最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
嫁ぎ先は浄土真宗大谷派です。 義父が大腸がんになり生死を彷徨ってから、私が朝のお勤めをさせて頂いています。 お仏壇に日々の感謝と、義父が少しても元気にすごせるようにお願いしています。 ある方から、お仏壇にお願いをしてはいけないと聞きました。 実家の母が(曹洞宗)お仏壇に皆の無事をお願いしていたので良い事だと思っていました。 実際はどうなんでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします。
できれば全ての宗派のお坊さんに聞きたいのですが、仏教ではどんな人が地獄に落ちるとかんがえられているのでしょうか? 以前の質問を見ていただきたいのですが、私は自転車で危険な運転をしたり、父を突き倒したりしたわけで、その時「相手が死んでしまってもいいや」と考えていたかもしれないわけですから、自分のことを人殺しかもしれないと思っています。 そんな私はやはり地獄行きなのでしょうか? また、地獄へ行くのを回避するにはどんなことをすれば良いのでしょうか?
いつもお世話になっております。 大変に唐突な質問でございますが、 仏教の世界では、障害者、無職者はまさに「障害」、「邪なる存在」なのでしょうか? * 以前にご質問した「お寺」での非礼行為に対する苦情を申し上げたのですが、依然、一部の職員さん(お坊さんは改心してくださった模様)が、いわゆる「客を見る」ような態度で接してきます。 他の寺務さんやお坊さんたちは普通なのに、その人たちの所作を見ると、「あぁ、もしかして本当は…」 と疑心暗鬼に陥ってしまいます。お護摩の時の願意の唱和?で、 「一心祈願、就職成就~!!」 と言われたり、祈祷後の短いお話も、嫌味にしか聞こえなくなるときがあります(苦情を述べる前に、私が書いた絵馬の内容を軽く引き合いに出された事がある) ちなみに宗派は新義真言宗です(「もしも」が恐いので、詳しい宗派はあえて書きません) * 私は発達障害を持っており、その影響の為か、時折ズレた行動に出てしまいます。それでも周囲に迷惑をかけないように心がけており、 就労支援にも通っているし、手帳の取得も考えています。 なので余計悲しいです。 素敵なご縁、素晴らしい教えのおかげで私自身の生活にも光が差し始め、祈りと感謝の喜びを噛み締めている所なのに…… 真実をお教えください、よろしくお願いを申し上げます。
三礼のやり方はいろいろあって、各宗派で、唱える言葉がちがうようですが、浄土宗・真言宗・天台宗では、それぞれ言葉のどのタイミングで頭をつけたり立ち上がったり(どこの言葉でどう動いているのか)しているのですか?座るときに先にひざまずく足など、決まっているのですか? また、それぞれの意味の違いはありますか?
お世話になります。 今回は、実家の父の17回忌法事のことで相談させてください。 父は次男で、郷里から離れて家庭を持ちました。 そのためお付き合いのある寺はなく、父が亡くなった際、葬儀会社の紹介で急遽、お寺を紹介してもらいました。 初対面のお坊さんに父の戒名をお願いしたのですが、父に所縁のある漢字も使用されず、生前の人柄なども尋ねられることもなく、ただ事務的に考えて下さった印象を持ちました。 〇〇院、と父方親戚にはつけられているためそれだけを頼むと、割増料金?のような請求があったと記憶します。 その後、法事の度に実家へ来て頂きましたが、愛想のかけらもなく、ただお経をあげられて支払いを済ませると、矢のように帰られます。 会話も殆どなく冷たい対応しかないため、すっかり私たちも信頼する気持ちが薄れてしまい、今度の法事では呼ばない、と母が言い出しました。 そして、お坊さんなしで自分たちで読経して17回忌を済ませよう、と言うのです。 私が、他にお寺を探してお願いしよう。と提案しても聞いてもらえなく、兄姉も母に賛成のようです。 父に申し訳ないようで、とても気になります。 家族だけで法事するなら、せめて私だけでも何かできないかと思いますが、アドバイスいただけますか? 宗派は、浄土真宗の"お東さん"らしいです。
