他国の仏教と比べて(中国・チベット・インド・韓国・タイなど)、日本仏教の特色とはどのようなものですか?詳しく教えてください。よろしくお願いします。
以前、友人とお参りしたお寺で「般若心経を写経すると病気が治る」等のお話を聞かせてもらいました。 大学時代から仏教が好きで個人的に学んでいたのですが、「般若心経を写経するとご利益がある」等の考えにどうも違和感を覚えます。 般若心経を写経すると願いが叶うのでしょうか?
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
お世話になります。 娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。 →私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ? 私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→ このぐるぐる回る思いからぬけだせません。 どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。 よろしくお願いいたします。
去年の12月に夫が救急車で運ばれ、1月に小腸がんの発覚、1か月の余命宣告を受けました。抗がん剤治療をしてうまく合っても5か月程しか生きられないと言われ、本人がしないという選択をしました。 夫は当時35歳でした。 1月で私は仕事を辞めて、毎日病院にお見舞いに行っていました。 その後緩和ケア病棟を経て在宅医療を受けています。 最初のうちは良かったのですが、体調がどんどん悪くなり、痛みがひどくなり、今はもうトイレもベッドで行い、自分で寝返りを打つこともできません。 介護は義母と2人で行っています。義両親とは物理的に距離が離れているところに住んでいたので、年1-2回しか会うことはありませんでした。 今回共に介護をしてみて、考え方や生活スタイルが違い、ストレスを感じています。 そうは言ってもトイレにも行けない相手を一人で介護することはできないため、なんとか頑張って暮らしています。 夫は食べると腸から出血が増すため、点滴で生きているのですが、その点滴の中に今日から睡眠薬を混ぜて眠らせることにしました。 痛みがひどく、モルヒネや座薬などではもう効果が少ないための、最後の手段です。 痛みが酷い以外にも、私や義母を呼びつけてお願いをされるため疲労が蓄積してしまったことも、混注に踏み切った一因です。(本人了承済みですが) きっとこのまま、どんどん状況は悪化していき、いつか旅立ってしまいます。 本題です。 私は自分も後追いしてしまいそうです。 今は職もないし、夫の介護が生きてる意味になりつつあります。 介護はとても辛いです。 私は親族と絶縁しているため、頼る身寄りもなく、子供もいません。 義母とは争うこともあるので、義父母に頼ることはできません。 友人はいますが、友人がいたからなんなのでしょう? 私が死んだらきっと悲しむでしょう。でもきっといつか忘れます。 生きる意味を探しているのではありません、もう何をすることもできません。 苦しまない自殺があったら、確実に行っていると思います。 死ぬ気になればなんでもできると言いますが、なにかを始める気力がありません。 将来私は1人で死ぬのであれば、今死んだ方が遺骨も夫の墓に入れてもらえるしいいのではないかとしか思えません。 相談したところで、何か解決できるわけでもありませんが、書き込んでみました。
昔の恋人が亡くなりました。彼は一年以上前から闘病生活を送っていたそうですが、その間、私は何も知らずに過ごして参りました。 恋人とは6年前に3ヶ月程しかお付き合いできませんでしたが、私の理想通りの素敵な方でした。 お別れしてからも何度か会いましたが、私の至らない態度が恋人を不快にさせてしまい、最後に送った3年前のメールは返事をもらえませんでした。 現在は新しい恋人と出会えて幸せですが、昔の恋人にもう一度だけ会いたいと毎日思っておりました。同時に、願っていればいつか会えるとも思っておりました。 ところが、昨日亡くなったという報せを聞き、もう会えないと思うと心が乱れてどうして良いのか分からなくなります。 泣いて心を落ち着かせようとしましたが、体の底から泣くことができません。 どうすれば昔の恋人の安らかな眠りをお祈りする心になれますか、お導き下さい。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
お世話になります。 娘が亡くなって3ヶ月。お墓が建ったので納骨をすることができますが、それが近いからかホンとに実感させられる気がして辛いです。 明るくいられたり、でも急激に甦りたまらなく寂しく苦しくなります。 家族で写ってる写真を見ると存在していたんだと思うのに苦しくなります。 何も考えなくても思いだしますが、自分の意思で最期の姿を思いだしたりします。 苦しいのに。 いつか、この気持ちから解放されるのでしょうか。 苦しいじゃなく笑って思い出せるときが。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。 仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。 そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。 そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか? そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか? もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう? 私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
