初めて投稿させていただきます。 去る8月22日におじいちゃんが亡くなりました。 親しい人の死は初めてですごく辛いです。 家でもいつも母は泣いていたので、泣くのはやめなよと全てをわかっているかのように言っていたのですが、いざ式を迎えると自分もすごく泣いてしまいました。おじいちゃんを失った悲しみとこれから母やおばあちゃんのことを思うと、胸が張り裂けそうになります。 おじいちゃんの家に戻っても、もういないことに違和感をとても感じます。 話せるときに自分に起こった出来事や何ともない会話をもっとしておけば良かったと激しく後悔しています。 実直で子供思い、孫思いの本当に素晴らしいおじいちゃんでした。 常に家族みんなが喜ぶように、色んなことをしてくれました。 だからこそ、これからを明るく楽しく過ごして、母やおばあちゃんを励まさないといけないとは思っているのですが、言葉では言えても、実を言うとなかなか自分自身の気持ちが前を向きません。なかなか食事が喉を通りません。大きな穴が心に空いてしまいました。またおばあちゃんや母もいつかは亡くなると思います。家族一人また一人といなくなるその時が怖いです。こんなに辛いことはありません。 僕はこれからどんな行動を取れば、おばあちゃん、母を支えていけるのでしょか? また棺に子供や孫で書いた手紙を入れたのですが、おじいちゃんは読んでくれているのでしょうか? もちろん、読んでくれると思って書いたのですが、気持ちが届くのか心配です。 おじいちゃんは骨になっても僕たちの回りにいるのでしょうか?常に見守ってもらえてるのでしょうか? 本当にこの家族が大好きです。この家の孫に生まれて幸せです。自慢のおじいちゃんです。 最後におじいちゃんはどうしたら、笑顔でずっといてくれるのでしょうか? たくさんの質問を申し訳ございません。どなたかお答えをいただけると幸いです。
はじめまして。 39歳の男です。夫婦二人で子供はおりません。 2ヶ月程前から、自分にも必ずやってくる死についての恐怖からパニックになったりし、いつでもそれが頭から離れなくなってしまい、精神をおかしくしてしまいました。私は小さな頃から死ぬ事に関して人一倍恐怖として感じていたのですが、これまではただ考えないようにできていただけだったと思います。半年程前から母親の認知症介護や、子供が流産したりで授からないなど、いろいろな出来事から、人の生き死にを真剣に考えるようになり、考えないようにしてきた、いずれくるであろう避けられない自分の死の恐怖が夢の中でも襲ってくるようになってしまい、今は精神科に通い薬を処方して頂いておりますが、良くなる気配はありません。今は前のように笑う事もできなくなってしまい、仕事にも支障をきたす状況になってしまい、これからさきの不安などで自分自身どうして良いのかもわからない状態になってしまいました。 いろいろな死生観の本を読んだりしましたが、頭では今をしっかり生きるという必要性を理解できても、心の中の死の恐怖が勝ってしまっている状況です。仏教を勉強してみようかと思っていますが、何か少しでもアドバイスを頂けたら幸いです。
希死念慮との付き合い方について、お坊さんの視点からアドバイスをいただきたいです。 皆様のおかげもあり、生き方に対する姿勢は以前と比べ変わってきたように思います。 仕事でミスをしても、そういう人間なんだから仕方ない。 やりたいことができなくても、今はできる環境ではないのだから仕方がない。 自分ではどうしようもないこと、現在の自分の能力では解決しようのない問題に対して、あれこれ悩むのはやめました。 様々な点で悟りを得られたように感じます。 ただ時折、どうしようもなく消えてしまいたい気持ちに駆られます。それは、周りに迷惑をかけているなと感じた時や、仕事で何も成果をあげられていないと感じた時などです。 読んでいて矛盾を感じられたと思いますが、落ち着いている時には悟りを得られているものの、少しでも身体的に疲れている時や、周りに人が多く気を張っている時など、自分にフォーカスできていない時などに、なんらかのきっかけで悟りが崩れてしまいます。そうして、一度死にたいモードに入っていくと、しばらく悟りのモードに戻れなくなります。どうしようもない、と自分で自分を言い聞かせていた分、反動でかなり深いところまで落ちていきます。 