お坊様方には毎回相談と言いますか話を聞いて頂き感謝しております あれから親友が亡くなって3カ月以上経ちました 心の傷は癒えませんが時の流れは早いなと感じております 親友の家を通る度に未だに親友が生前乗っていた車が残されており 携帯に電話すると親友が2階から何時ものように私の名前を呼んでくれて 手を振ってくれたりすれば良いのになと思って家の前を通り過ぎます また家の前を通る度にずっと辛い治療をしてきたからゆっくり休めよと言ったり 俺は○○と出会えて幸せだったから本当に有難うと言ってます 緩和ケアでは3日間面会出来てもまともに話せたのは1日だけでした 親友には生前緩和ケアでの面会で姿が見えなくなっても 俺の心の中では生き続けてるから永遠に死ぬことは無いよと言っておりますが やっぱり声が聴けなかったり顔が見れないと寂しいものです 就寝時には音楽の曲で夢で逢えたらを思い出して 貴方に会えるまで眠り続けたいと思いながらも夢に1回も出て来てくれません きっと親友が夢の中に出てきたら俺も一緒に連れて行ってくれと言うからかなと 就寝時や家の前を通る度に親友には感謝の言葉を 心の中で沢山言っておりますがお坊様方は親友に対して 私の気持ちが届いていると思いますか? 親友のお墓の場所は知りませんし親友の親には 私自身良く思われていなくて交流が一切ないので
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
何度も申し訳ありません。もう直ぐ妻の四十九日を迎えますが、気持ちが落ちつくどころか妻の後を追い自死したい願望が非常に強くなりました。 何処へ行くにも何時も妻と一緒だったので、その時その時の光景を思い出してしまい大ぜいお客さんがいるお店でも涙を流しそうになってしまいます。 今、改めて私が妻を心から愛していたことと、本当に家の事は妻に頼りっきりであったことを痛切に感じてます。ですから、尚更辛く生きる希望もありません。 できることなら四十九日を無事に済ませ納骨をし、自死したいくらいです。ただ、私にはワンちゃんが2匹(妻が可愛がっていた)いることと、相続の問題があるので自死を躊躇っています。 質問は、私が自死をした場合、先に自死をした妻に再会できますか?今までのお言葉では、自死者も必ず成仏をするとのことでしたが、もしそうであるとすると私が自死をしても成仏をし、妻に再会できると考えても良いということでしょうか? 良い歳してつまらない質問かもしれませんが、私にとっては、大変重大な問題なのです。あの世で再び妻と再会をし、また夫婦になりたいのです。 本当は、この様な質問をする事が怖いのです。自分の意志や今までの御答えと間逆な御答えがあった場合、どの様にすれば良いのか混乱してしまいそうだからです。現在、病院に通っていますが、どうしても前向きな考えができません・・・どうかお教え下さい。
戒名・法名は、人が亡くなり仏になった事の名前だと良く聞くのですが、以前戒名等を調べた時に、生前に付けてもらっても良いと書かれていて、ミドルネームと一緒みたいなものだとも書かれていました。 何時から法名・戒名が、亡くなった時に付ける名前と言う認識に変わったのでしょうか? それと、今は戒名・法名も付けない人が多いと 最近TVで見ました。 主人も付けなく良いと言っていますが、どうなんだろう?と、考えています。 実父が亡くなった時に遺言で、葬式するな・お骨拾うな・法名付けるなと言われましたが、結局法名をつけました。 生まれた時に付けてもらった名前が有るから良いと言う考え方も確かに出来ますが、どちらが良いのか分からないので、アドバイスをもらえないでしょうか?
他国の仏教と比べて(中国・チベット・インド・韓国・タイなど)、日本仏教の特色とはどのようなものですか?詳しく教えてください。よろしくお願いします。
以前、友人とお参りしたお寺で「般若心経を写経すると病気が治る」等のお話を聞かせてもらいました。 大学時代から仏教が好きで個人的に学んでいたのですが、「般若心経を写経するとご利益がある」等の考えにどうも違和感を覚えます。 般若心経を写経すると願いが叶うのでしょうか?