はじめまして。 最近、身近(とはいえ、職場で会ったら挨拶する程度)な方が急逝しました。年上の先輩ではありますが、まだ若い方でした。 数年前に私が入社した直後に少しお話したりした他は、滅多に交流はありませんでした。 それでもその方が亡くなったと知った時、状況的に感づいていたので驚きはしませんでしたが、すごく悲痛な感情が込み上げてきたのを今でも覚えています。 今は少し落ち着いていますが、それでも元気になったかと思えば、その方を突然思い出して急激に落ち込んだりと情緒不安定になっています。 しかし、実はその方が自分が死んだことに気づいておらず今も仕事していて、見える人には見えるという噂を耳にしました。 真偽は不明ですが、霊でもそこにいるなら最後に挨拶したいとさえ思っています。 ただ、前述しました通り、それほどその方とは交流はなかったのです。 もう少しお話したかった等、多少の悔いはありますが…… たしかに、身近な死を感じた経験が十五年以上なかった私には、若い人の突然の訃報はあまりに衝撃的でした。 でも、ここまで気持ちを引きずるだろうか?こんな私はショックでおかしくなっているのだろうか?とも自分で疑問に思っていると同時に、自己肯定感が元から低いのもあって気持ち悪く感じています。 前置きが長くなりましたが、 私がご意見を伺いたいと思っていることは、以下の通りです。 ・生前それほど交流はなかった方が亡くなり、ずっと気持ちを引きずっている私はおかしいのでしょうか?(どこかで自分はおかしい気持ち悪いと思っている私がいます) ・その方の霊が出ているという話がありましたが、四十九日を過ぎたらその方は成仏できるのでしょうか? ・その方の霊が出るといわれる場所に挨拶に行っても大丈夫だと思いますか?(私には霊感がないので、そこにいたとしてもわからないと思いますが……) ・その方の宗派がわからないのですが、成仏できるようお祈りするにはどうしたらよろしいのでしょうか? ・その他、死から立ち直る方法や、何かその方にできることがあればお聞きしたいです。 長々と申し訳ありませんでした。 死に関することなので軽々と相談できず、ここを頼らせて頂いた次第です。 無知な私にご教示・またはご意見を頂けますと幸甚に存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
私が得度を希望する本山に問い合わせると、「必ずどこかの寺に所属していないといけない」と言われました。 現在、私の家は先祖代々真言宗醍醐派です。宗教宗派という観点から見ると、いま私が得度したいと思っているのは浄土真宗なので、「宗派違い」「宗旨違い」「手続き違い」になってしまいます。親戚の檀那寺におられる浄土真宗西本願寺派のお寺さんとも知り合いで、よく仏教の話をし合ったり、参拝に行ったりしています。ただ、私は、浄土真宗大谷派(東本願寺派)での得度を第一希望にしています。真宗大谷派の寺院の方はほとんど存じ上げないので、寺院を直接訪問し、信徒になってその寺院の所属として本山で得度したいのですが、そのようなことは可能でしょうか? それに似た前例はあるでしょうか? 私は、この40年間、念仏メイン、阿弥陀様一心で信心してきたので、その信仰を深め、得度し、衆生教化したいのです。 「憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する……」と、憲法では「信教の自由」は完全に保証されています。この憲法の大原則から見れば、「宗旨違い」でも何ら問題はないと思うのですが……。 適切で具体的なアドバイスをお願い申し上げます。
ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?
