お世話になります。 夫が亡くなり、まだまだ整理がつかない状況の中、子供がパパの夢見た!と言いました。 内容は、買い物に行ったり、ペットショップに行ったり、洋服屋に行ったりと、パパと色んな場所に行ってる途中で、尋ねたらしいです。 "そういえば、パパ、どうして死んじゃったの??"…と。 すると夫は、 "何言ってるの?パパはここにおるやろ" …と答えたらしいです。 それは、いつものパパだったらしく笑顔だったらしいです。 これって、夢で何かを伝えにきたんでしょうか? なかなか、この子は、あれこれ話さないし、なかなか、パパの夢を見なかったらしいです。 もう1人の子は、たまに、フッとパパの匂いがするーと話してくれます。 魂は、あちこちに移動できたりするものでしょうか? 夢で何かを伝えにきたりとできるものですか⁇
お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。 だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか? そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは? 又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 先日、祖母のお葬式がありまして、お坊さんが何のお経を読むのか興味深く聴いておりました。 私はお寺に参拝すると過去に四国遍路をした慣習で読経します。 (開経偈、懺悔文、三帰、般若心経、観音経、ご真言など) しかしお葬式のお坊さんの読経の半分くらいは聞いたことが無くあまり分かりませんでした。 お坊さんが唱えていたお経の名称が知りたいです。またお葬式用の経典を一般の人が手に入れる事は出来ますか? ちなみに今回のお葬式は曹洞宗でしたが、親戚には臨済宗と真言宗の方もいるので、どれか一つに関する事で構いませんのでご回答頂けると有り難いです。 よろしくお願い致します。
あるお葬式でのお経(あるいはお経の前後に読まれるもの)について、気になることがあったので教えて下さい。 正確には覚えていないのですが、お経(あるいはお経の前後に読まれるもの)の中で、鴨長明の方丈記の一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。〜〜」に似た言葉があったように思います。 とても印象的だったのですが、あれは本当に方丈記の一節だったのでしょうか? だとしたら、どうしてその言葉が取り入れられるようになったのでしょうか? とっても気になって気になって仕方がないので、是非教えていただきたいです!! よろしくお願いいたします!!
先日祖父の三十三回忌の法要に行きました。 私が生まれる前に亡くなっており、一度も会ったことがなく父の話の中でしか知らない祖父のはずなのですが、何故かお坊さんのお経を聞いている時自然と涙が止まりませんでした。 父が幼くして祖父と死に別れた苦しみや、祖父の死後1人で子供を育てた祖母、そして今それらを乗り越えて私を育ててくれている感謝や、祖父がどれほどこの病気で苦しんだのだろうかという思いなど様々な気持ちが込み上げてきて焼香するまで涙が止まりませんでした。 父には「会ったことないのにね」と言われ、自分でも本当にその通りだと思いました。 私はあの時何故涙が出たのでしょうか。 自分でも分からず悩み抜いたのですが、お坊さんにお聞きするのが1番かと思い質問させて頂きました。 乱筆失礼致しました。
