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検索結果: 138件

もう少しお坊さんとの会話が欲しい

今まで全く宗教とは無縁だった訳ではなくごく普通のかと思いますがいつも法事などでお寺に行ってもお坊さんの説法を短時間聞くのみでいろんな宗教的な悩みなど聞いてもらえる場所がなかったです。 普段は特別故意にしているお寺がある訳でもなくただお参りして帰ってくるのみで、何かの節目があれば特別にお祓いなどしてもらうだけです。 もっと気軽にお坊さんと宗教の話ができる機会ができる場所はないのでしょうか? ただ新興宗教のような信仰の亡者にはなりたくなく、普段仏壇にお参りするだけではなくもっと生活の中に溶け込んだ宗教が欲しいです。 それともっといろんな宗派がありますがその教えを一方的に説法などで聞くだけではなく質問や詳しい話を聞きたい場所を提供して欲しいといつも思っていますがなかなかそのような機会や場所はないです。 実際の所、先祖や親がやっていたので自分も同じ宗派と言われてもどうして良いか全くわからずじまいです。 例えばお経一つとっても何を言っているのかさっぱりわかりません、他宗派のは意味はわからなくても言葉はわかるのもあります。 あなたの修行が足りないと言われても修行の仕方すら誰も教えてもらえないです。 般若心経は解説等たくさんありますがそのほか話目にすることはありません。 もう少し誰にでも平易にわかりやすく教えてもらいたいといつも思っていますが。 日本の仏教界はこんなものなのでしょうか? お坊さん忙しいのでそんな暇はないのでしょうか?

有り難し有り難し 51
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

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物事をやりたくない時に動くと腹が立ちます

私は何事においてもそうなのですが、やりたくなくて仕方がないという心がいつも湧きます。(やれる時もありますが) 例えば洗い物や、料理、こなさなければ行けない用事など。今は専業主婦ですが働いていた時はもっとそれがありました。 もちろん誰でもその気持ちは湧くと思うのですが、自分はとにかく不機嫌になり少しでも邪魔されよう物なら物凄い剣幕で怒っています。時間指定されると尚更です。 働いていた時は理性が働き我慢をしていましたが、それにより鬱病になり前頭葉が縮んでしまっていました。 それに困り果てたのでお坊さんの本を読み座禅や深呼吸をしたり、家事を作務だと考えるようになりました。 しかしそれでもやりたくなくて仕方がない時は「そもそもなぜいちいち座禅をしたり作務だと考えたり深呼吸をしないといけないのか」とそれらをやることすら怒りになってしまうこともあります。 やらないでも生きてのけている人がいるのでなぜ自分はここまでしないと行けないのかという思いが湧きます。 自分自身でも自分に疲れてしまいましたし、怒られる配偶者が可哀想です。 どのように考えることでこの悩みから脱することができるのでしょうか。

有り難し有り難し 6
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