お忙しい中、私達の悩みに真剣に答えてくださり、ありがとうございます。 今回は私の仲良しの友達の事でききたいことがあります。 友達のお父さんが去年亡くなって、葬儀の際、里のお寺は離れてるため近くのお寺の和尚様で宗派は違うけれど、お経をあげてくださる方に頼んだそうです。 今年の初盆は、和尚様を呼ぶこともなく お経もあげなかった。そうです。 友達は 気にしてましたが、お母さんが全くの無信心だそうです。 亡くなった方にお経をあげる事はどのような意味があるのでしょうか? また、全くの無信心でも何の障りもなく、幸せに暮らし、とても前向きなお母さんです。 私の育てられた環境からだと、仏様を大事にしないと何か悪い事がある!みたいな感じなので… 僧侶の方の考えを伺いたく質問させて頂きました。
戒名についてお伺いします。 戒名に 偶然 故人が生前信頼していた方の名前の一文字がはいっていました。 光という文字です。 光という文字は戒名でよく使われるのでしょうか?宗派は浄土宗です。 また人は死に際のあり方や時期など選べるのでしょうか。 亡くなり方があまりにも 周りを気遣っていたような最期でした。 またお彼岸の数日前の旅立ちでしたが、あの世までの距離は近くなっていたのでしょうか。
当家は香川県の本籍ですが、祖父母の定住が岡山県だったので、岡山県にある高野山真言宗のお寺様に当家代々のお墓を建てたそうです。 先般私の父が突然の急逝を致しました。 お墓を建てた時のご住職にも意向を伝えて建てたらしく、納骨は父兄弟間のその当時の約束事と、親類一同の勧めもあり、このお墓に納骨する事になっていました。 父からももしもの時は、お寺様に納骨だけしてほしいとは言われてました。 本来はこのお寺様で法要一式を行うのが本筋かもしれませんが、 両親は大阪在住であり、お恥ずかしながら葬儀の必要費用もない状況でもあり、私は愛知県在住、母が寝たきり、父の近親者も東京千葉と遠方で、お体の具合も良くなく、医師から遠出は無理との診断と言うこともあり、大阪で同じ宗派のお坊様を手配して、大阪で私と関西在住の親類で家族葬の葬儀をしました。 この度49日を迎えるので、葬儀に来ていただいた大阪にあるお坊様の寺院で法要を行った後、納骨の段取りをする予定でした。 49日を迎えるにあたり、岡山のお寺様に経緯を伝えた ところ、葬儀の時点で事前にご相談してなかったからかもしれませんが、納骨に際してお断りをされそうな感じです。 その様な事は普通にあるのでしょうか。 岡山在住の父の兄弟が他の兄弟に代わってお寺様とは檀家としてお付き合いしていただいてました。 親族一同、今の時代にそんな事を言われてもと言う感じです。 岡山のお寺様に快く納骨法要をあげていただくためのやるべき事はございますでしょうか。
先日は質問に対しての丁寧な回答をありがとうございます。 今回は写経について質問させて下さい。 私は時々ですが、自宅で写経をしています。 ホントは毎日やりたいのですが、 なかなか時間が………💧 で、この写経を何処かで奉納させていただこうか……と思い、昨日の京都旅行に持って行ったのですが、聞くに聞けずにそのまま持って帰って来てしまいました。 そこで質問です。 自宅で写経したものを、どうすれば奉納出来るのでしょうか。 直接行くのはもちろんですが、郵送でも出来ると聞いた事があります。 もちろんお寺の宗派や、あと、御布施?御心付?が必要かと思います。 お手数おかけしますが、 教えてください。
悪いことが自分や他人の身に起こった時、それぞれの宗派ではそれをどうとらえますか? 僕は、犯罪や事故のニュースを見ると被害にあわれた方がどんなに辛かったか想像して悲しくなってしまいます。 また、悪いことが起こるのは前世から今までに悪いことをしたからだと言う人があったんですが、 これは仏教の教えとは違うものですか?
