はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
中学校の教員をしていますが、毎日辛いです。 特に、指導している中学生からの心ない言葉や暴言が辛いです。「死ね」「うざい」などと言われるたびに、なぜ自分がこんなことを言われなければならないのかと思います。まだ未熟だから、それも仕事のうちだから、等と考えられず、こんな奴ら生まれてこなければよかったのに、などと憎しみの感情も生まれます。 現在、教員は5年目で、表面上は淡々と指導をし、何も感じないようにしていますが、ふと考えたときに、いつまでこれが続くのかと涙が溢れます。 今年度で教員をやめることも考えていますが、学期途中に無責任にやめたくはないため、3月までは続ける予定です。 どのような気持ちで生徒と向き合えばいいでしょうか。暴言を気にしない方法はあるでしょうか。
こんにちは。いつもお世話になっております。 ゆうりです。 教員採用試験の面接対策も始まり、日々あれこれと追われて、てんてこ舞いな毎日を送っております。 その面接対策で、「いじめ」について考える機会がありました。 私は、そういうのを引きつけやすい体質なのか分かりませんが、以前スケープゴートTの話を相談させて頂いた通り、それに関することについてよく遭遇してしまいます。 いじめの原因はそれぞれです。 ・むかついたから。ストレス発散のために、弱者をしばいた。 →喧嘩っ早いのは、困りものです。 ・自分を高めるより、人を蹴落とす方が楽だと気付いたとき、「お前勉強しても(努力)無駄だよ(笑)」 →成績の良くない私の、実体験です。進学校に多く見られる気がします。また、これを皮切りにスケープゴートが発生することも少なくないような気がします。学習障害がある生徒については、これに一番気を付けるべきでしょう。 いじめを無くすのは不可能。 これは、学校は社会の縮図であるからでしょうか? 誰が、作った言葉でありましょうか? 難しいこととは、確かに思いますが、それに白旗を揚げる大人(先生)が世の中に多過ぎるのではないかと思います。 先生としていじめの場に遭遇した時、その場に応じた(正攻法みたいな)対応は確かにございます。ですが、いじめは増える一方です。 いじめを無くす為の正攻法でいじめがなくならないのは、これには、なにかが足りないからだと思います。 いじめを無くすのは難しいのは言うまでもありません。それは、私たちが人間だからです。 いじめを撲滅する。 その為に心はどうあるべきか。単に教育上の単純作業の正攻法ではなく、人の上に立つ、人をつくる職に就く者としてその心はどうあるべきか?身の振り方はどうあるべきか? 質問させてください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。 学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来 引きこもりです。 どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし 体験も皆無です。 無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。 この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!! 餓死=自殺扱いですよね? このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって みようかなという気持ちになってきました。 死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。 ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。 生まれ変わることにも抵抗ありません。 今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。
はじめまして、すもももと申します。3年前に大学を卒業して以来、自分の進路が定まらず、最近はもう挑戦する気力もなくなってきました。 新卒で入社した会社には人間関係で悩み、より自分の個性を活かせる研究職を薦められ大学院に進学しました。 しかし、研究室の雰囲気に馴染めず、すぐに不登校になりました。辞めてはいないものの、アルバイトを転々とし、いまは大学院を辞めて就職か、留学か、結婚して身を固めるか、大学院に通い続けるかで悩んでいます。 結婚は付き合った彼とかんがえていますが、早くも結婚式の方向性の違いからすれ違いしてしまう予感がしています。 何にも向いてない可能性も高く、無駄に生きて精神力やお金を消費するよりも、好きな場所で好きにいなくなれたら楽だし、それが一番な気もします。 とりとめのない質問ですみません。わたしはどのように、この先の進路を決めていったらよいでしょうか。
いつもありがとうございます。最近良いことがありません。 兄の退院が決まったら入院費を払わなくなるので少し家庭が楽になるかなと思ったのですが、別の施設にいくらしく、入院しているときと変わらない料金が毎月かかり、2年はずっと払うらしいです。 苦しい生活がまだ続くのかと絶望しました。 二つ目は、イベントのチケット関係で友人を一人無くしました。完全にうちのことを嫌いになったなと思う文面がきて、ポッカリと穴が空いた気持ちになりました。不快な思いをさせたので必死に謝ったのですが、もう友達に戻ることはできないんでしょうか。 三つ目は、今転職活動をしているのですが連敗中です。厳密にはまだ一社だけ面接いっただけですが、今までの不採用を思い出しては落ち込んでます。面接受けたところ、今日も連絡がこなかったので落ちてるとおもいます。 「一週間以内に連絡します」は不採用フラグだし、何より面接終わって今日で3日目ですが合格だったらもうとっくに連絡きてますよね? 経歴もズタズタなので、もうどこも受からないとおもいます。真っ暗です。 趣味も捨ててから、生きる気力もないし働く気力もありません。 家にいても迷惑だし親からは金づる扱いだし、友達はいなくなったし、もう自殺しようかなとおもいます。 中学時代の時も自殺図ったのですが、自殺するとまた同じ人生を辿ると聞いてから生きようと思ったのですがもう限界です。これから良いことあるわけない、もういきたくありません。 来年の最後の楽しみであるイベントに行ったあと、家で自殺したいのですが、痛みなく楽に自殺できる方法はないでしょうか。苦しみながら自殺するしかないんでしょうか。 もう本当に、絶望で前が真っ暗です。 なんも見えません。 今日のバイトも行けるか不安です。 こんなクズ、早く死んだ方がいいですよね。 でも自殺、ちゃんとできるか不安です。 すみませんが、なにか回答、どうかお願いします。
