6月9日に義母を95歳で老衰で亡くしました。 自宅介護を3週間ほど頑張ったのですが、脱水になってしまい、急遽入院になり、入院して3日で息を引き取りました。最期を看取れたのは良かったと思っています。 今はお骨になり義実家に帰っています。 49日の納骨まで、祭壇にごはんを用意しているのですが、 私は心霊全般が非常に苦手で、お骨を見たりしていると、義母には申し訳ないのですが、怖くて仕方がありません。 心霊現象が起きたわけではないのですが、 とにかく怖いです。 生前は介護を一生懸命していて、義母を大事にしていたのですが、亡くなってお通夜、葬儀、火葬場にいた時も実は怖くて仕方がありませんでした。 これからも納骨までは義実家の義母の祭壇にごはんを用意しないといけません。 今日も、心霊現象が起きるのではないかととても怖かったです。 本当に義母には申し訳ない気持ちですが、 怖くて仕方がありません。 怖くなくなる心の持ち方があれば教えていただきたいです。 怖くて、どういう気持ちでいたらいいかわかりません。祭壇自体も怖いです。
生きている時、悪い事をすると地獄に行くのですか? 地獄とは本当にあるのでしょうか?
前回や前々回の相談からの心情の変化は、梅雨時期なので夜の辛さが辛いです。コロナの流行る前年の年末に風邪を引いたとかで正月を挟むので多めに薬出して貰って年明け1月か2月に定期的な血液検査と言われてた様でコロナが流り近所の開業医の内科に行きたがらなく成りました。昨年の2月の初め夜に風邪が悪化して様で翌朝救急車を呼んで救急病院に。検査の結果風邪をこじらせ肺炎で入院。夏の入院時も夜に悪化翌朝救急車で同じ救急病院に入院。体力も落ち寝返りも難しく成り急ぎで介護認定と訪問看護て自宅治療で退院予定と車椅子椅子でわ過ごせる様に退院楽しみにして母。退院後一月程で亡くなりました。無理やりでも内科に連れていき早めに対処してたらと。あの時こうしてたらと思い出してらと辛いです。
あまりにもお恥ずかしい話ですが、今まで因果の道理を全くしらずに、好き勝手に生きてきてしまいました。 生き方を本気で悔しいですが間違えました(>_<) 快楽の果ては死ぬしかないのでしょうか? 自分の人生を背負うには時があまりにも遅すぎ、自分の人生を見ると吐き気がし、人生に押し潰されて動けなくなってしまいます。 本当に生き方を間違えた。と心底思いますし悲しいです。動いても動いても、自分と切り離され、からっぽです。自分の人生から離れている感じです。離人症です。 今もずっと病院とカウンセリングの往復だけで、後は家で死を待っています。人生手遅れで本当に気力がなくうごきたいですが動けません。 生きていけそうにありません。 こんな私はやはり死ぬしかないのでしょうか? 仏様に手を合わせ懺悔しても、ただ吐き気と発狂したくなるほど自分か狂ってしまいそうになるだけで呼吸困難になりまた人生を見るのをやめます。 わかりにくいと思いますが、生きていく気力が何年間もありません。 ハスノハにも何度もお世話になりましたが、いよいよ私の人生もここまでかと思っています。 羽目をはずしすぎ、本当に恐ろしい人生です。 ただ何もしなくても今までの罪に押し潰されただただ恐怖です。本当に一日中怖くて怯え続け死にそうです。 因果応報なんて今さら言われても無理です。 耐えられません。押し潰されて動けません。本当にアホな人生でした。這い上がる気力はもうありません。と言うよりも、手遅れで背負うことができません。動くことができません。 自分の人生を背負えず生きていけないですよね。 どのようにして死ぬか日々考えています。 本当に怖いです。 話はずれてしまいますが、中絶経験からお地蔵様へ懺悔と「我が子をよろしくお願いします」とお願いしても、「知らんがな!それだけのことしておいて今さら」と言われている感覚になるので、「良いことをいっぱいするので我が子をよろしくお願いします」と言っても全く善い行いどころか、普通の行いすらできていません。以前 教えて頂いた五戒というのはできる限り守っているのですがそれだけで、我が子の冥福を、祈るのはだめでしょうか?
