代に書道部で一緒だったため、追善供養のため写経をしようと考えています。 そこで質問なのですが、写経した用紙を初盆の際に御仏前にお供えさせていただく、というようなことをしてもよろしいのでしょうか。 また、彼の家の宗派は天台宗なのですが、写経するお経の種類に決まり等はございますでしょうか。 ご回答いただけますと幸いです。何卒よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっています。 相談などをさせていただいているときに、懺悔をすれば地獄に行かない。 極楽浄土へ行けるなどといっていただけるのですが、本当にそうだと、誰も地獄に落ちないのではないでしょうか。やはり悪いことをしてしまった人はどれだけ懺悔をしても地獄に行くのではないかと思います。 宗派によっても差はあるかと思いますがお答えいただけますと幸いです。
宗派によっては、お盆の際には、迎え盆、送り盆でお墓に行きますが、仕事で迎えには行けたものの送りが難しい場合など、どうしようかと困る場合があります。先日は遅い時間になり、おまけにどしゃ降りでした。お盆だけお客様として迎え入れるのではなく、毎日がお盆のようにしてはいけないのでしょうか?
初めてご相談させていただきます。 最近、27年ほどお付き合いしていた方が病気で他界致しました。 亡くなる3週間前に電話て話をしたばかりだったのに・・・・。 未だに亡くなったことが信じられなく涙もでなくて、私自身が受け入れることができない状態です。長い間かけがえのない存在でした、色々な事情があり葬儀の参列は許されず、また籍は入れてはいませんでしたので当然戒名も教えてはいただけず、私は故人の供養をしたいとの想いが強く残ります。 故人は真言宗豊山派(だったと思います?)、私の方は浄土真宗本願寺派です(両親健在の為お仏壇はなく、両親とは別居してます)。 宗派が異なりますが、故人の供養を(俗名)でしていただける寺院はありますでしょうか。判っているのは、亡くなった日、享年、俗名、干支、生年月日です。できるものならば、家でお位牌の代わりにお仏壇はありませんが小さな観音様をとも考えてますが宗派が違うのでいけないことでしょうか。 宗派が違っても自宅供養というのがあるようですが、どの様なものを用意が必要でしょうか。 供養についてのアドバイスをいただけましたら大変心が楽になります。 僧侶様、どうぞよろしくお願い致します。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
現在、父方母方の2つの宗派の寺の檀家になっています どちらも年間1万円くらいなのですが、季節ごとにお参りに回ってこられたときに御札の購入とお布施が必要になります。収入が少ないため支払いがしんどいので居留守をつかってます。 また、それぞれのお墓は寺ではなく霊園にあるので墓の維持費にもそれぞれ2万円かかります。お墓は今後も必要なので維持していきたいです。 これらを踏まえてお聞きしたいです。 お寺に、お墓がないこと。 お寺にお世話になってることがほとんどないこと。 万が一、法事になっても最近は葬儀屋を通したらその宗派の寺の方を派遣してもらえるので檀家じゃないとお経を読んでくれないというデメリットはなさそう。 これらを考えたらお寺の檀家になりつづける必要は無いのではないでしょうか。 しかし周りの親戚は、檀家料を支払ってはくれないけど 先祖代々檀家なのだから子孫は守らないといけないと言われます。 檀家をやめると先祖が安らかにいられないのでしょうか。 本当にどうしたらいいものか迷っています。 どうかご意見をいただきたいです。 よろしくおねがいします
今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。
いつもありがとうございます。 私の実家の菩提寺は日蓮宗で、お仏壇には法華経を唱えております。 しかしながらこちらで質問させていただくにつれて、 般若心経のお話を聞いたり、禅のお話を聞いたりするようになりました。 このように宗派に関わらず仏教に触れても良いのでしょうか。
実家は真宗大谷派、私自身は現在実家から新幹線の距離の街に住んでおります。 父の死後、母と兄の私や家族に対する態度の豹変、虚言による中傷の為実家とは絶縁しています。 今年の夏、亡父の七回忌ですが、今住んでいる街で自分達だけの法要をしたいと思っております。ここ1年ほど近所の日蓮宗のお寺で写経会や行事に参加しており、事情を話しましたらご住職より快諾頂きました。 地方も宗派も違うので法要のお布施の額も全く分からず、街の仏具店で尋ねましたら、そもそも檀家でもないのに法要を行うのはその寺の檀家さんからすると義務を果たさず美味しいとこ取りともいえる、かなり図々しいことなのでお布施はこの程度はするべき、と実家の菩提寺の法要のお布施の2.5倍ほどの額を提示されました。そこまでは厳しいので多少躊躇しています。 お寺の写経会は本当にいいの?というくらいお金がかからないし、誘われるまま行事にも参加していましたが、やはり檀家さんからすると余所者がお寺を利用しているという認識もありかな、と思っております。 また、宗派も違うのに法要をお願いするのは常識外れなのではと今になって悶々としています。 住職さんは快く受けてくださいましたが、なら一層お布施くらいは高額納めるべきなのか? そして檀家でもない者が気軽にお寺を利用して良いものか。 助言くだされば有り難く存じます。