先日こちらで質問させていただき、又ご回答いただきましてその際は本当にありがとうございました。度々になりますが、またご相談させて下さい。 母の同僚の方より、弟にお線香をあげさせてほしいと言われています。ありがたいのですが、私達家族はまだ心の整理もつかず、又その方は弟と直接面識のない方なのでお気持ちだけ頂戴します、とお断りしているのですが何回も言ってこられ中々理解していただけません。 昔から家族ぐるみでお付き合いのある別の同僚の方からも同じようにお話しして頂いたのですが、直接家に行ったら上げざるを得ないのだから、本人(母)にわざわざ言わないで、と返されたそうです。 弟の友人、葬儀に来られなかった身内の者には、事情を説明し四十九日の後で…お願いすると皆さん理解して下さいました。 先日、再度お線香をあげさせてほしい、母を励ましたい、と仰られたので、それなら食事の場を設けてもらった方が嬉しいとお願いした所、前出の別の同僚の方に母の休みの日に直接家に行こうと言われましたが、何とか食事会へと誘導してもらえました。その場で直接母にお線香すらあげさせてもらえへんのね!と言われたようです。お気持ちはありがたいのですが、お断りするのはそんなにも非常識なことでしょうか。 別用で自宅へたまたま来られた方がお線香をあげていただくのは構いません。歪んだ解釈かもしれませんが、何だか執着されているように思ってしまいます。 又、私の同僚は我が家の浄土真宗でのやり方を否定してきます。 例を挙げるなら、お坊さまがお線香や仏飯は遺された者に無理のない範囲でして下さい。気持ちが大事です、と仰られた事に対してそれは間違ってる、それでは供養にならない、手間かけないで成仏できるの?等です。以前も祖父の葬儀やお盆の質問に答えると、浄土真宗物知らずって昔の人は言うからな、と言われました。その方々の宗派は伏せますが、同じ地域の田舎の方です。お二人共悪意はないと思います。 家庭、地域、宗派で其々考え方や習慣が違うのは理解していますが、そんなに責められることでしょうか。私は恥ずかしながら疎いせいもあるかもしれませんが、違いはあれどもどの宗派も誤っているとは思いません。 今は出来るなら静かに悲しませてほしいです。 弟を思う皆が辛い気持ちですが、やはり両親は更に辛いと思います。そんな母に必要外の心の負担を負ってほしくないです
この前、祖母が亡くなりました。 ハッキリとした性格で誰に対しても大きな愛を持つ優しい祖母でした。 祖母と私はトイレに行くときまで手を繋いで一緒に行くほど、ずっと一緒で仲良しでした。 私は大学受験で去年と今年は全然会えず、祖母の大好きな旅行はもちろん家に遊びにも行けなかったので、せめてと思い祖母の誕生日会をしたのですがその夜救急車で運ばれ、「肝臓の末期ガンで、いつ亡くなられてもおかしくない」と言われました。 元々肺ガンを患っており毎週大きな病院に通っていたので、そんな急に...と正直信じられませんでした。 取り敢えず私はずっと病室に泊まり、祖母と一緒にいました。 祖母には母達の意向でガンの転移と余命が無いことを告げませんでした。 なので祖母は体調不良で入院していると思っており、「早くお花見がしたい。」入院前からもずっと「早く私の成人式の振袖が見たいわぁ。」と言っていました。 私は振袖楽しみにしててね、早く一緒に遊ぼうねと言っていましたが、その願いは叶いませんでした。 祖母は息を引き取りました。 家族や親戚に「泣くな!」と言われるのが辛く、ひとり祖母のお骨前で泣いています。どうしても毎日涙が勝手に流れます。 なぜ返事は返ってこないんだろう。いつも隣にいてくれたおばあちゃんはどこにいるんだろう。なぜ愛と人情に溢れ、人に尽くして正しく生きた祖母が死ななければならなかったんだ。など、毎日後悔や悲しみ、寂しさで心にぽっかりと穴が空いたみたいです。 せめて成人式の振袖は見せてあげたかったと毎日後悔しています。 真宗大谷派の方法で葬儀などを行い、祖母は極楽浄土で仏様になられたからもうここにはいないと住職の方に教えて頂き、お盆にはこっちに帰ってこない。お仏壇には祖母はいない。など、それらを聞いてまた泣いてしまいました。 質問があります。 ・祖母はそばにいないのでしょうか。 ・祖母はもうこっちに遊びに来られないのでしょうか。 ・私達をずっと見守ってくれるのでしょうか。 ・話しかけている言葉は届いているのでしょうか。 ・どうしても祖母に会いたいと思ったら死しかないのでしょうか。 ・転生など他の宗派で考えではもう会えないということでしょうか。 ・成人式の日、祖母はこっちに遊びに来て振袖を見ることが出来ないのでしょうか。 ・最後に、私はまた祖母に会えますか。 回答お待ちしております。
二度目の質問です。 前回の質問で母が他界した事で善き解答を頂き有難う御座いました。 さて、今回の悩み事なのですが 友人に四国八十八お遍路を誘われているのですが、我が家の宗派が浄土真宗で親鸞聖人の教えで般若心経を唱えないとの教えがあるようなのですが、四国巡礼とはそもそも般若心経を唱えながら人々の為自分自身を見詰め直すモノだと思うのですが、般若心経を唱えても良いものなのでしょうか。 私は朝夕と御仏壇の前で正信偈を唱えるのが日課です。
