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検索結果: 438件

仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 111
回答数回答 7

仏教徒に対する疑問パート6

では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて  涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか

有り難し有り難し 160
回答数回答 7

仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

有り難し有り難し 81
回答数回答 5

感情移入し過ぎずに働くには

質問させて頂きます。 私は集中治療室で看護師(2年目)をしている者です。  先日私が連日担当していた患者さんが脳死になり、亡くなりました。 今まで亡くなる方は沢山見てきましたがそこまで感情移入せずに振り舞うことができていました。 しかし今回は、連日ご家族とも親しくさせてもらっていた事や急な病状の悪化もあり、寄り添う事が大事とは知りつつも辛く苦しく自分への無力感も強かったです。 何か出来たのではないかと後悔する事の連続でした。  また今回の事を経験した直後、自身に病気が見つかりました。手術により一命はとりとめ今は入院し傷が治るのを待ちながら、今後薬物療法を続けていく予定です。 今回自分が絶望的な痛みを経験した事で他人の気持ちを安易に分かると話すのは人を傷つけるのではないかと怖くなりました。寄り添うと言葉では簡単に言えても極めて難しい答えが無いものだと思いました。  また、自分がなかなか手を抜けない性格であり忙しくなると自分を蔑ろにしてしまうため、自身の働き方を模索している最中です。 今の職場はスタッフも優しく働きやすいと思います。 少しでも感情移入しすぎず、悩みすぎず働くにはどのような心構えを持てば良いのでしょうか。  最終的には自分が判断しなければという心づもりではいます。稚拙な文章ですが、ご意見いただければ幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

自分の人格に自信が持てない。

こんにちは。僕は自分の人格にどうしても自信が持てません。物心ついた頃から人間不信です。基本的に人には期待していません。自分でなんでもやっちゃいます。それで嫉妬されます。それが怖くて人を避けます。また孤独になります。6年前に付き合っていた元カノになんでそんなにネガティブなのと言われましたが、結局自分自身の心に自信が持てないので、ポジティブがわかりません。そして親も恐らく同じくネガティブな人たちでした。自分がどう思われるかを深読みしすぎます。それが態度に出ます。それがまた他人の不信を生み、また自分が苦しみます。人と仲良くなっても疑います。この人はなんの為に僕と関わっているんだろうって思ってしまいます。恋人が欲しいのに疑ってしまう為に良い感じになっても避けてしまいます。それが他人の気持ちを踏みにじる事になり、また孤独になります。こんな事を考えれば考えるほど僕は幸せになってはいけないような気分になります。でも幸せになりたいです。心から人を愛したいです。僕はどうすれば幸せになれるのでしょうか。他人の気持ちがわかりません。自分の気持ちもわかりません。僕には心がないのかと思います。率直な意見をください。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 19
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仏教を極めると廃人?

不幸なので仏教を極めるようになりました。 しかし思ったのが極めると廃人に近くなっています。また不幸になりますし、幸福にもなりません。結局悟りなんてないんじゃないかなと思います。 心の捉え方?が幸せを作るのなら全身火傷で油を24時間塗られるような人も捉え方で幸福になるのかな?と思います。結局嫌な事が続けば油を皮膚に塗られるようなものだなと思います。 ・執着をなくしていきました、すると殆ど希望がなくなりました。 どうでも良くなるので、他人に対して無意識なく悪意を放ってもどうでも良くなりました。 社会としてやらなくていけない事の執着も放棄しましたし、他人への諦めも増えました、適当に執着せずに諦めることにしました。 ・異性とも縁を切り執着を捨てました、次は子孫繁栄の執着を無くそうとパイプカットも考えています。 ・色んな人から罵声を浴びせられても執着を失くし、善の心で接しました。 親切が殆ど仇になっても執着を失くし優しくしました。 ・それらを毎日耐えながら、理不尽なことを受け入れたり、嫌なことを受け入れて人から馬鹿にされて夢も叶わず、嫌な仕事で死ぬほど苦しみ家族から除け者にされ辛い病気で苦しんでも、、、お坊さんの皆さんは毎日食事ができて、寝れる環境があれば幸せと言います。本当にそうでしょうか。普通に動物でも縄文人でもシリアの人でも毎日食べられるし寝れる環境はあります。 本当に苦しみが毎日あってて苦しんでそれに耐えるために何十時間も一日苦痛を浴びるのに食べる事が幸せ???本当に? お坊さんとか高い車乗ってる人とかいるけど本当に執着捨ててるの?本当に? 執着を捨てるというのは→ ・夢も捨て毎日の意味がなくなる(明日生きる意味や希望すら消失) ・他人から虐げられるの肯定(本当に毎日虐げられて満足するの?執着せず毎日虐げられて満足できるの?) 無駄な努力に向かう人生への肯定(人生かなり苦痛な労働とか嫌な理不尽な事とかも執着を捨てて毎日何十時間も苦しみに耐えながら何を拠り所に生きればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 6
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
回答数回答 12

