こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。
おかげさまで、出家を発心いたしました。特に(未だ道行浅く恐縮ですが)臨済宗に最も共鳴しており、同宗寺院での出家を希望しています。 諸行無常の中、この一念と一時を大事にし、怠ることなく具体的に動き出したいと思っていますが、いわゆる「在家」であり、どこかの檀家でもないため、稚拙な所からになりますが、以下質問に関してお知恵を頂戴できますと幸甚です。 1.どのようなきっかけから師僧と結縁できるのでしょうか?どう出家の決意を示せばいいでしょうか?(不定期で座禅会に参加させていただいているお寺がありますが、咄嗟にお話ししても相手にしていただけるものなのか不安です。また、生涯をかけて追随する師匠なので、より多くの方にお目にかかって吟味すべきではないかと浅はかながら考えておりますが、いきなり「出家したいですが」と門戸を叩くものでもないと思い。) 2.恥ずかしいお話ですが、かなり大きい刺青を入れており(いわゆる反社会勢力とは、無始より関わっておりませんが)、もはや出家とは無縁なのか、一縷ののぞみでも受け入れでくださる師匠と道場があるものなのでしょうか?(過去の業の当然の結果として多くで拒絶されることは覚悟しており、それにめげずに求道することこそ修行と信じていますが、一方で皆具仏性を信じ、衆生平等の救済を追求する大乗仏教であれば必ずご縁があることと願って止みません) 一方的な長文で大変恐縮ですが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします。
私の問題は統合失調症からくる被害妄想です。道を歩いていて自転車に追い抜かれるだけでかっとなります。自身のこの問題。自分をしっかり持たねばとは思いますがかなりのストレスです。 座禅が趣味なのですが車が目の前でUターンしてもストレスを感じま す。座禅をすれば肚が据わるとも言いますがなかなか禅定には入れません。 よく柳の枝にに雪折れなしといいますが柳の枝みたいに柔らかい心を持てません。ストレスを感じてもなにくそと思って頑張っています。どうしたらストレッサーに打ち勝つことができるのでしょうか。 人生って力技なんでしょうか。もっと優しく生きたいです。病気がら薬の服薬からくるものもあるのでしょうが人や自分に優しくなりたいです。
初めて質問させていただきます。 私は、昨年より都内の座禅会に参加しています。 その座禅会で初回に作法などを説明してくださった和尚さんは、とても所作が綺麗であり、またお唱えするお経が美しく心に染み渡る感じがします。 特に、親切にされた訳でもないのですが、とても気になり(少し恋愛感情があるのかもしれません)、お話してみたいと思っていますが、座禅会の時はとても忙しい様子(準備やかたずけ)で、話かけることができません。また、どのように話かけたら良いのかも分かりません(自己紹介などからすればいいのでしょうか?)。 普段は、座禅会が行われているお寺ではなく、本山にいらっしゃるようです。 失礼なく、どんな方なのか知りたいと思っています。 また、お釈迦様のことなど仏道に関することを教えて欲しいと思っています。 とても幼稚な質問で申しわけないのですが、ご助言いただければ幸いです。よろしくお願い致します。
スマナサーラ長老さんが、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想を推奨していらっしゃる文章を目にしたのですが、 臨済宗の座禅(数息観)は、サマタ瞑想に入りますか? 1日のうち、臨済宗式での座禅も10分くらいして、スマナサーラ長老さん式の実況瞑想を別途1時間。 (連続ではなく、一日のうちで、別の機会をもうけて。) そんな感じで実践してOKでしょうか? それとも、ミックスせずに、長老さんオススメ方式でいくなら、臨済宗の座禅はやめてしまって、実況瞑想(ヴィパッサナー瞑想)オンリーでいったほうが良いでしょうか?
母親が亡くなってもうすぐ1年になります。 未だに毎日のように母の事を思い出して辛いです。 母親とはずっと前から関係がよくありませんでした。 なので良いことばかりではなく 嫌だったこと、辛かったことを思い出したかと思えば、母も生きづらく辛かったろう寂しかったろうと後悔の念が巡って涙が流れたりと、ずっと複雑な気持ちで考えが堂々巡りして頭がおかしくなりそうです。 よく、忘れる必要はないとか、思い出すことが供養とかと言われますが、思い出さないといけませんか? 思い出したくないのです。 宗教には詳しくないのですが、うちは禅宗という宗派です。 禅宗とは座禅を主にする。という宗派? のようなのですが、 座禅=心を無にする=座禅の間は亡くなった人の事への思いを無にしてしまうことが供養になりますか? 思い出してしまいそうになったら心を無にしても良いですか?
漠然とですが20代の頃から、いつかはどこかの宗教の信者になって、それを心のよりどころ、自分の手本にして生きていきたいと思ってました。 そして去年、座禅を知りとその流れで曹洞宗を知りました。座禅を知ったと言っても座禅会などに参加したわけではなく、ただ、座禅に出会った程度のものなのですが、ちょうど悩んでた時期と重なり、座禅、道元禅師の言葉がその時の自分の心にすっと入って心が楽になった気がします。 私の家は分家で、宗派は浄土真宗らしいのですが、母親にそのことを伝え相談したところ、自分の好きな、信じることのできる宗派に入ればいいと言ってもらえました。 そこで神様も仏様も何もかも知らない私が曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう? どうすれば信者になれるのでしょうか? また、こんな気持ちで宗教を決めてしまって、いいものなのでしょうか? この質問で浄土真宗から、曹洞宗に変えたいと言ってますが、決して浄土真宗をバカにしているわけではなく、ただ、その時の私に曹洞宗がすっと入ってきたような気がするだけです。 よろしくお願いします。
いつも お世話になります。 私は今日一日 行きつけのお寺で座禅を組んだのですが お坊さんからなるべく何も考えないように言われたので 何も考えないように頑張ってみたのですが、雑念だらけでどうしても 無 になれなかったので 諦めかけた時 昔 母から 楽しいことだけ考えて生きよう と言われたことを思い出して これだ!と思いました。 これが 答えだ! って思いました。 これは ある意味では 悟りに準じているのでしょうか?