生涯ひとりと考えるようになり、葬式や埋めてもらう時の宗教を決めておきたくなっています。そもそも誰か私の葬式を出すのかが不明ですが、子供の頃から自分はたぶん宗教というものを好きな人間だと思っています。 しかしどうも宗教‘’団体‘’、‘’組織‘’が好きでないとか合わないと感じていてどこにも属していません。 仏教への気持ちとしては、高校生くらいで般若心経を読み、「かっこいい!」と感動してたものです。 しかし自分がいいと思った面を、日本にある宗派の短い説明を読む間に、全部の宗派が持ち合わせていない気がしてきます。 他には強いて言えば慧能の言葉も「おおおかっこいい!」と感動したのですが、では禅宗かというと般若心経に私が感じた内容と違う気がしてきます。 そのうちだんだん、感動して感じたところと宗派の説明に感じる差の離れ度で考えれば、シントーの方が身近な価値観に思えてきています。 いっそ日本の仏教なしにしてシントーかなと考えはじめています。 墓考えなくていいんじゃない、でも何でも構いませんので、ご回答頂けると嬉しいです。 (大勢いると苦手なのと、たまたま話した事があるお坊さんのふたりが、ふたりとも長く関わりたくないと思ったので、どこにも行きたくなくなりました。 ひとりは不倫を勧めていて、もうひとりは座禅会だったんですが、同僚を悪く言って(私には根拠がない話に聞こえました)「あっちの座禅会より自分の方が良いですからね」と話していました。 特に不倫の人からは話を切り上げて一刻も早くここを離れなきゃと怖くもあったし、もうこれ以上お坊さん知り合いたくないわ、と思っていました。でもそういえば幼稚園が仏教だったと思い出しました。家族が冷たかった私には、その時栗をくれたお坊さんが、子供時代に会った最も情がある人だった気がします)
こんにちは。 ご教授ください。 仏教では、死は穢れと見做していないというのが私の認識でした。 ところが、とあるセミナーで土地に関するデリケートな問題を扱った場面があり、"仏教あるいは神道において、生死や血液を穢れと見做しており・・・云々"とテキストに記載されておりました。 死や血液を穢れと見做しているのは神道ではないでしょうか? 講師の方曰く、お葬式の際、清め塩で穢れを払うように、 仏教で死は穢れなんですよねと説明されていましたが、私はそのような話を存じ上げません。 そのように説いておられる宗派があるのでしょうか?
お坊さんや、宗派によって答えが分かれると思うので、複数の回答をお願いします。 ①人間の死んだ後の魂の居場所はどこですか? まず、人は死後の魂は入魂儀式で位牌のに入るのでしょうか? 例えば49日に白木位牌から本位牌に「入魂」します。だとすると「遺骨」には魂は宿ってないんでしょうか?遺骨に魂が宿ってないのなら、お墓は単なる納骨施設で、お墓参りする意味も薄れてしまいます。仏壇の位牌に毎日手を合わせる方が遺族にとっても、亡き人にとってもいいと思います… 遺骨に魂が宿っているから、お墓の下で眠っていると信じてお墓参りにも行くし、また自分が死んだ時に一緒にいたいと思うからこそ家族は同じお墓に納骨するのだと僕は思いたいです。もし「位牌」に魂が宿っているなら、位牌もお墓に入れるべきですが、お墓→遺骨 仏壇→位牌というしきたりになってますよね… 死者の魂の本当の居場所はいったいどこなんでしょうか? ②極楽往生と輪廻転生 輪廻転生説:人間は死んだら、その人生の記憶は全部消されて白紙の状態に戻されて生まれ変わるんでしょうか?プラスチックやペットボトルのように、何度も0に戻ってリサイクルされるように、人間も全く別物に生まれ変わるのでしょうか? 極楽往生説:それとも浄土宗の教えのように、極楽浄土で過去の人生の記憶を持ったまま、自分の家族や大切な人と永遠に過ごせるのでしょうか? 僕は生まれ変わらなくていいから、極楽往生説を信じたいです。 大切な家族との思い出も、大切な人さへも、自分が誰だったのかさへも忘れてしまうなんて、余りにも虚し過ぎます(涙) 質問は人間の死後の「魂」についての上記2つです。 宗派や考え方でお坊さんによって違うでしょうが、複数のお知恵を拝借願います。