この死にたいモードの時に、ふとした瞬間で死んでしまわないか、自分を信用できず怖いです。 またこのモードに入っている時は、とても苦しく、辛いです。周りに人がいても涙が出てきてしまい、隠し切れないこともあります。 どのようにしたら、この瞬間的な死にたいモードから脱出できるのでしょうか。 瞬間的とは言いつつ、数日続くこともあります。数年間うつ病と闘っていたこともあるので、また再発するのではと怯えています。生きていればいい、と言いますが、その生きていることが辛く苦しいのです。毎日、仕方がない、と言い聞かせて息しているわけです。希死念慮を抱く前の、定常状態の生き方についても問題があるのかもしれません。
祖父が亡くなって約1年経ちました。 世界一大好きな祖父です。慈悲の心を持った、まさに仏様のような祖父でした。無償の愛でいつもわたしを可愛がってくれました。 なるべく側にいたのですが、たった1時間ほど席を外した時にちょうど息を引き取りました。代わりにわたしの兄弟、父が看取りました。 看取れなかった、自分のタイミングの悪さに大変後悔しました。でも、心のどこかで看取るのが怖いという思いも少しありました。 大切な人が亡くなるという体験は初めてでした。 夢に出てくるかな?なにかわたしに言いたいことあるかな?といつも考えてますが、不思議な体験もなにもありません。 母方の祖父なので、お仏壇は母の兄に引き継がれました。 色々な事情があってお仏壇には行けないのですが、心の中の思いや拝みは届いているのでしょうか。(遠くに住んでいるのでお墓参りも年に1度くらいしかいけないです…) 祖父は浄土真宗、わたしは浄土宗です。 私が結婚したらまた宗派も変わってしまうかもしれません。それでもいつか自分が死んだ時に会いたいです。宗派が違っても、いつか会えるのでしょうか。毎日思い出します。あっちの世界でも、どうかしあわせでいてほしいです。 祖父の死から色々なことを学びました。いつも見守ってくれていると信じて生きたいです。
懇意にしている友人が自死を望んでいます。 高齢になり迷惑をかける側になる事が嫌なのと、ずっと生きるのが面倒と感じつつも周囲が悲しむ事への配慮としてこれまでずっと我慢していた分、自分の決めた時に自分の意思で決めたいと思っているようです。 命の尊厳は誰にも脅かされてはならないと思います。 一方でどうしても死んでほしくないというエゴをぶつけずにはいられませんし、命を自分自身だけのモノと考えている事に怒りを覚えています。生きる事の尊さや喜びをどんなに話したところで、本当の意味で理解されない虚しさも感じます。 その人の命の使い方に口出しする烏滸がましさも自覚していますが、それでも大切な友人と二度と思い出が作れなくなる事がどうしても受け入れられません。 私にとっては凄く大事な事なのに、相手にとっては取るに及ばない事である事実も悲しいです。 きっとその人が決行してもずっと悲しいですし、だからと言って縁を切ってしまい完全な他人となるのも嫌なのです。 死ぬまで、「うるさい、黙って生きとけ」と言い続け、何とか生きる喜びを見つけて欲しいと祈り続けるのが、自分が最も後悔しない在り方なのだと思っています。 正直、今すぐにでも心が折れて逃げ出しそうになります。でも、もっと後悔するのが怖くてしがみついています。 どのような心持ちで生きていくことが、自分の道なのか分からず、迷子になっています。 質問とは言えないかも知れませんが、どうかよろしくおねがいします。
中学生くらいから、時が進んでいくことが恐怖で生きるのが辛いと感じていました。 具体的には、少しづつ老いていく祖父母や両親、クラスや学校段階が変わるにつれて自然に疎遠になる人間関係などが辛いです。 大学生になりその恐怖はより増しています。両親や祖父母は、小学生の頃の記憶と比較して、歳をとったなと感じることも増えてきました。 将来的に、自分の子供や孫ができたり新たな出会いが生まれたりということも勿論分かっています。 しかし、自分は後輩よりも先輩が好きなタイプで、多分自分の子供よりも母や父、祖父母のことを想ってしまうと考えています。 1日1日を重ねることが怖いですし、未来が全く楽しみじゃありません。 とはいえ死ぬ勇気はなく、日々辛さが増すばかりです。 このような辛さにどう対処したら良いのでしょうか。
