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hasunoha 問答検索結果 : 「私 宗派 」
検索結果: 2538件

お坊様方、改めて教えに向き合ってみませんか?

報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌

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自分の進むべき道

長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

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生前の仏教の触れ具合は死後の「ハンデ」になる?

まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?

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仏教の教義の違い について 

私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。    キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。    日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?

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2023/01/11

戒を授かることについて

お世話になります。 私の実家(祖父母)は、父方・母方ともに西本願寺派の檀家ですが、父母の代から別に家を構え、私自身も結婚して独立し、父母の家・私の家ともに仏壇はなく、檀那寺との付き合いもありません。 今後、父母逝去の際にどうするかという問題もあるのですが、今回ご相談したいのは、私自身の授戒についてです。 生前に戒を授かることはとても尊いことと聞き、死後授かるよりも素晴らしく、破戒があっても、輪廻の果てに必ずや解脱に導くと聞いたことがあります。 仏弟子となりたいという思いのほか、子どもをもうけるつもりがないため、死後の葬送が不明瞭ということもあり、生きているうちに戒を授かりたいと考えているのですが、どのように手続きしてよいか分かりません。 高野山、善光寺では授戒会をしているときがあるとか、本願寺ではお剃刀があるという断片的な情報しか知り得ないのですが、 1 授戒とお剃刀は仏弟子になるという意味で同様のものですか?(浄土真宗には戒がないのでお剃刀とは聞いています。) 2 授戒と戒名の授与は別なのでしょうか? 3 どのように授戒やお剃刀にアクセスすればよいでしょうか?(いきなり近隣の お寺に行って、「授戒してください。」でOKなのか?) 4 複数のお寺で、何回も授戒を受けてもよいのでしょうか?その場合戒名は複数持てることになるのでしょうか? 5 生前戒名を授かっていた場合、授戒したお寺さん以外で死後、葬儀や法要をしてくれない場合もあると聞いたのですが、肌感覚としていかがでしょうか? 6 また、祖父母の檀那寺を含め、もし授戒をしてくれるお寺様と巡り合えた場合、その授戒・戒名(又は法名)を持ちながら、他宗派の信仰や勤行をしても差し支えないものなのでしょうか?(例えば、檀那寺又は檀那寺経由で浄土真宗の法名をもらいながら、一方で、他宗派の信仰や勤行をする等) 以上、とりとめのない質問で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

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仏壇を前にしての悩み

これから軽め・重め問わず、色々な事を質問していきたいので、どうぞよろしくお願いします。 私はぶっちゃけ寺というTV番組を、深夜枠のときから見だして、仏教や寺との付き合いに興味を持ちました。 その影響でリビングにある仏壇の前に、ちょくちょく気が向いたとき、座るようになりました。 しかし、私の家は日蓮宗ですが、いざ仏壇を前にすると、いろいろ悩みがあります。 1,正しい作法を知らない。  お鈴の仕方。  南無妙法蓮華経は何回?  他に仏壇で唱えるべきお経。  その順番など。 2,日蓮宗では南無妙法蓮華経と唱えましょうと言っているが、意味も分からず唱えることに疑問。  本のタイトルを唱えて、本の内容は知らないのは滑稽さを感じる(法華経が、今を生きることの大切さを説いている、というのは何となく知っている) 3,家族はこういうことに無頓着、皆がテレビ見ている中、仏壇の前に座って南無妙法蓮華経と唱えると、かなり恥ずかしい気持ちになる。  20代一般人の自分が、仮に熱心に仏壇でお勤めしていたら、ちょっとヤバイ奴だと思う。自分でも友達にそういう人がいたらヤバイと思う。 など、単なる疑問や、体裁に関しての悩みが多いです。 最初は、勝手がわからずに南無妙法蓮華経と、唱えてました。 ですが今では恥ずかしさや、よくわからないまま南無妙法蓮華経と唱えることに、モヤモヤした気分になることから、一人の時に、線香一本上げて、チーンして、手をさっと合わせて、逃げるように後にして終わりです。 仏教をヤバイ宗教とは思わないですが、一般人が、特に若い人が、少しでも宗教に熱心だと、ヤバイ奴とみなされる日本社会の影響だと思います。 信者という言葉自体が、現代では負のイメージですし。 どうすればいいのか、どう考えたらいいのか。 まとまりのない質問文ですが、宜しければお答えよろしくお願いします。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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お寺とお坊さんについて教えて下さい

お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。

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思うだけでも罪になる

私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。

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位牌、仏壇について

はじめまして。 先日、大好きだった祖母が亡くなりました。葬儀、供養も終わり悲しいけれど、また家族それぞれの生活が始まったところです。 質問は、祖父母の位牌についてです。 私の母は一人っ子で、今の父(代々長男で継いでいる家)に嫁いできました。 もちろん、今母が住んでいる家には父方先祖代々の仏壇があります。 祖母よりも先に祖父は他界していますが、祖父母は生前から、嫁いでいった母がお墓のお世話に苦労しないようお寺さんの共同墓地を購入しており、祖父が先に他界した後は、祖母が自宅で遺影、位牌とともに祖父の供養するための仏壇になるようなスペースをつくり、供養してきました。(母のことを考えてなのだと思いますが祖父が他界した時に仏壇自体は購入していませんでした。) 祖母も他界したため、近々、祖父母の自宅は取り壊す予定らしく、祖父母の位牌、遺影などをどうするのかまだ聞いていないのですが、母のように嫁いだ先にお仏壇がある場合、両家の位牌や遺影を同じ家に置き、供養してもいいのでしょうか。(両家ともに仏教ですがお寺は違います。確か宗派も。) もし母の現在の家では無理ならば祖父母の位牌を預かりたいですが、私も父の姓を継ぎ、夫に婿として来てもらっている立場なので、それがいいのかわからず質問させていただきました。(両親とは近所ですが自宅は別です。) よろしくお願いします。

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仏さまにお話を聞いていただく作法

いつも回答されているお坊さま方、お疲れさまでございます。 私もぜひお答えをいただきたいことがありご質問しました。 どうぞよろしくお願いいたします。 私は今、転職・結婚・引っ越しと人生の転機が重なっています。 周りの人の助けもあって想像していたよりも大変ではないのですが、そのなかでもやはり一人で抱えきれない思いというのがあります。 そんなとき私はいつも主人や友達やカウンセラーの方に話を聞いてもらっていたのですが、仏教関連の本を読んでいたところ「話したいことがあれば仏さまに聞いていただけばよい」というような記述を見かけ、とても興味を持ちました。 というのも、誰か他の人に話を聞いてもらうとその人を拘束するようで心苦しいですし、自分のほしい反応が返って来ないとその人を恨んでしまうなど余計なことをしてしまって良くないと思うからです。 そこで質問なのですが、仏さまに話を聞いていただくときの作法のようなものはありますか? 私は今はとりあえず合掌して「仏さま、私の話を聞いてください。(話し終えたら)聞いていただいてありがとうございました」というふうにしていますが、それで良いでしょうか? 仏さまは慈愛溢れる存在なのでこんな細かなことで怒ったりはなさらないと思うのですが、どうせやるなら作法に適った方法を取りたいと思いました。 なにかご真言を唱えるとか、お経を唱えるとか、挨拶のようなものがありますか? ちなみに私は一応仏教徒ですが、母方は浄土宗、父方は真言宗、夫の実家は不明という感じで宗派がよくわからず、家に仏壇もありません。 どうぞご指導くださいますようお願いいたします。

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法要の際に法話をしていただけない

主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。

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