大事な彼が亡くなり今日で19日が経ちました。 毎日が後悔でやり切れません。 彼は肝硬変がかなり進んだ状態だと医者には言われ、復水を抜く治療が見つかると思い4ヶ月を過ごしてきました。 2度の検査入院をし、担当医のはっきりしない態度に不安を持ちながら過ごしていました。 時々逢う私には治る病気ではない。どうせ永く生きられない。もうすぐ死ぬ人間にそんな事しなくて良いなんて事も言いだしました。 私は彼の病気に無知でした。もっと力になりたかったと悔まれます。 彼と私は26年間一緒でした。ただ彼は私と知り合う数年前に昔の彼女と結婚していました。彼女には自分の子供だと言われていたようですがそうは思っていませんでした。 彼女には精神疾患があり時々理解しがたい行動をとっていましたが病気の人間を放り出すような事は出来ない。私には悪い。と言っていました。 病気になった時、そんな彼に家族は冷たい態度でした。 最後になってしまった日、私に話した事が忘れません。 俺の集大成がこんなものか。人の家族を背負いこんで。食べたい物も惜しまれる。顔も見たくない。声も聞きたくない。 実のお兄さんにも奥さんにもお金の事では利用された事を悔しがっていました。 その時私はどうする事も出来ず、ただ話しを聞いていただけでした。 三日後、最後の電話になってしまった時、私に逢った時のお礼を言って、もうえらいから横になる。と言った言葉が最後になってしましました。 彼はいつも別れ際、私にありがとうと言ってくれました。 最後にこんな思いをして逝ってしまった彼は今はどう思っているのでしょうか心配です。 人が亡くなると四十九日間はまだこの世をさまよっていると聞きました。 彼の遺骨は私の手元のにはありません。 憎しみしかないと言っていた家族の元にしかありません。そんな状態でも彼は成仏できるのでしょうか。 亡くなった人の節目になる五七日と四十九日にお寺でお経をあげたいと思っています。 家族でない私がする事は亡くなった本人の為に良くないのでしょか。 また、私たちのような繋がりでもまた彼に逢う事は出来るのでしょうか。私のすべてだった彼にまた逢いたいです。彼を感じる事はどうしたらできるのでしょうか。 取りとめもなく長々と申し訳ありません。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
日々、お仏壇を拝むときに義父と息子の法名と、ご先祖様の追善増進菩提を拝んでいます。 拝みながら、ふと思ったのですが自死で先に逝ってしまった息子も、先に亡くなった事で、ご先祖様になるのでしょうか? また、ご先祖様と言っても、昔の写真を見た記憶の大祖父は想像できるのですが、それ以上は想像計り知れずわかりません。 こんな気持ちで拝んでいてもいいでしょうか? あと、不束な事をお聞きしますが毎日お経を読んでいても 仕事で拝めない時などは南無阿弥陀仏を唱えるだけでいいでしょうか?
日々忙しく過ごしており、そんな中でも、静かに、心穏やかに、過ごす時間を作りたいと思っております。 実家は無宗教で、もちろん仏壇などありません。 今は独身で、独り暮らしではありますが、小さな小さな仏壇でよいので準備をして、お経を唱える環境を整えて、静かな時間をつくりたいと考えております。 身内に亡くなった人もおらず、先祖からの決まった宗派はわかりません。 私自身は真言宗への傾倒があり、自分なりに学びを深めてきました。 このような状況で、お経を唱えるというのは、不謹慎なことなのでしょうか。 アドバイスいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
親戚が相次いで亡くなり、浄土宗・浄土真宗のお坊さんが葬式でお経を上げてくれました。 その時に、ある部分で何故か「アメリカ アメリカ」と聞こえてしまう箇所があり…。初めて耳に入った時は、絶対に笑ってはいけない場面であるにもかかわらず思わず噴き出しそうになりました。確か、両方共初七日法要のお経の部分だったと思います。 他の親戚も複数の人が同じことを言っているので、果たして本当は何と言っているのかが、どうしても気になってしょうがありません。 変な質問で申し訳ありませんが、分かる方がいらっしゃったら教えてくれませんでしょうか。
