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問答一覧

回答は、各僧侶の個人的な意見のため公共性を帯びたものではなく、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
検索結果: 294件
2016/02/15

修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 76
回答数回答 4
2018/12/23

お任せ

私の知っている仏法の極意に全てを仏にお任せする、と言うものがあります。明日どうなるんだろうとか、自分の力が足りるだろうかとか、あの人に攻撃されたらどうしようとか色々不安はあります。 しかしあれこれ考えても物事はなるようにしかなりません。それも自分の努力の結果と言うより自然界に働く自然の力のようなもので決まります。これを仏教では他力と言うんでしょうね。 何の不安もなくお任せの境地になれたらそれは安心でしょうが中々そうはいきません。ああしたらとかこうしたらとか怖れにさいなまれるのが凡夫です。 さてそういう凡夫の私でも一日を送るうえで午前中はあれこれ心配でも午後、夕方、夜になるにつれ諦めの境地になりまあ明日も何とかなるだろうと無理やりお任せになります。 実際私のできることは小さくて大きな自然の流れに流されて生きているからお任せと言うより諦めに近い境地で生きています。お任せの境地になるにはどう修行したらよいでしょう。 今のところ座禅が趣味ですが以前伺ったところでは仏教ではいろんな修行法があって私にあったものがあるようなことを聞きました。座禅は一生続けるつもりですが座禅以外でも御教授下さればうれしいです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

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