最近も高校教論が子猫を生き埋めにした事件がありました。 世の中にはまだまだ遊び半分に酷い虐待に遭って殺される動物たちが沢山います。 犯人は悪びれもせず同じことを繰り返しています。 物言わぬ小さな命を弄びながら、肉や魚や植物の命を無駄に消費するのです。 そんな話を聞いてしまうたびに、可哀想で悲しくて心が狂おしく乱れます。 虐待される動物たちは、酷い目に遭うために生まれてきたのでしょうか? 仏教的には、彼らはそんな目に遭わされねばならない相応の業を持って生まれてきたということになるのでしょうか? 酷いことをする人間に出会ってしまうことは、動物たちの宿命だったのでしょうか? だとしたら本当に悲しすぎます。 怖い苦しい想いをしたであろう動物たちの魂は、死後ちゃんと救われるのでしょうか? せめて彼らの魂が仏様の元へ行って幸福になれるように祈っているのですが、どうしてもやりきれない想いがじくじくと心に膿みます。
よろしくお願いします。 仏教で「正しい教え」という言葉をよく目にしますが、正しい教えと正しくない教えはどう違うのでしょうか? ある僧侶の方が新興宗教や自己啓発に批判的なコメントをされているのを見て、自分にもそれが当てはまるのかなと不安になりまして。 というのも、私は新興宗教ではないのですが、50歳を過ぎてから仏教の教えにふれて以来やたらポジティブになりまして、仏教の教えを調べたり、実践して気付きを得られるのがとても楽しいのです。 この楽しさや気付きを私は勝手に「仏様からのご褒美」だと受け止めていたのですが、こういうのって仏教本来の教えから見て大丈夫なんでしょうか。 念持仏を開眼して頂いたお寺の護摩行にたまに参加して皆さんと一緒に読経したりご真言をお唱えするのがとても楽しいです。声を出すのでスッキリします。 良いことばかり過ぎて、ひょっとしたら私は仏教の教えを誤解しつつあるのではと不安になってきました。 ※正しい教えをもっと学びたいので将来は灌頂も考えています。
法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。
付き合い5ヶ月の彼(28歳)の子を妊娠しました。 しかし彼は、人格否定(私はクズとか)するようなことをすぐ言います。私は、悪いところは治そうと頑張ってきましたが、何度となく私の言い方や考え方について言われ、妊娠が発覚した週も、毎日のように何時間も電話で話し合いをし、疲れてしまい、仲直りしては、本当にやっていけるのかと考え、それを伝えるとまた何時間も話し合い。と言うことの繰返しでした。 疲れを感じ、もう新しい道を行こうと考え彼に伝えたところ、下ろすならお腹殴らせろとか下ろすと一筆書けとか、殺すなど言われました。(実際に手をあげることはありません) それも私が言わないと分からないから言うのだと彼は言います。 彼は10代の頃不良で、悪い人達とも付き合いがあり、捕まってもおかしくないことをしていたそうです(今は違います)。 年齢的にももう妊娠出来ないかもしれないし、中絶は子供が可哀想です。 何度となく何時間も彼と話すうちに言葉は悪いけれど、彼の気持ちもわかるところはあり、何とか彼とやり直した方が良いのか悩みすぎてわかりません。 私の周りの方達は、大体の人が私が幸せになれないから諦めろと言います。 しかし、彼と別れて次に出会う人がどういう方かはわかりませんし、彼とは違う試練があるかもしれません。私が幸せになるのかもわかりません。 年齢も年齢ですし、今年3月に子宮筋腫の手術を受けており、2年で再発すると言われていますので妊娠出来る期限もあります。 なので、彼と話し合い、がんばれるだけがんばってみても。との考えもあります。 子供が誕生したら、可愛いだろうなと考えてもいます。彼も、子供は好きなので産んで欲しいと言います。 ひとつの心配は、出産した場合、育て方だとは思いますが、彼の子ですのでどう育つのかです。 自分の軽率な判断で妊娠し、自分勝手な理由で中絶を考えるのは人として違うとも思いますが、彼と別れるなら一人で子供を育てる自信もありませんし、自分と子供の為にも今のうちに新たな道を選ぶ方が良いのではとも思います。 10週目まで来ており、悩みに悩んでもどちらが良いのかわかりません。 どうか、ご意見をよろしくお願いします。 長文乱文、失礼いたしました。
よく殺人犯は極悪人扱いされますが、本当にそうなのでしょうか。 他人に「死ね」と言うだけでなんの謝罪も責任も裁きもない口だけの人間よりも、自分の人生を犠牲にしてまで他人を殺め、すべての苦しみから解放してあげるなんて、よっぽど優しい人物といえるのではないですか。