最近、疑問に思っていることがあり各ご僧侶様のご意見を頂きたく質問させて頂きました。 まだ小学校低学年の頃から、30年以上前に亡くなった曾祖父に会いたがったり、誰に教わるでもなく仏像をねんどで作ったり絵に描き起こしたり何かと仏教とご縁のある身なのだなとありがたく思っております。 大学でも仏教学部に在籍していたこともあり学問的な仏教にも大変興味があります。 この1か月間で無量寿経、薬師経、阿弥陀経、般若心経等、10以上の真言、経典を読んでいました。 釈尊の言葉をまとめたものがお経なのであれば、なぜ葬式や法事であげるか少し理解できずにおります。教えを書き起こしたもの(学校でたとえるならば教科書でしょうか)を故人にあげる意味とはどういうことなのでしょうか? ある本には六道の中で人間界でしか仏教を聞く事ができないと書いてありました。 人の思う天国も六道では天界というところだそうですが、苦しみもあるとのことでした。 葬式や法事等であげるお経は人間界でしか学べぬ仏教を、故人にもその教えをお経として聞かせ参列している人もまた教えを一緒に聞く、という意味合いなのかなと解釈しております。。 菩薩や天部のエピソードは多少脚色されたものもあるのかもしれないなと物語として楽しく学んでおります。 また各浄土にいらっしゃる仏様それぞれが得意とする分野をお持ちですが(薬師如来なら無病息災や病気治癒など)、病気になった時はお薬師様、強い心を持ちたい時はお不動様などそれぞれの仏様に拝んでもよいのでしょうか? 全ての仏様のお師匠様が阿弥陀様ということを本で見かけましたので基本的に元をたどれば一つであると考えればどの仏様にお祈りをしてもよいのかなと、、 仏様のご利益は願って叶うものではなく、願ったのち自身が前を向き努力した時にそっと後押しをしてくれる存在と最近は思います。 ご僧侶様のご回答ご意見を、宗派関係なくお聞かせください。 ※曾祖父時代は浄土真宗、現在は真言宗ですが私自身はどの宗派も元をたどればおおかた同じと思っておりますので気に入った仏様や宗派を勉強しているようなかたちです。
事情があり地元のお坊さんにお願い出来ません、葬儀は他県で行う予定です、 枕念仏を自分でしたいのですがよろしいでしょうか? 般若心経しか出来ません 修行してないとダメでしょうか?
生後2週間で長男を亡くしました。 旦那の実家は宗教にこだわりがなく、お仏壇もありません。 私の実家にはお仏壇があり、月参りで浄土真宗の御僧侶さんがおいでになっているのでそちらで初七日までお参りしていただきました。 そこでご質問です。 私たちはまた子供を授かりたいと思い、子授け地蔵様のおいでるお寺にお参りに行きました。 そちらのお寺では水子供養や先祖供養も行なっていたため、息子にもお経をあげてもらいました。 その際、浄土真宗のため戒名ではなく、法名を記入しました。 何も知らずに違う宗派のお寺でお経をあげてもらったことになります。 これは良くないことでしょうか? もし子供を授かった場合、そのお寺へのお礼参りも考えております。 その際、亡くなった我が子への供養と報告のためそのお寺でお経をあげて頂くのは良くない事でしょうか?
家族が亡くなりました。 直葬を行い お坊さんにお経を上げてもらうこともせず、 寝ずの番もしませんでした。 良いのでしょうか。 ちゃんと供養をするにはどうするべきだったのでしょうか。
お忙しい中、私達の悩みに真剣に答えてくださり、ありがとうございます。 今回は私の仲良しの友達の事でききたいことがあります。 友達のお父さんが去年亡くなって、葬儀の際、里のお寺は離れてるため近くのお寺の和尚様で宗派は違うけれど、お経をあげてくださる方に頼んだそうです。 今年の初盆は、和尚様を呼ぶこともなく お経もあげなかった。そうです。 友達は 気にしてましたが、お母さんが全くの無信心だそうです。 亡くなった方にお経をあげる事はどのような意味があるのでしょうか? また、全くの無信心でも何の障りもなく、幸せに暮らし、とても前向きなお母さんです。 私の育てられた環境からだと、仏様を大事にしないと何か悪い事がある!みたいな感じなので… 僧侶の方の考えを伺いたく質問させて頂きました。