最近もう一年浪人してしまうのではないかと思うことがあります。それはそれで気持ちが強いと言えることになるかもしれませんが、私の場合今年しかありません。 そして、目指しているところも高いです。他のことは視界に入らないくらいの没頭感がもっといると思います。座禅にはいきました。どうかお言葉をください。
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
出家したいです。 わがままですが、曹洞宗か天台宗のどちらかで・・・ 駒澤大学を卒業すれば僧侶になれる、と思っていたのですがそんな甘くないみたいですね。 そこで知恵をお借りしたいのですが どういう手順を踏めばいいのでしょうか? 住職になるつもりはなく、また夜勤でもして食ってく覚悟はあります。 PS 座禅会とか参加したいんですが、僧侶になるため、の下心モロ見えだと思います・・・ 皆様はこういう奴が来たらどう思いますか?
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
hasunohaの僧侶の皆様方、こちらで幾度か質問させていただいておりまするると申します。 プロフィールに記載しておりますように、私はうつ病再発予防のために現在も服薬を続けております。 治療を続ける中で自分の心の問題を薬に頼り切りにせず、自身で調和が保てるようになりたいと思い坐禅を始めました。 坐禅の習慣を続けていくにつれて以前より確実にパニックや不安に陥る頻度が減り、日々を落ち着いて過ごせるようになりました。 また坐禅をしている際に、自らの内に湧いた雑念を冷静に見つめてその雑念から離れる瞬間を幾度か体験し、とても安らかな気持ちになれました。 そして、道元禅師の「ただ坐禅に打ち込む姿にこそ仏がある」という教えを、ほんの片鱗ですが理解できるようになりました。 ただ私は過去の質問で相談いたしましたが、何があっても我が身を救ってくださる阿弥陀様の教えも信条の根っこに抱いており、阿弥陀様の優しさが好きです。 坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか。 逆に、阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか。
自分は現在 自律神経失調症、パニック障害、強迫性障害です。 一喜一憂し過ぎてしまうことの方が多いです。 なので座禅会に参加したり写経したり神社お寺巡りを趣味にしてます。 日常生活は同じような精神疾患を罹患してる人達が集まる地域活動支援センターに週3回行ってます。 こんな僕でも一喜一憂し過ぎないようになれますか?
座禅の心構え、姿勢、やり方を教えていただけないでしょうか?宗派によってかわるのでしょうか? また、座禅の最終目的は悟りを開くことなのでしょうか?
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
はじめまして、3年前から個人農家をしています。実家にいて繁忙期には、父と母も手伝ってもらっています。。 キュウリとネギを作っているのですが、キュウリが病気がついてしまって、思うように作物をつくれなくて、ですが、自分の中では来年頑張ればいいと思っていたのですが、だんだんと仕事のやる気が起きなくなってしまって 精神科に行きましたら、薬を処方していただき、しばらく仕事のことを考えずにゆっくりと過ごしてはどうですか?と言われたのですが、家にいても仕事のことが頭から離れないし、今は両親が畑のほうをやってもらっていて、申し訳ない気持ちが頭から離れなくて、 働きたい気持ちはあるのですが、なかなか動けない自分が情けなくて 色々な本とか気持ちが楽になる音楽とかを聴くようにしているのですがかわらなくて、 相談なんですが、少しだけ今は元気が出たんですが、まだまだ働けなくて、 前からやってみたいことがありまして、座禅をしてみたくて、ですがその一歩がなかなかでなくて、できれば泊りで気持ちを楽にしてみたいです、 鬱でも受け入れてもらえるのでしょうか? よろしくお願いします。
来春、専門学校を卒業します。 就職活動にあたり、なかなか希望するものを見つけられないでいます。 (賄い料理を作る) 将来は、座禅、瞑想を学んで→人の役に立つことをする(料理を作れるので、これもなにか役にたてれば) 座禅や、瞑想を実施しているお寺で仕事ができれば勉強できていいなと思うのですが、インターネットで探したお寺の求人は宿坊(すごく忙しそうな)しか出てこず、少しやりたいことと違うと思いました。 そこで、興味のあるお寺に直接電話して求人はあるのか、座禅の勉強はできますか?聞いてみるしかないかな?思うのですが、迷惑でしょうか? ちなみにとくどはしていない一般人です。難しいでしょうか…?
人生相談ではなくて申し訳ありません。 お許し頂ければ、ぜひお伺いしたいのですが、お勤め以外の時間はどのように過ごされていますか? 何か趣味があったりするのでしょうか。 それとも、やはり仏教を研究していたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、してるのでしょうか。 ちなみに、私は写真が好きなので、時間が出来るとあちこちのお寺へ行き、写真を撮らせてもらっています(´∀`*)
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。