以前にご相談させていただきましたが、実家の菩提寺との関係が良くなく離壇の方向で住職と話を進めています。 菩提寺は真言宗智山派です。同宗派でお寺を見つけることができればよかったのですが、兄が学生時代にお世話になった先生が浄土宗の寺で住職をしており、葬儀社の信頼も厚く今後はそちらでお世話になろうと考えております。 ご相談に伺ったところ、菩提寺との関係がきちんと解消されれば入檀は問題ないとのお話を頂きました。 問題は菩提寺です。離壇についてお話ししたところ『戒名を返すように』との趣旨の話をされました。 授かっている戒名を返すとはどのような意味なのでしょうか? 菩提寺の過去帳から名前を消すこと? 位牌の戒名も新しい宗派で新たに戒名を作って頂かなくてはいけないのでしょうか? 菩提寺としては離壇を避けたいとの考えから離壇引き留めの色々な話をしてきました。 色々とわからない内容だった為、一度話を持ち帰りました。 転派と戒名についてご教授よろしくお願いいたします。
先日ガンで父を亡くしました。55歳でした。 辛い闘病生活の後でしたのでそれなりに覚悟はありましたし、亡くなった直後は「やっと楽になれたね、良かったね」と思っていたのですが、 やはりとても寂しく辛い思いでいっぱいで、毎日遺影の前に座っては泣き、父の使っていた食器や布団を見ては泣き、父が好きだったテレビ番組を見ては泣いています。こうして文章を打っている今も涙が止まりません。 「いつまでも悲しんでいてはお父さんが成仏できないよ」とか、「乗り越えて強くなりなさい」とか、葬儀の時親戚の人に言われました。自分でもそんなことぐらいよく分かっているのです。 それでも、(こんな事を言うと怒られると思いますが)成仏なんかしないでいつまでも私と母の側にいてほしいとさえ思ってしまいます。 父も私も無口で口下手なため、元からお互い交わす会話は多くなく、私が働き始めてからは同じ家にこそ住んでいるものの関わりはあまりありませんでした。 そこにこのような出来事があり、私はこんなに父の事が好きだったのかと自覚しました。それならもっと話しておけば良かった、こんなことになるなんてとまた泣いてしまいます。 私も勿論辛いですが、最愛のパートナーを亡くした母はもっともっと辛そうで、私がいなければ後を追っていたかもしれないと思うほど悲しんでいました。そんな母を見ていると私も悲しくなってしまいます。 父の死を乗り越えるにはどうすれば良いでしょうか。時間が癒してくれるのを待つしかありませんか?
私の会社では、お客様の前では自分を演じなさいと教えられます。思いやりのある優しい気持ちで綺麗な仕事を丁寧な言葉遣いを使えと言われます。 それが上手くできていないと、演じきれていない。と言われます。 私は”演じる”と言う言葉に大きな壁を感じています。 演じると言うことは、真の自分を隠していると言う事ですよね?私はそんな人間になりたくありません。演じるのではなくて、芯からそういう優しくて丁寧で綺麗な言葉を使う人間になりたいと思ってます。 私は人として成長したいと思ってこの会社に入社しました。 だけれど、お客様の前でない時もスタッフが何を考えて何を思っているのかわからなくなってしまいました。 みんなピエロのように感じます。他人に無関心で、お客の前ではニコヤカです。 これが大人になると言う事なのでしょうか? これがただしいのでしょうか?
地方の小さな寺で生まれ、寺だけでは住職の生活できない為に祖父の代から保育園を経営しています。 寺の為に保育園の給与から私費を投じていますが、半数以上の檀家さん(現在存命の方)からは「当然だ」という態度をとられて育ってきました。 現在伽藍の修復を計画していますが、法人が赤字であることを理解していただけなく、「何年も葬式や法事で布施を払ってきたんだからそこから出して、足りない分を住職一家が出せば良い」という意見が非常に多い為、伽藍の再建は難しそうです。 地方の過疎地域に建っている為、実際のところは保育園の閉園も視野に入れなければならなくなってきており、これ以上の私費投入はできないことを伝えて閉園と同時に一族が寺から出ていくことを真剣に考えています。 「寺に生まれたのだから寺を継げ」という方もいらっしゃいますが、檀家による再建ができない寺を息子に継がせたくはありませんし、私個人が信心して転居先で信者として、もしくはフリーランスの兼業僧侶として生きて行けば良いと思っています。 人生のうち数年間を修行という期間で過ごしたにしては、杜撰な自分と、求められる理不尽さに耐えられません。 ・修行、信心が足りない ・心構えが間違っている ・自分の生活を犠牲にしてでも寺に尽くすべき ・檀家さんのことを考えろ 等、耳障りの良い綺麗なことはいくらでも思いつきますが、僧侶であっても生き物であり人間です。 元々経済的な土台が崩れており、悪化しか見込めない地域の寺を、私が寺以外から得た収入でもって維持する必要はあるのでしょうか? 妻と二人で得る年収であれば、一般的な家庭として家を建てて暮らせる程度と思いますが、それを寺の会計に寄付し、息子に「檀家さんに住ませてもらっている」と言い聞かせて貧乏な暮らしをさせなければいけませんか?
