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検索結果: 5419件
2021/07/07

餓鬼を見ているようで

東京はお盆を迎えます。親族についてご相談させてください。詳細には書けませんが、かなり困った人です。 過去には、父母の相続について「やり方がわからない」等と言って放置し、弟と分けもせず、父母名義で送付される株式の配当金や優待券等を自分のものにしていました。次の相続が発生し、私とのやり取りとなりましたが、金融機関に「自分が全て相続することになった」と嘘を伝えて書類を作成した上、私には全く違う説明をしたり、必要な書類は送ってこないなど非協力的でした。 葬儀前から家で金目のものを探すなどする割に、入院費や葬儀費用はこちらに督促の連絡がきていました。法事に関しても、自分が施主となるものは行いませんし、参加もしません。今回も、相続に関する費用の支払いは後回しにされています。法事、各種支払いについては、仕事等を理由にしていますが、休みを取って遊んでいます。 逆に不思議なことに、本来受け取るべきものを受け取れる時には、些細なことで文句をつけたり、面倒がったりします。 金銭欲と自己保身のために、分けるべきものを分けなかったり、嘘をついたりといった状況を重ねてきたということだと思います。さらに、億を超える財産を受け取ったのに、もらえるもの、支払うものが気になるようで、既に終わっているものを調べたりしています。 周囲からは、そこまで面倒を見る必要はないと言われますし、私もそろそろ 精神的に限界です。 お盆にあたり、餓鬼事経などを読んでいると、この人について考えさせられます。お経では餓鬼が供養を求め、お釈迦様が供養の方法を弟子に教え、尊者や徳のある人々がそれに応え、功徳を廻向し、餓鬼が救われます。 仏教における施餓鬼供養や、現実でも不幸な境遇の人に寄付等で手を差し伸べることはまだ楽にできますが、このような人が身近にいる時にはどうしたらいいのでしょうか? 仏教の中で教えがあれば、また、お坊さまの意見があれば教えてください。

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突然死した魂の声

初めて投稿致します。 先月、職場での暴言・いじめに加え過労の挙句主人が 突然死しました。 医師が判断した死因は「心筋梗塞(虚血性心疾患)」でした。 朝6時半に家を出て帰りは午前様。 月~金の勤務に、土曜日出勤も加わり更に酷いと日曜日も 仕事をしていました。 仕事のミスはお前が悪いと罵倒される。 自分が手を動かすのではなく若手を使えと言われていましたが、 実際はその上司は若手全員をつれて毎晩飲みに 連れ歩いていたそうです。主人が指示を出そうとしても、 会議から戻れば職場に人はおらず、仕事のミスの責任だけ 押し付けられ長時間労働を強いられていました。 完全なパワハラで、罵倒・暴言が毎日数か月続き 私の想像を絶する精神的ストレスを抱えていたと想像しております。 亡くなる前日は25時半に就寝、4時半に起床。 睡眠時間3-4時間程度で出社しました。 当日の夜は送別会でした。 少し顔だしたら帰るよ、とメールがありましたが 恒常的な睡眠不足と過労のため少量のお酒で帰宅出来なくなり、 会社の寮に泊まった翌日に帰らぬ人となってしまいました。 主人の手帳には4月の予定が書きこまれており、主人の誕生日や 旅行へ行こうという約束もありました。 亡くなってしまうとは本人も思っていなかったと思っております。 数か月間、働き過ぎて肉体の限界が分からなくなるまで 精神的に追い込まれ挙句の果てに突然死してしまった主人の魂は、 どうしているのか知る方法はないのでしょうか。 毎日遺影に話しかけていますが気が狂いそうです。 数回夢に現れました。 昨日の夢は、過去に戻り(これから亡くなる事は言えないけど) 体が心配だから検査入院して!とお願いしたら 本人は「痛いじゃーん、怖いじゃーん」と笑顔で回答していました。 結婚してから単身赴任が2年以上続き、やっと自宅から 通える職場で新婚同様でした。 葬儀は済ませておりますが、まだ納骨もしていませんし 戒名もついておりません。本籍地で葬式を行う予定です。 主人と会話する事は出来ないと思いますが、 遺影に話しかけてる事や私の想いは通じるのでしょうか。 生きる意味すら分からなくなりそうです。 何かアドバイスがありましたら、お願い致します。

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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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