執着がないのはまずいのか?

物心ついた時から執着がありません。 田舎暮らしで店もなく物があまりない環境で育っていて、物やお金に溢れた暮らしを経験したことがないからかもしれません。 別に愛情に飢えたことも溺愛されたこともないし、無理やり恋人が欲しいともあまり思ったこともないのですが何となく彼女はいることが多いです。 恋愛は相手がいる話なので多少は思い悩みますが。 それとお金や性欲の強さゆえに色々問題を起こして堕落してしまった人が周りに数人いるので、ああはなりたくないな、と思って我欲を出すのは良くないな、とも何となく感じているからでしょうか? お金にも執着がないし、権力なんか持ってもめんどくさいとか思えてしまいます。特にスマホを手に入れてから、物を持つのがますますめんどくさくなっています。 あまりにも執着が無さすぎて、相手を束縛しなさ過ぎて元カノは他人に寝取られたのですが、彼女を責める気持ちにもなれません。彼女に執着しなかったから新しい今の彼女にも出会えたし。 同世代の人間とは経済的な話とかが合わず、話が合うのは物欲が薄いさとり世代の若者ばかりです。 釈迦が全てを捨てて悟りの道へ進んだのは物心両方とも満たされてその状況に満足しなかったからだと聞いております。 出家前の釈迦ほど恵まれた境遇ではないのですが、足るを知っているから今の境遇に不満はありません。 もちろん今から向上心を持ってお金や権力を取りに行けば自分のキャパシティを広げでいくという生き方もあるのかもしれませんが、何かそれは虚しいなぁ...とも思えます。 やはりこの考えは変なのでしょうか?

有り難し有り難し 14
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人は何故怒るのですか

先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。

有り難し有り難し 44
回答数回答 3
2022/10/26

人を優先して自分が苦しいです

「自利利他」のお話を講演会で伺い、かなり衝撃を受けました。 これまで「他」を優先してきました。 人のために尽くすのが正しいと思って生きてきました。 人に優しくありたい、誠実でありたいと常々思っておりますが、そうしようとすると「他」を優先することになってしまいます。 どのような心持ちで日々を過ごせば、自分を大切に「自利」を優先できるのでしょうか。 自分を犠牲にして「他」を優先しているのに、うやむやにされたり返事を返さなかったり人の時間を奪うような行動をされ、謝りもせず無下にされて自分だけが損をしているような気持ちでいます。 見返りを求めているようで、それも嫌です。 日々、「他」のためにやらなければならないことに押し潰されて現在がいっぱいいっぱいであり、自分の未来を見ている余裕がありません。 そんなことをしている間に「他」が幸せになっていくのを見てきました。 人に優しくありたいと思っている人が優しくされることはなく、ただ傷ついていくのはとても辛いです。 この先も、このまま苦しいのかと思うと何のために生きているのか分かりません。 ずっと辛いままであることから逃れるには、自身の生き方考え方を変えなければならないのでしょうか。

有り難し有り難し 19
回答数回答 2

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