お経は漢字ばかりで見ても聞いても難しくて何のことかわかりません。 たぶんすごくいいことが詰まっているのでずっと読まれていると思うので、何を言ってるのか現代の言葉でわかりやすく口語訳して欲しいです。長ければ一部でもいいです。
初めて質問いたします。何かアドバイスいただけたらありがたいです。 <背景> ・宗派:学会系(ただし熱心ではなく、父方祖母の代に親戚付き合いから宗旨変えしたと聞いています。どちらかというと宗教に関心の薄い家です)。 ・父方親戚は学会系の方が多く、これまでお葬式をあげる際は「友人葬」として親戚の方に題目?を読もらっていました。 ・父が一人っ子で祖父母も亡くなって時間がたっているため、父方親戚とは疎遠気味です。 ・祖父母のお墓は地域の共同墓地(宗派がないところ)です。 <相談内容> 先日弟が事故で無くなりました。少し普通ではない亡くなり方(犯罪等ではありません)だったため、疎遠気味だった父方親戚には知らせず、ごく身内だけで葬儀を行いました。 数か月たちそろそろ納骨を考えているのですが、納骨時にお経をあげていただく伝手がありません。父方親戚にお願いすればあげてもらえそうですが、事情により伝える予定はありません。 できたら宗派の近い日蓮宗系の方に、納骨の時だけ立ち会っていただきたいのですが、何か方法はないでしょうか? お墓近くの日蓮宗系寺院に相談したところ、檀家になることをすすめられました。ごくまっとうな意見だと思うのですが、すぐには踏ん切りがつけられず家族で悩んでいます。
昨年11月に夫が他界しました。原因不明の病で3週間の入院生活、回復の兆しが見えてきたと思った矢先に突然亡くなりました。 火葬の後、お坊さんがお経を唱えている際に目を開けてみると、お骨の横にとても明るく光る金色ともオレンジ色とも見えるグリッターのような光りがキラキラと見えました。 あまりにもはっきり見えたので、周りの人たちにも見えているのかと思いキョロキョロと見回したのですが、私にしか見えていないようでした。 とてもキレイな、グリッターのような、温かみのある光が、骨壷の周りで光っていました。 お経が終わったのと同時に光はさっとなくなりました。 今日は49日でした。お別れはとても寂しいですが、あの光に今でも見守られているのような気がし、心が落ち着く感覚になります。あの光は何だったのでしょうか?
こんにちは。 以前こちらでお世話になった者です。その節は相談にのっていただき、ありがとうございました。 先日母の四十九日法要を終えたのですが、そこで二つの疑問が浮かびました。 ①成仏とは何か ②お経の内容(現代語訳)は何か 法要で「お経は生きている人に向けてのもの」と伺い、以上のような疑問が湧いた次第です。 お経は亡くなった人が成仏できるように唱えるものだと思っていたので、大変驚きました。 疑問を調べてみたところ、「仏教は今を生きるための知恵」とありました。 亡くなった人は、遺族が"今"を生きることで成仏するのでしょうか。 また、「生きるための知恵=お経」なのでしょうか。母を亡くした寂しさと悲しみを乗り越え、前向きに生きていくために"生きるための知恵"を具体的に知りたいです。 無学で恥ずかしい限りなのですが、二つの疑問について教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 ※ちなみに宗派は日蓮宗です。葬儀や法要では南無妙法蓮華経を唱えました。
宗派によって死後の世界に対する、考えはどうちがいますか? お坊さんは、死後の世界や霊を信じていない方が多いですか? お坊さんにお経を上げて頂く遺族は、亡くなった家族の霊の成仏を願ってお坊さんを御呼びします。家族の為にお経を上げて下さっていると信じています。そこで、霊を信じていないお坊さんは、しきたりの為にお経を上げて下さるのですか?それとも、遺族の為に、お経を上げて下さるのですか?良くわからないのです。 御釈迦様は、生きている人の為に、お経をつくられたと思いますが、今はお坊さんは誰のためにお経を上げているんですか? 何故、お坊さんは、お経を上げるのですか? 切実な疑問です。お答え頂ければ幸いです。