初めまして。カスミと申します。 稚拙な文章にて失礼致します。 以前、飼っていた犬を死なせてしまいました。 気性が荒かったので、強く当たりすぎてしまったんだと思います。 毎晩後悔し、死んでも償いきれないような事をしてしまったと本当に後悔しております。 私が同じように死ねば、犬も許してくれるでしょうか。 ご意見お聞かせください。
初めまして。 先日、大好きな母を突然くも膜下出血で亡くしました。 まだ50代という若さで母はこの世を去りました。 母は私が小さい頃から本当に苦労をしていました。 苦労の原因は父親です。 父親は昔から仕事は不安定、ギャンブル、借金、うつ病などで母は毎日どんなに仕事の環境が辛くとも頑張っていました。 とても優しく自分の事より家族を1番に考えてくれる本当に良い母でした。 なぜこんな良い母が…っと思う日々です。 世の中には悪い人がいっぱいいるのに何故… 神様はいるのでしょうか? 父親も仕事が落ち着き、私もこれから母に親孝行をしていきたいと思っていた矢先の出来事でした。 私は3年前に結婚をして妊活を始めて1年が経ちますが中々授からず、母に孫の顔を見せてあげる事ができませんでした。 母とこれから楽しい日々を送れると思っていたのに何もできなかった自分を責める日々です。 母は東本願寺の真宗大谷派ですが、三十五日、四十九日まではこの世に魂があるのでしょうか? それまでに母に何かしてあげれる事はありますか? 無事母が成仏して天国で安らかに休んでもらうにはどうすればよいのでしょうか? 突然の死だったので母もこの世に未練があるかと思います。 無事に成仏をして天国で幸せに過ごしてほしいです。 人は死ぬとどこにいくのでしょうか?
以前も質問しました。 主人が不倫をして約1年悲しみ憎み怒り狂いました。 自分の悪い所もあったはずなのに、そんなことで不倫するなんてと思っていましたし今でも思ってます。 不倫していい理由なんて無いです。 好きだったら愛していたら許す。 それは正しいのでしょうか? 好きだからこそ苦しみ信頼がなくなりどうしていいかわからなくなります。 許せる心を私が持ってないから主人は死んでしまったのですか?私が殺してしまったのですか? もう少し耐えて私の事を受け止めてくれれば。や、恨みが勝って離婚していただろうなと思ったり色々考えてしまいます。死ぬことなんてなかったのに。 この人生が修行だとしたら無償の愛を学ぶことですか?責めたのがそんなにいけませんか? 死ぬなんて私に対しての裏切り行為としか思えないんです。 自分が楽になりたかった? 残された私と子供達は生き地獄です。 まだ不倫で壊れたメンタルが回復していないのに自殺で本当に辛いです。 本当は一緒にもっと生きたかった。 でももう私の愛した夫ではなかった。 主人は反省してたのに許すことが出来なかった。自分を押し殺して楽しいフリもした。しんどかった。 今すごくしんどいです。 会いたいのもあるし私の人生だからいい出逢いがあることも期待したい。 そう思ってしまう自分に嫌悪感があります。冷たい人間でしょうか? 不倫で人生が考え方がおかしくなってしまいました。 遺書に愛してるよと、ありましたが愛していたら不倫なんか出来ない。 本当に愛してくれたでしょうか? 主人は私を恨んでないでしょうか? 早くこの辛さから開放されたいです。辛いです。会ってごめんねと抱きしめてあげたいです。愛情憎しみ悲しみ全ての感情が混ざってます。 不倫されて反省せず責めてごめんなさい。主人は恨んでこの世で彷徨っていないでしょうか? 憎しみは消えません。不倫の悲しみも消えません。でも大好きな大好きな主人です。どうかどうか今、苦しんでないことを祈ります。主人以上の人はいません。
もうかなり前のことになりますが、身内の一家心中未遂により母親を亡くしました。 事件直後からしばらくは、心から尊敬していた、加害者となってしまった身内の変わり果てた姿と、思春期特有の衝突を乗り越えてようやく人間同士として関わり始めていた最愛の母との突然の別れに頭の中がぐしゃぐしゃになりました。 それでも、両親が応援してくれていた夢に向かい立ち止まるわけには行かない一心で、また、共に強いトラウマを受けた弟の頼れる兄であり親代わりになるべく、ガムシャラにここまで走り続け、仕事の面では今ではそれなりに少年時代に思い描いていた立場になりました。 しかし仕事の性質上、どうしても日常の中で考えてしまうのです。 最愛の両親を守れなかった自分が、他人様のために昼夜問わず身を粉にしている虚しさを。