家族ぐるみでお付き合いのあった子供(中学生)の友達のお母さまが急病で亡くなられ、告別式に子供と一緒に参列させていただきました。 お別れの時に私の子供が凄く泣いているのを見て、死にたくない、子供に悲しい思いをさせたくないと、死に凄く恐怖を感じ、ひと月ほど経ちましたが漠然とした不安に襲われるようになりました。 私はどうしたらいいでしょうか。宜しくお願いします。
こんにちは。 両親や祖父母が死んでしまうのがとても怖いです。 幸い病気を患ってる人などはいないのですが、交通事故、心臓発作、脳卒中などで明日死んでしまうのではないかと思って毎晩泣いています。 死は誰にでも訪れるものなので、これから親しい人の死を迎えることが怖くて怖くて、それなら私が先に死にたいし、むしろ一家心中してみんなで一緒に死にたくてたまりません。 でも、自殺はいけないこと みたいな常識が流布しており、どうすればいいのか分かりません。 よろしくお願いいたします。
お世話になっております。 以前より、強い死の恐怖について質問しており、その度に暖かいご回答を頂き大変感謝しております。 今回は、自分の死を受け入れて生きることが現実的に可能なのか、という質問です。 今まで頂いたご回答や仏道の自習において、「死はみんな怖い、けれどそのまま生きている」「死の恐怖を無理に消そうとしない」「禅は【今を生きる】修行で、未来のことを考えない(未来のことを考えるのは、今を生きていない)」といったお考えを学びました。 このお考えの論理そのものはとてもよく分かります。そもそも怖がってたって人間は死ぬし、時間の無駄だとも思います。それでも湧く本能的な恐怖なのですから、放っておくしか無いのが実状でしょう。 また、心理学の森田療法でも同じように書かれており、宗教の壁を超えた現実的なお考えだと思っています。 ですが、その考え方は、本当に現実的に可能なのでしょうか?このお考えを知って尚、そんなふうに生きれない私がおかしいのでしょうか。 私は恐怖感に襲われ続け、正直もう疲れてしまいました。皆さんに暖かいご回答を頂いているのにも関わらず、恐怖を受け入れられない自分が情けないです。そしてできる限りの実践や自習もしてきたつもりです。自分のできる限り死に向き合って、でも実生活が疎か疎かになるから恐怖を無理やり忘れて、また思い出してはパニックになりの繰り返し。 日常的な禅などで身体で理解するまでにも至らず、3年ほど強く悩まされて「本当は恐怖を受け入れる日なんて来ないんじゃないのか、来ないまま慄き泣き喚き絶望に塗れて死ぬしかないんじゃないのか」と絶望でパニックの日もたくさんあります。 修行が足りないだけなら今後も修行するしかないのでしょうが、会得までの長い間がもう、頑張れないです。弱音吐いてすみません。 死ぬのが怖い、でもその気持ちを抱えたまま生きているのがどうしても苦しい。皆同じだからと言われても、私が納得できないんじゃ、私は救われないままです。 わがままだと思います。自己中だと思います。ただ、辛い現実から救われたいのは、それこそ皆同じなのではないかとも、思っています。 具体的な解決策はありませんでしょうか。 どうか知恵をお貸しください。
結婚23年目、大学生(20歳男子)高校生(16歳女子)がいます。 先日、躁鬱病だった主人が、精神科を退院した2日後に自ら命を絶ちました。長男が2歳の時に鬱病になり、休職復職繰り返しましたが、結局、娘の誕生後に退職しました。その後バイトと義母の仕送りでどうにか保っておりましたが、主の生活は金融機関の正社員である私の収入でどうにかやり繰りしていました。元々神経質で人を自分のルールに合わせる傾向がありまして、また高級志向な為に家のインテリアや家具、電化製品等主人が決めていて、私の意見は聞いてもらえませんでした。家計事情等、無頓着なので、私との衝突も多かったです。鬱が回復後からは、暴君に拍車がかかり私や子供に厳しくクレーマーになって人様にご迷惑をかけたり、義母からのお金で大変な浪費や、旅行や、しなくてもよい契約をしたり、奇声をあげたりと、心落ち着かない生活を子供達と耐えておりました。 尋常でないテンションの高さに、私が病院に相談に行きまして、双極性障害(躁鬱病)であると診断されました。 子供が受験のときはあまりにうるさくて、彼にお願いして無理して別居してもらいました。 