俗な質問で恐縮ですm(__)m 母の戒名を付ける時、お坊さんに「80〜120」と言われました。 一番リーズナブルな信女で、です。 思わず「単位は何ですか?」と、聞いたくらいです(^^ゞ汗 万と言われ、思わず、えーーー!?と声を出してしまいました、、 無職なので、少しまけていただきましたが、生活保護の方にも20は出していただいてますと言われました、、 生活保護の原資は税金なのにそれも如何なものか?と、思ってしまいました┐(´д`)┌ 枕経、通夜、葬儀、火葬、埋骨時にもいちいち3〜5万包んでくださいと、葬儀屋さんに言われ、定期預金を解約し、払い続けました、、 (お寺さんから紹介された葬儀屋さんなのでグルですねw) あと、母が亡くなった夜、安置していただいたお寺の部屋代は5万円でした。 以上、普通の事ですか? 戒名の相場はこんなに高いのですか?? 差し支えない範囲で回答いただけたら参考になります。 毎年高い維持費を取られるし、離檀したいけど、離檀料も何百万円とか一千万とか言われそうで怖いです(笑)
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
数日前、私の一番の宝物だった愛犬(プードル)が亡くなってしまいました。まだ5歳でした。 死因は、父の運転する車にひかれてしまったことです。決してわざとではなく、単純な確認ミスでした。 そして母はその一部始終を見てしまいました。プードルちゃんの小さい体が車の下敷きになる直前の表情からその体が下敷きになって、やがて冷たくなっていくまで、ずっと。 私はその時現場におらず、一報を聞いて急いで帰宅し、遺体を見て触れ、その事実を知りました。 私を虚無感と深い悲しみが襲いましたが、その事実を知り、両親の苦しみを思うと気持ちはさらに混乱しました。 私は少し憤っているのかもしれませんし、自分がその現場にいれば違っていたかもという後悔もあります。 しかし自分より苦しみが深いであろう両親には絶対に気持ちは言えませんし、両親の苦しみがあまりにも深いため、自分が満足に心ゆくまで悲しむことが出来ずにいるような気もするのです。 両親は自分たちが殺してしまったのだとずっと苦しんでおり、その苦しみは計り知れません。 大きな後悔と深い悲しみと少しの憤り、これらを私はどうしたら良いのでしょうか。 そして、なにをしてあげたら亡き愛犬の魂は楽に、幸せになるのでしょうか。 皆さま、教えてください。 よろしくお願い申し上げます。
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
先日、母が急逝致しました。 自死でした。 親友のような姉妹のような、近い位置にいた 母でなんでも相談したり買い物いったり旅行行ったりしていたのでそんな存在がいなくなったのが 今でも信じきれず、本当はまだ生きてるんじゃないかと思います。 仕事の都合でなかなか家に帰れず、最後にあったのはなくなる三週間前でした。 先々の予定をたくさん立てていて、これこらたくさん色んな所に行こうと話していた矢先でした。 亡くなる当日、帰る予定だったのですが 熱が出て頭が痛く、気分が優れなかったので 別の日に帰るよと言うと、とても怒ってました。 亡くなる直前に私に電話をかけてましたが 寝込んでいた為電話に出れず、もし電話に出ていれば生きていたかもしれないのにと思うと 苦しくてたまりません。 遺書のようなメモ書きには、兼ねてより辛いと言っていた職場のイジメについて 殴り書きされていました。 話しが纏まらず申し訳ありません。 とにかく、未だに母が生きていて 来週も一緒にお出かけするもんだと言う感覚が ずっと付き纏います。 また、どこに出かけても母の面影を感じ 一日中母のことばかり考えてしまいます。 かと思えば、母の分も幸せに生きようと思う瞬間もあります。 気持ちに波がありとてもしんどいです。 どうやって母の死に向き合い、また 自分の気持ちを落ち着けられるのかがわかりません。 どうしたら良いのでしょうか? とても苦しいです。
今年5月2日に長男が飛び降り自殺しました。4日には、迎えに行き、一緒に地元に帰る予定でした。警察から渡された携帯には、29日に主人にしかられたあと自殺サイトを見ておりました。その後何度もメールや、電話をしても出ず、2日の朝方マンションのベランダから。未だに死んだ事が信じられず突然帰って来るのを待っている自分が居ます。けど息子は居ないと言うことも理解しているため、時々猛烈に死にたくなります。けどまだ次男が居るため踏みとどまってはいますが、一人になれば、淋しく悲しくて、しかたがありません。長男はなぜ何も言わず誰にも伝えず一人で旅だったのか。何もしてやれず理解もしてやれず、いつも人の顔色を伺い上手に合わせて大丈夫な振りばかりしている事を解っていたのに。今凄く残業で凄く悔いばかりが募ります。私は今すぐにでも長男の所に行きたいです。
はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません… 私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。 そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。 ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。 しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。 スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。 それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。 猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。 しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。 仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?