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検索結果: 3371件
2021/05/03

僕に浄土宗檀信徒たる資格があるでしょうか

浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?

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男子校生徒の性欲について

こんばんは。都内に住む、ごく平均的な男子高校生です。 自分は中学から男子校に通っていて今高1です。これが初投稿になるのですが今回ズバリ聞きたいのは性の話です。男子校ということもあってか自分ではそうは思わないのですがよく周りからお前は性欲が強すぎると言われます。思い返せば何度か思い当たる節があるのですが(男色ではありません)何をやっても平均的な自分だから性欲に関してもきっと平均的だと思っていただけに少し驚きました。 これを友達に言うと笑い話と捉えられまともに聞いてくれないのですが何故、東京都は条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)で性的感情を刺激することが青少年の健全な成長を阻害するもの(第三章の第七条等、複数)としているのでしょうか。(確認していませんが恐らくどの都道府県にも同じようなことが書かれているのだと思います。) 生まれた時からインターネット環境があるような時代に生まれた僕は探そうと思えばいくらでも探せました。当時はこれが無断でアップロードされた物でここに転載される事で困る人達がいる、ということすら考えられていませんでした。が、しかし流石にこの歳になるとそもそも何かの法律に引っかかってそうですが正規の手段で買わねば本当に買えるようになった時にはそもそも業界が潰れてしまうのではないか?と、法律の観点からも経済的な観点からも正規の方法で買うべきだと考えるようになります。そこでぶち当たるのが先程の壁です。(昔の自分はその壁を違法に超えていた訳ですが)ちゃんと条例を読むとまるで性欲を覚えることそのものが健全ではない。お前の周りの人間がお前の教育の仕方を間違えたのだと言われているようです。果たして高校1年生(自覚していなかったのだろうけど小学生から性欲はあったのだと思われます)が性欲を覚えることは不健全でしょうか。また男子校の高校1年生がその鬱陶しい性欲を発散する手段として自慰行為をする際にオカズ(要はAVだとかエロ本だとか本来は正規の手段で入手出来ない筈である物)は本来なら不必要でしょうか。本当ならこんな話都庁に直接言えば良いしお坊さんも条例等が絡んでくると少しやりづらいかもしれませんが回答して頂けると助かります。 長文失礼いたしました。

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日本仏教とは何なのか?

 初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。  私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。  現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。  この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。  まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。)  第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。  これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。  結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。

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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

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読経が何故供養になるのか教えてください。

お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 101
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