でも躁が抜けて穏やかな時は、私と食事や旅行もしたり決して仲が悪いわけではありませんでした。彼の良いところを認めてどうにか、やっていたように思います。 しかし、昨年に人間関係のトラブルで仕事を辞めてから、ずっと家にいて、何もせず上げ膳据え膳で、私もストレスが溜まり、今年のコロナの頃になったらどんどん鬱がひどくなり、私が仕事中は、自宅謹慎中の子供たちは主人を鬱陶しがり決して良い環境ではありませんでした。死ぬと言う言葉を連発し、ベルトを首に巻いたり、死ぬマネを何度かされてからは恐怖心しかありませんでした。私は疲労困憊してて安定剤飲みながら仕事していました。主人が心配で実家で静養してもらうようにお願いして、実家の近くの病院に紹介状を出してもらってどうにか入院まで進めることができました。 私は、怖さが勝ってしまい、退院しても一緒には頑張れないと思っていました。 連絡もしませんでした。亡くなってから、もっと頑張ればよ良かった、優しくすれば良かったと自責と懺悔の毎日です。主人は私が離れていくことに絶望してたと思います。私は自責しかないです。主人は、ちゃんと安心して成仏出来るでしょうか。気持ちの切り替え方を教えてください。
最近一人暮らしを始めました。 もともと体が弱いのと色々と考えてしまう性格のせいで、一人暮らしで自分の身に何かあった時に助けてくれる人がいない、その状況にただならぬ恐怖を感じてしまいます。 また、それよりも怖いのが身内の死です。 小学生の頃から身内が死んだときのことを考えると恐怖で涙が止まらなくなり、親の元へ駆け込んで落ち着かせてもらうということを度々してました。 今、親元を離れている状況で、ふと、今身内が危険な目に遭っていたら………と考えてしまうとどんどん悪い方向にしか考えられなくなり、ひどい時だとパニックを起こしてしまいます。 考えなければいい、という話ではありますが、体調を崩しているとき、気持ちがナイーブになっているとき、何か近場で事件が起きてしまった時など、スイッチが入ってしまうと考えるのが止まらなくなってしまいます。 今の精神状態だと、私は、親が亡くなったら確実に後を追ってしまうでしょう。 こんなことを考えてしまう私の心は弱いのでしょうか? 何か割り切って心を落ち着かせる方法などありませんでしょうか? 乱文での質問大変申し訳ありませんが、ご教授いただけたらと思います。 何卒、よろしくお願いいたします。
自分は今21歳で、死への恐怖がとても強く、震えて立ち上がることも難しくなるくらいに怯えてしまうことが度々あります。 自分の周りの人は自分がいつか死ぬなど欠片も思っていない様子で楽しく過ごしています。 親もそんなこと考えていたら人生楽しめないよ、と言って宥めてくれます。 しかし、今生きている自分の行く末が死であるという絶対的な事実がある限り心から人生を楽しめる気がしません。 今この瞬間の人生を心から楽しみたいのにそれができないのがとても苦しいです。 歳を重ねると死への恐怖は少なくなっていくものなのでしょうか。
こんにちは、見てくださってありがとうございます。 初めての質問、長文ですが失礼いたします。 昨年食道がんで父を亡くしてから、思い悩むことが多くなりとても辛いです。そういった負の感情とのつきあい方、折り合いの付け方をご助言いただけたら嬉しく思います。 「思い悩む」の内容は、自分では3種類くらいあると思っています。①父の死自体に対する悲しみ、②今後周りを含め迎える死に対する悲しみ、③周りと比較してしまう思考、です。 ①に関しては、死別までのトラウマです。コロナ禍ということもあり、父は臨終近くまで家で過ごすことが多く、父の咳で眠れなくなったり、血痰が出て夜中に看護婦さんを呼んだり、かん腸で泣き叫ぶ父を励ましたり、とても悲しい記憶が色濃く残っています。当時リモートワークで、仕事先の人にもあまり事情を分かってもらえる人がいなくて、完全に孤立してしまったことから、少し捻くれているのかもしれません。 ②は、これは私も意外だったのですが、今後私が経験したような果てしない悲しみを、ほとんど誰もが同じように経験をするという事実が、悲しいということです。その事実を直視すると、人生には救いがないな、と、思ってしまいます。例えば、私の周りの大切な友達やいまは幸せそうな家庭や生まれたばかりの赤ちゃんだって、いつか大切な人の死を経験するのは同じですよね。