その場では必死にやりながらも、どこかその姿を冷めた目で俯瞰で見ている自分がいるのです。「お母さんを死なせたくせに。この道に進まなければきっとお母さんも今は生きていたのに。結局ここまでの道のりは全て単なる自己満足でしかないじゃないか。」と。 このような日々が続いて今更、30過ぎにもなって情けなくもお母さんに会いたくて仕方がないのです。自分の頑張りを親に認めてもらいたいという幼稚で卑しい願望から来ている気持ちである事は理解しているのですが。 自らも親となったことではじめて親の愛情の深さを知り、尚更今の自分の姿、孫の姿をどうしても見てもらいたくて寂しくて切なくてたまらないです。 どれだけ人様から見て成功して見えようとも、この後悔と自責の念を抱えてあと数十年生き続ける事が辛くて恐くてならないのです。 子供たちが誇りに思える父として、この先も前向きに走り続けるために、どのようにこの深い悲しみと向き合えば良いのでしょうか。
以前「元交際相手が亡くなりました」というタイトルでご相談しました。どうしたらよいかわからない、気持ちが落ち着かない自分に教えを授けてくださり、本当にありがとうございました。 正直、いまも心が休まることはありません。2人で話し合いお別れをした結果、相手が旅立ってしまい…日々様々な思考が巡ります。長い長い時間が必要なんだと思います。 心残りは、自分の言葉で相手を思うことができなかったことです。今更ではありますが、相談機関の助言をいただきながら言葉を選んだので、本来の自分の言葉ではありませんでした。もう少し言葉を選んでいたら別の結果があったのではと思ってしまいます。今さら気づいてしまい、後悔の念でいっぱいいっぱいです。ごめんなさい。 そしてその言葉を受けて、相手の方はどういう気持ちで旅立ったのでしょうか。亡くなることで報われることはあったでしょうか。相手の方はなぜ死を望んだのでしょう。最期は苦しくなかったか、いまはどうしているか、安らかであることを祈るばかりです。 自分はどれだけ傷ついてもいい。 相手の方がもう何にも傷つかず、健やかであってほしいです。
先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
前回、上記お題でご質問させて頂きました、aluseusです。 新たにご意見をして頂きました、 大野山 福公園寺の、鈴木光浄様。 本当に有難う御座いました。 とても嬉しかったです。 皆様から暖かく、ぜひ話しをしてみて下さい、 との応援のご回答に勇気を貰い、 思いきって受付の方にお話をさせて頂きました! 結果、 お断りされてしまいました。。。 受付に行くまでにもう一度勇気をと思い引いた 『何事も思うまま、大吉』 のおみくじも虚しく、 とぼとぼと帰宅しながら、 泣いちゃいました。。 受付の方とのやり取りについて、 ご説明しますと、 私がお話をしてみたいと思う僧侶の方の お名前がわからないので、 一先ず、 『こちらにおります、御坊様と、 お話をさせて頂く事はできますか』と、 お伺いしました。 受付の方が、『どのような要件か』聞いてきましたので、 『個人的な事ですが、お話をしてみたいと思い、 そうゆう機会をもうけているかわからないので、 お伺いにきました。』 と伝えました所、 『そうゆう人生相談はやっていない、 僧侶は忙しいから無理、たとえ話しが出来たとしても、 5分10分です。』 との事でしたので、 私も図々しいですが、 『5分10分でも有難いので、 ご都合の良い日時に、 お伺いさせて貰う事はできますでしょうか。』 と伝えましたら、 『その時になってみないとわからない、 特に今日は忙しいから無理ですよ。』 と、迷惑そうだったので、 やめようと思い、 最後くらいは元気よく笑顔で、 『ご無理を言いまして、失礼致しました、 有難うございました。』 とお詫びして帰りました。。。 今日は遅い夏休みを取りましたので、 初めて朝一番のお護摩に参加してみましたが、 朝一は僧侶の方全員総出でしょうか、 圧倒されましたが、朝の清々しい空気の中、 お勤めされているお姿は、とてもとても美しかったです。 こちらの僧侶の方々は大好きですが、 お話しできない理由もあるかもしれませんし、 無理な事は無理だと、深追いは辞めようかと思う所もありますが、 意中の方に断られたわけではないので、 また別のキッカケを作って がんばってみようかとも思いますが、 皆様どう思いますでしょうか。 その後のご報告を含め、 長くなりましたが、 宜しくお願い致します。