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
お世話になります。 娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。 →私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ? 私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→ このぐるぐる回る思いからぬけだせません。 どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。 よろしくお願いいたします。
去年の12月に夫が救急車で運ばれ、1月に小腸がんの発覚、1か月の余命宣告を受けました。抗がん剤治療をしてうまく合っても5か月程しか生きられないと言われ、本人がしないという選択をしました。 夫は当時35歳でした。 1月で私は仕事を辞めて、毎日病院にお見舞いに行っていました。 その後緩和ケア病棟を経て在宅医療を受けています。 最初のうちは良かったのですが、体調がどんどん悪くなり、痛みがひどくなり、今はもうトイレもベッドで行い、自分で寝返りを打つこともできません。 介護は義母と2人で行っています。義両親とは物理的に距離が離れているところに住んでいたので、年1-2回しか会うことはありませんでした。 今回共に介護をしてみて、考え方や生活スタイルが違い、ストレスを感じています。 そうは言ってもトイレにも行けない相手を一人で介護することはできないため、なんとか頑張って暮らしています。 夫は食べると腸から出血が増すため、点滴で生きているのですが、その点滴の中に今日から睡眠薬を混ぜて眠らせることにしました。 痛みがひどく、モルヒネや座薬などではもう効果が少ないための、最後の手段です。 痛みが酷い以外にも、私や義母を呼びつけてお願いをされるため疲労が蓄積してしまったことも、混注に踏み切った一因です。(本人了承済みですが) きっとこのまま、どんどん状況は悪化していき、いつか旅立ってしまいます。 本題です。 私は自分も後追いしてしまいそうです。 今は職もないし、夫の介護が生きてる意味になりつつあります。 介護はとても辛いです。 私は親族と絶縁しているため、頼る身寄りもなく、子供もいません。 義母とは争うこともあるので、義父母に頼ることはできません。 友人はいますが、友人がいたからなんなのでしょう? 私が死んだらきっと悲しむでしょう。でもきっといつか忘れます。 生きる意味を探しているのではありません、もう何をすることもできません。 苦しまない自殺があったら、確実に行っていると思います。 死ぬ気になればなんでもできると言いますが、なにかを始める気力がありません。 将来私は1人で死ぬのであれば、今死んだ方が遺骨も夫の墓に入れてもらえるしいいのではないかとしか思えません。 相談したところで、何か解決できるわけでもありませんが、書き込んでみました。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
ネット配信サービスで映画『ファンシィダンス』を観ました。 主演の本木雅弘さんは私とほぼ同世代ですが、公開当時はお寺に関心がなく、観ていませんでした。改めて今観ると、とてもコミカルで楽しい作品で、「もっと早く観ておけばよかった」と思いました。(当時のバブル時代の雰囲気も懐かしいです) この作品はお寺での厳しい修行が見どころですが、実際に修行を経験されたお坊様方のご感想や体験談、ツッコミをぜひ伺ってみたいです。 たとえば―― 「ここに共感した」 「ここは現実ではあり得ない」 「自分の時はもっとツワモノがいた」 「私はこんな失敗をやらかした」 ……などなど。 宗派や時代は問いません。皆さまのリアルなお話を楽しみにしています。
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。
昔の恋人が亡くなりました。彼は一年以上前から闘病生活を送っていたそうですが、その間、私は何も知らずに過ごして参りました。 恋人とは6年前に3ヶ月程しかお付き合いできませんでしたが、私の理想通りの素敵な方でした。 お別れしてからも何度か会いましたが、私の至らない態度が恋人を不快にさせてしまい、最後に送った3年前のメールは返事をもらえませんでした。 現在は新しい恋人と出会えて幸せですが、昔の恋人にもう一度だけ会いたいと毎日思っておりました。同時に、願っていればいつか会えるとも思っておりました。 ところが、昨日亡くなったという報せを聞き、もう会えないと思うと心が乱れてどうして良いのか分からなくなります。 泣いて心を落ち着かせようとしましたが、体の底から泣くことができません。 どうすれば昔の恋人の安らかな眠りをお祈りする心になれますか、お導き下さい。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。 仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。 そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。 そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか? そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか? もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう? 私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
俗な質問で恐縮ですm(__)m 母の戒名を付ける時、お坊さんに「80〜120」と言われました。 一番リーズナブルな信女で、です。 思わず「単位は何ですか?」と、聞いたくらいです(^^ゞ汗 万と言われ、思わず、えーーー!?と声を出してしまいました、、 無職なので、少しまけていただきましたが、生活保護の方にも20は出していただいてますと言われました、、 生活保護の原資は税金なのにそれも如何なものか?と、思ってしまいました┐(´д`)┌ 枕経、通夜、葬儀、火葬、埋骨時にもいちいち3〜5万包んでくださいと、葬儀屋さんに言われ、定期預金を解約し、払い続けました、、 (お寺さんから紹介された葬儀屋さんなのでグルですねw) あと、母が亡くなった夜、安置していただいたお寺の部屋代は5万円でした。 以上、普通の事ですか? 戒名の相場はこんなに高いのですか?? 差し支えない範囲で回答いただけたら参考になります。 毎年高い維持費を取られるし、離檀したいけど、離檀料も何百万円とか一千万とか言われそうで怖いです(笑)
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
数日前、私の一番の宝物だった愛犬(プードル)が亡くなってしまいました。まだ5歳でした。 死因は、父の運転する車にひかれてしまったことです。決してわざとではなく、単純な確認ミスでした。 そして母はその一部始終を見てしまいました。プードルちゃんの小さい体が車の下敷きになる直前の表情からその体が下敷きになって、やがて冷たくなっていくまで、ずっと。 私はその時現場におらず、一報を聞いて急いで帰宅し、遺体を見て触れ、その事実を知りました。 私を虚無感と深い悲しみが襲いましたが、その事実を知り、両親の苦しみを思うと気持ちはさらに混乱しました。 私は少し憤っているのかもしれませんし、自分がその現場にいれば違っていたかもという後悔もあります。 しかし自分より苦しみが深いであろう両親には絶対に気持ちは言えませんし、両親の苦しみがあまりにも深いため、自分が満足に心ゆくまで悲しむことが出来ずにいるような気もするのです。 両親は自分たちが殺してしまったのだとずっと苦しんでおり、その苦しみは計り知れません。 大きな後悔と深い悲しみと少しの憤り、これらを私はどうしたら良いのでしょうか。 そして、なにをしてあげたら亡き愛犬の魂は楽に、幸せになるのでしょうか。 皆さま、教えてください。 よろしくお願い申し上げます。