親の死に対して「みんな経験することだよ」という励ましワードは良く見ますが、私にとっては、それが、そういう出来事が増えていくことを確信しているからこそ、これから生きていくのが苦しいな、という感情になってしまいます。 ③は、他者との比較を辞めたくても辞められないということです。周りは20代。両親健在な方が多く、羨ましさが拭えません。両親が元気な友達の家庭の話を聞いたり、死と関係のない悩みを聞いては、一人になってから羨ましさで泣いてしまいます。「両親どちらも幼くして亡くしてる人もいる。私は幸せだ。」とか、考えてみるのですが、また人と比較することでしか、自分を慰められていないことに気付いて嫌になります。他ならぬ自分自身が苦しいのだということを認めたいです。 hasunohaやグリーフについての本などを読んで、死別といっても、それに伴う感情は多様で複雑だなと思っています。お時間ありましたら、お言葉いただけたら嬉しく思います。
乱文お許し下さい。 私は35歳、主人は34歳で、共働きしています。2年前に結婚し、一緒に暮らし始めて1年になります。 生理が不順気味で、年齢のこともあるので、一緒に暮らし始めてからすぐに、不妊治療を開始しました。タイミング、人工受精にトライしましたが、なかなか授からず、医師から「私の体質では妊娠は難しいかもしれない」という宣告を受けました。 主人は「子供がいなくても、2人で楽しく生きていこう」と言ってくれており、不妊治療や家事も積極的に対応してくれます。義両親もとても良い方達で、子供が出来ないことには一切触れません。 私は相当恵まれた環境にいると思います。でも、こんなに優しい主人・義両親を父親・祖父母にしてあげられないことが逆にとても辛く、罪の意識に苛まれています。私がいなくなれば、新しい奥様との間に子供を授かることが出来るのでは、という考えが頭から離れません。「2人で生きていったら良い」という主人の言葉も、私に気を遣っているだけで、本心では子供を望んでいるかもしれない‥という疑念も持っています。 上記の内容と私の心の弱さから、死んで消えてしまいたいという思いが強くなってきています。自死が良くないことは理解しています。それに、死ぬ勇気も絞り出せそうにありません。首を吊ろうとしましたが、怖くて足元の台から降りられませんでした。 命を断つ代わりにと思い、離婚を切り出したら、今まで怒ったことのない主人が激怒してしまいました。離婚するかどうかは、主人に判断を委ねることとして、離婚届を置いて私は家を出ました。 実家へは事情があって帰ることができないので、今はホテルとネットカフェを転々としています。主人は判断に迷っているのか、怒っているのか分かりませんが、連絡はありません。 自殺方法をネット検索し続けている日々が続き、もう限界です。私はこれからどうしたら良いのでしょうか?
プロフィールにも書きましたが、現在フリーターです。 昔からなんだか気が付いたら大変なほうを選んでしまう自分がいます。 これが自分の性なのかぁと内心あきらめかけています。 そして経験するにつれて、歳をとるにつれてだんだん自分が丸くなってきているのがわかります。 もはや、仕事も人も好きか嫌いかで判断するものでもないと。 感覚として嫌いな人やものでも、付き合っていくうちにその人のことを理解しようと思うのですが、かえってそれが自分が無理をする足かせになってしまいます。つまり、分かろうとするから、それが必要な理由が分かるからこそ無下にできないと思ってしまうのです。 両親であれ、学校の先生であれ、仕事仲間であれ、どんなに嫌でもその人のことを理解しようとして選択をした結果が、現在の状況であり、いつも大変です。 世の中のきれいな部分汚い部分含めて、それが正しい正しくないという枠組みを超えて、今いる場所が自分の人生なんだなぁと納得しつつあるのですが、 自分のいいところを誰に認められることもなく、自分の中の悪かった部分は改善され、良かった部分は削られていく現状に不安があります。 なぜ良い部分を削らないといけないのか。 若いうちは、ある程度自分の良いところを軸にキャリア選びをしていくものではないか、自分の好きなこと、興味があること、やりたいことを軸に生きて行ってもいいのではないかと思います。 しかしそんな若々しい芽を発芽させることなく、そしてそれももはやわからなくなってきました。 