先日、台湾の友人にこのような質問をされました。 「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」 わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 というような曖昧な返答になってしまいました。 もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。 ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。
先日は、悩みに答えて頂きありがとうございました。 今回 息子への接し方についてお答え頂けたら幸いです。 私には、9歳6歳の二人の息子がいます。 長男は、今は反抗期に入ったのか私の言う事は、全くきいてくれません。そればかりか、うるせー!だまれ!ママなんか消えろ!死ね!うざい!などと酷い言葉を吐きます。 私がガミガミ言い過ぎてしまう事もあるかもしれません。二人の息子は主人が仕事で居ない日は天国なのか 戦いゴッコを始め 夜でも ドタバタ騒ぐため、近所迷惑だからと 叱り 注意をしますが、馬耳東風 馬の耳に念仏 そんな、息子に手を挙げてしまう事もしばしば。 しかし、息子は、そんなの全く どこふく風 私の言葉など 少しも届きません。 主人の言う事は、ちゃんと聞きます。 なので、主人から注意をしてもらおうとしますが 子供の躾は母親の仕事だろ。 自分でなんとかしろ。 と言われてしまいます。 おまえの言葉には、刺があるから、余計反発するんだ。 だから、もっとしっかりやれ。と言われ 確かに、子供に 苛々させられ 子供を傷つけてしまう事を 言ってしまいった事もあり その度に 後悔 寝顔に謝る しかし、翌日はまた繰り返す。 そんな、自分は母親失格だ。こんな私に育てられて 息子は幸せなのか?私をふかく恨むのではないか? もっと愛してあげたい。愛している気持ちをわかって欲しい 気持ちと、息子に苛々する気持ちが錯誤してしまい 結果 怒りが勝ってしまい 息子を怒鳴ってしまう。こんな大声出したくない こんなキツい言葉言いたくない 反発し、生意気な口を聞 少も言う事を聞かない息子に 結局 怒り 手が出てしまう。 怒るではなく叱る。私のしている事は怒り。 ただ苛々したストレスを息子に発散しているだけなのは わかっています。 息子に今後 どう接すべきなのでしょうか? 悪ふざけをすり息子 汚い言葉 特に死ね!と言う息子をどうに、諭したらいいのでしょうか?叱り方は? 長文ですみません。良いアドバイスお願いします。
(編集部より。こちらの質問は利用規約の禁止事項に抵触する部分があるため一部編集しています) 前回と前々回に厳しい意見を沢山もらいました。 あれから妻は精神的な病を患い現在入院中です。 子どもは私の実家に預けてあるので安心ですが退院したら本当に離婚するつもりです。 妻には女としての生き方を説いているのですが全く分かってもらえませんから。 ここ最近女性宮家の創設の話が世間を賑わせています。 私は個人的には断固反対です。 男性遺伝子はXY、女性遺伝子はXX、遺伝子の構造的に男性系統の承継でないと血統が途絶えるからです。 女系天皇が誕生すれば2000年以上続いた天皇家を絶やすことになります。 女性宮家に男性が婿入りして、その子が天皇になるなんてあってはなりません。 あったとしても男のお膳立てがあって成り立ってることが殆どでしょう。 お坊様方はまだ私の意見をコテンパンに叩くのですか!?
結婚生活について悩んでいます。 お付き合いをして3年、結婚して4年半になります。 当初は誰もが、仲がいいねいつも一緒だねと言 う関係でした。 よく話しもして、休みの日は2人で出掛けてました。 最近は一緒にいる時間もなく、日常会話はしますが、立ち入った話をすると黙ってしまう。 さみしいのと、愛されていないのではないかという孤独感で、幸せとは思えない。 それでも夫婦でいられるならと、私なりにがんばったつもりですが状況は変わらず。 子どもがほしいのですが、聞いても黙ってしまうのでもう諦めるしかないのかなと思うけれどあきらめきれない。 年齢的に妊娠は難しくなってきています。 子どももいない、コミュニケーションもスキンシップもない、とても家族といえる関係ではないように思います。 私のエゴかもしれませんが、連絡をとりあったり思いや考えを話し合える関係になりたい。 どうしたらうまく話ができるでしょうか? それとも夫婦に会話は不要なのでしょうか。 長文乱文で、申し訳ないですが、なにかアドバイスいただけたらと思います
はじめまして。 神奈川県在住の23歳です。 2ヶ月前に入籍し、只今妊娠中7ヶ月です。 私は結婚するまで母と2人で暮らしてきました。 父親の事はあまり知りません。 そのためか、早くから家庭を持って母を安心させたいと思ってました。 しかし、いざ子供ができると男性はこんなにも頼りないのかと思うようになりました。 女性は身籠った時点で母親になれますが、男性は簡単に父親になれないので頼りないと思う事が増えました。 例えば、生活費と病院の検診費用など最近やっと頂けるようになりました。 それも私の貯金がなくなり、もういい加減にしてくれと私が不満を爆発させてやっとです。 病院の検診費用も「先月は払ったよ」と言われた事もあり、なんでこんな男性と結婚してしまったのだろうとも思いましたし、簡単に子供作ってしまったのだとも思いました。 子供に一切の罪もないのに。 不満を爆発させて「実家に帰る」というと焦ってごめんと平謝りしますが、反省や謝罪もその場だけなのです。 しかし、子供がお腹の中にいる今は別れるなんてできません。 こんな私は身勝手なのでしょうか? 謝罪され許してを繰り返して、成長がない人はダメなのでしょうか? 私が妥協して許していくしかないのでしょうか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?