人と違うことをしたり、何の精神的な支えもなく一歩を踏み出せるほど強い人間でもないですが、大人として落ち着いていくことにまだ未練があります。具体的には、仕事選びに関してです。ですが丸くなればそのほうが精神も安定しますし、なんやかんや仕事は続けられるマインドセットではあるのです。 おそらく、もう少し歳をとったら、あんなこともあったなぁというくらいに見れると思うのですが、30手前の今だからこそ、もう少し葛藤していたい自分もいます。 丸くなってしまうと、自分がなくなってしまうんじゃないか。その結果自分が今までされてきたように若い子たちの自由の芽を逆に摘み取ってしまう側になるんじゃないかと怖いです。どうしたらいいでしょうか。
94歳の祖母が8月に他界、葬儀が私の旅行に被りました。 家族は私の気持ちに任せるといい、祖母は急死ではなく自分的にも心の準備をしながら接してきました。 また祖母の死を目の前にしても一般的な死の捉え方ができず悲しみはあったものの死というものが自分でもよくわからない感覚のものになっていました。 そして私は通夜.告別式に参列せず旅行に行ってしまいました。 一緒に行く彼も反対をしましたが私は自分の都合の良いように言い通して行きました。 旅行に行く前は生前祖母には自分なりに出来るだけ接してきたつもりで、自分では旅行に行くことを後悔しないと思いました。 しかし旅行中祖母のことが頭から離れず、帰ってきてからも家族や親戚には非常識人間と叱られ、 旅行に行ってしまったことを後悔しました。 でもどこかで祖母が骨になるところ、形としてなくなってしまうところを見たくなかったという想いもあります。 こんな自分を非常識であり、優しさの欠片もないと思われても仕方ないと思います。 葬儀に参列しず祖母や周りの人を傷つけてしまったことを反省しています。 でも反省している自分や看護師として働いている自分が表面上だけなんじゃないかと思えてきて、本当は偽りの自分なんじゃないかと怖くなります。こんな非常識な自分が今後また誰かを傷つけてしまうのではないかと不安でたまりません。 死に対しても常識、非常識についても何が正解なのかわからなくなっしまってます。 こんな私になにかアドバイスをいただけないでしょうか?
いつも相談をさせていただきありがとうございます。 数ヵ月に昨年亡くなった娘の命日を迎えます。その日に私は自分自身がどうなってしまうか、とても怖いです。 娘が亡くなったとき、数日間私は長女の引越の手伝いに通っていました。その日はそんなに疲れていないのに夕方なぜか胸の痛みと息苦しさを感じていました。 しんどいなと思いながらなんとか帰宅していつもどおり夕飯を終えてくつろいでいた夜9時過ぎに、娘の異変を知らせる電話が入りました。 警察署でさまざまな手続きを終えて検死をした医師から渡された死亡診断書に書かれた死亡推定時刻は、私が息苦しさを感じていた頃と同じ夕方5時頃でした。 私の体の不調は娘からのメッセージだったとすぐに思いました。娘は私のことが大好きでした。心や行動が不安定だったときも「いちばんの理解者でいてくれてありがとう」と書いた誕生日カードをくれました。 最期まで私を思っていてくれたんだと思っています。その娘が死を選ぶまで何を悩み何に苦しみ、どんなに絶望をしたのかを思わない日はありません。 そんな中で迎える命日は、きっと朝から「去年のいまごろあの子は…」「この時間にこうしてあげていれば…」と考えるに違いありません。そうして絶命した時間を迎えるとき、私は自分がどうなってしまうのか、正気でいられるのかわかりません。 とても怖いのです。 本当に怖いです。 その時をどう迎えればよいでしょうか。また、それまでに今から私ができることは何かあるでしょうか。
こんばんは。 よろしくお願いいたします。 お付き合いしている方が昔から死にたい気持ちを常に抱えている方で、私とケンカになると生きてる意味がわからないとなり、自殺をほのめかされます。 アスペルガーもあるので、急な変更があると苛ついて理不尽にキレたり、俺の気持ちをわからないあなたが悪いと罵声をあびせられケンカも絶えません。ケンカになると全部あなたが台無しにしていると責められ、常に他責なところにも悲しくなります。最近このまま付き合って行くべきか悩んでおりますが、楽しい瞬間もあったのと、以前仕事がうまくいかず自殺未遂をされたことがあり、その時に彼の母親と姉にあなたのせいだと散々責められたこともあり、考えると気が重くなってしまいます… 別れたらまた「死にます」と言ってきそうでそれも怖いです… 精神的に落ち着いて生活して欲しくて、心療内科の受診を何度も勧めていますが、人を信用していないからムダな時間を使いたくないと言います。 私の中にまだ好きな気持ちもあるような気がして、周りに大反対されつつも離れられずに来てしまいました。 毎度自分から別れをほのめかすのに、本当に良いんですね?と言われ、気持ちを試されているようで、最近はそういう試し行為にもうんざりしています… この先私はどのように行動したら良いのか、説得して受診させるのが良いのか、好きな気持ちがまだあるうちは向き合っていくのか、それとも未来を想像出来ない関係なら今離れるべきか… 色々悩んでいるのでアドバイスお願いします。
私は中学から鬱病です。 絵を描く事芸術が好きです。 死について深追いして見える世界は美しいと思います。それが見える私は、特別だと思ってます。 芸術はそういう世界だと思います。 宗教の世界も似たような美しさを感じます。 病気が治ったらその世界も見えなくなって失ってしまうと思うと怖い。 でも、その世界を見続けていると、 社会に出て生活は出来ないよと主治医に言われてしまいました。自殺してしまうよと、 絵を描く私を捨てて生活する勇気がでません。 それが正しいのかもわかりません。 私は、その感性を捨てて生きていけるのか、 また、その感性を持ったまま生きていけるのか、 本当にわかりません。 社会に出ては、感受性が豊かな私は、色んな事を感じ取り、色んな障害があり、引きこもりに戻る事を繰り返しています。 暗闇に入る事が快感な私を引っ張り上げてくれる親はいつまでも生きてません。 生きる事を教えてくれる親を裏切っていると思うと苦しいです。 私は、死に向かって歩いてると知っても自分の好きな事を通していいのだろうか
コロナの件で夫に怒鳴られました。 私は、自分や夫や自分の大切な人達を守りたいと思い、仕事や必要最低限以外の外出はしない、友人に会ったり実家に行かない等、感染しないよう気を付けています。もしかしたら自分も感染しているかも…と考えての行動です。 しかし夫は以前と変わらず、同僚や友人と飲み会等で外出し不安に感じています。 少し前に、夫が自分の実家(私からは義実家)に遊びに行こうと言い出しました。私はこの時期は辞めようと提案しましたが夫は納得しません。 夫の言い分は、仕事は特段変わらず出勤させられており、平日はストレスが溜まり休日くらいは好きなように過ごしたい、義両親は感染していないので大丈夫、ということでした。 義父はしばらく自宅勤務ですが、義母の勤務先で感染者が出たそうで不安に思います。また、私と夫も仕事で多くの人と会うため、万が一義両親に感染させるのは嫌だったので私は辞めようと考えました。 しかし、以前からなのですが、夫は自分の意見を曲げない性格で、それに対して私が口を出しても耳を貸さず一方的に怒るため話し合いが出来ない人でした。 そういう夫の性格はこれまでの生活の中で重々承知していましたが、死に関わると思いどうにか辞めさせたいと思いました。 しかし私は説得しきれず、義母にこっそりと連絡し、断ってもらえないかと依頼しました。義母には夫に内緒にしてもらうよう頼みました。 義母からしても息子が会いたいと言っているのを断るのは心苦しいでしょうし、嫁から面倒な依頼をされて、良い気持ちはしなかったと思います。私もこんなお願いをする自分に対して自己嫌悪になりながら、義母にも申し訳ないと思いながらの行動でした。 結局困った義母は夫に話してしまい、夫から私に対し、なぜこのようなことをしたんだ!義母に迷惑をかけるな!と、ものすごい剣幕で怒鳴られました。これまでにない怒り方でした。 もちろん、こっそりと義母に依頼し裏から手を回そうとした私の行為が悪かったと思います。 しかし、暴言を吐きながら怒鳴る夫に恐怖を覚えました。また、今後も自分の意見を曲げない夫に、怒らせないよう怒鳴られないよう気を遣いながら怯えながら、私はずっと暮らしていくのか?と考えたら、今後どうしたら良いのかわからなくなりました。離婚はしたくなかったですが…今後も一緒にいたいと思えるのか不安になりました。