数か月前、TVで池田小児童殺傷事件の被害児童(女児)の母上にインタビューする報道番組を視ました。事件から15年が経過し、加害者の刑も執行された現在でも、事件当時の状況を知ると改めて「赦せねぇ」と腹の底からムラムラこみあげる怒りを覚えます。 僧侶の皆様にも、まだ小さいお子様のおられる方がいらっしゃると思います。上記のお母さまの立場にたたれて考えてなお、死刑は廃止されるべきと、言える方はいらしゃいますか? 私が、被害者遺族の立場で考えた時、とても「生きて、償ってほしい」とは考えられないと思います。 一番望ましいのは、加害者が犯した罪を心から悔い改め、被害者とその遺族に心からの懺悔と謝罪を示したうえで、潔く刑に服してくれることではないかと思います。また、それが加害者自身も唯一救われる道ではないかと考えます。 さらに、死刑について論じる時、「どんな理由があっても人が人を殺めるのはいけない」と言われる方がいらっしゃいますが、法治国家において執行される死刑は、人でなく法が行っているといえるのではないでしょうか? 僧侶の皆様のご意見をお聞かせください。
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
私のお腹の中でちゃんと大きく育てられず、あまりにも小さい内に帝王切開で出産せざるをえず、それでもフニャー!と息子は産声を上げて産まれてきてくれました。 保育器の中で、身動きもとれないまま手術にも耐え、43日間頑張り通した小さな息子はパタパタ飛んでいきました。 私は息子と旦那さんや家族とただ一緒に生きたかったです。 私は赤ちゃんをちゃんと出産できるか分からないリスクのある体質でした。それでも産もうとしたこと自体が私のワガママだったのではないか、私の赤ちゃんにあんなに頑張らせてしまった。本当にごめんなさい。という思いと、 私はあなたに会いたかった。あなたは保育器の中でも目を開けて私を見つめてくれた。あなたを撫でたりあなたの力を感じることができた。あなたと一緒に43日間生きることができた。本当にありがとう。という思いもあります。 あの子はどういう気持ちだったのか…ねえ、教えて、と毎日いつもあの子に聞いてしまいます。お母さんはただただあなたが大好きで四十九日を迎える今も現実をまだ認められない自分がもがき、あがいています。自分がただ辛いからだと分かってもいます。なぜか息子は待ってる、帰ってくると信じています。 わけが分からなくなっています。息子は今どんな気持ちでいるのでしょうか。息子と私たちはこれから一緒に幸せになれるのでしょうか。あの子は帰ってきてくれると信じていいでしょうか…
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
お坊様方の親身な解答を見て、私も質問させて頂くことにしました。 まず、私個人は幼い頃から、育児放棄、虐待、などを受け、今となって考えれば躾らしい躾を受けずに、成人しました。 成人してからは色々ありましたが、結婚もし、毎日食事もでき、子どもはできませんでしたが、小さいながらも、それなりの幸せを手に入れました。 そこには、友人知人などの助け、そして自分自身の努力も多少あったと思います。 昨年、老後に備えて、借金をして教育支援業で起業いたしました。 教育支援業を選んだ理由は、幼い頃自分は辛い思いをしてきた。 だから、少しでも同じような思いをしている子どもがいたら、助けてあげたいという気持ちからです。 しかし業績は一向に伸びず、生活をする資金も無い、借金も返せない状況になってきました。 もう、すぐにでも畳まなければならない状態です。 そうなった原因は、起業に対する私の勉強不足が一番だと思いますが、それ以外にも、不思議な出来事が多々あります。 例えば、「死」をイメージさせるような、不可解な現象が起きたり。 知人のアドバイスを素直に実行しても、周りが不思議に思うほど反応が無かったり。 アルバイトをして、なんとか凌ごうと思っても、全て面接で落ちたり。 何をやっても、良くなる気配がありません。 私の父も、事業で失敗し、親戚一同夜逃げするような事態を起こしました。 その後も2回ほど起業しましたが、いずれも失敗し、最近では金銭トラブルで離婚するとかの騒ぎになっております。 弟も、数年前…数百万の借金を作り、当時私が弁護士費用とか工面しましたが、結果がわからぬまま、行方不明になりました。 話は少しずれますが、父は私達が成人してから、籍を婿養子という形に直しております。 私も子どもがいません。 弟も、結婚はしておりませんので、やはり子どもはいません。 従兄弟も結婚していなかったり、子どもができなかったりで、 結果的には、次の世代に「血」を残すことすらできなくなっております。 こうなってくると、因果とかしか思えなくなり、正直…生きていく意味さえ無いように感じてきます。 ぜひ、解決の糸口になるような助言を頂ければ、幸いです。 長文失礼いたしました。
前にも似た様な質問を行いましたが、また、その時の恐怖が出てきました。 仏教では輪廻転生の教えがありますよね。死後に自分の行いや業によって六道のどれかに落ちるという。 前に仏教は今をどう生きるかを説いている、死後の事は分からないというお答えを貰いました。 だけど、折角お答えを貰ったのにまた生まれ変わりに対して恐怖が出てきたのです。 私はまだまだ自分の人生を生ききっていない二十代の小娘です。 だけど、来世を恐れ、来世を心配するという考えに取りつかれています。 来世が動物や虫になってしまったら、どうしよう。それで酷い目に会ったらどうしよう。怖い目にあったらどうしよう。 運よく人間に生まれ変わっても、今の様に平凡だけど幸せな環境のようば場所じゃなくてテレビいえ、私が知れないだけで想像も絶するような場所に生まれたらどうしよう。 もし、そこで酷い目に会ったらどうしよう、非人道的な扱いを受けたらどうしよう、誰かに殺されたらどうしよう。悪人になってしまったらどうしようという考えが頭の中をぐるぐると回り、自分が酷い目にあっている所まで想像してしまいます・・。 別にそんな目にあいたくないですし、本当に嫌です。 こんな事を考えても仕方ないし、今の心配をしろよですし、来世だから今の私の自我があるかどうかも分かりません。だけど、こんな目にあいたくないという気持ちが強く出ているのです。未来の私かもしれないという考えがあるのかもしません。 こんな目にあいたくない。こんな目に合う位なら死にたくない。 死後の地獄も嫌。死んでも自分が消えるのも嫌。 死んだらもう、この世に生まれ変わりたくない。人間にも動物にも虫にもなりたくない。死後の世界があるのならただ穏やかでありたい 嫌だ!嫌だ!嫌だ!とか心の中で叫んだり あれ?私はこんなに信心深い方だったけ?私は何の為に生まれたの? この世は魂の修行場だと聞いたけれど、そんなの誰が決めたんだ、苦しいのは一回きりで十分なのに、という考えが自分の中になってそれで体調が悪くなったり気分が沈み胃が荒れている状態です。 もしくは引きこもっているから、こんな事を考えてしまうのか、精神的にはおかしくなっているのでは・・と思います。 折角頂いたお答えもあるのにどうにかしたいけれど、またこんな調子になってしまい解決策が見出せない状態です・・。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
死後というのは無ですか? もう、無ということすら理解できないくらい無ですか?
町を歩いていると、時たまホームレスらしき方を見かけることがあります。 そこで、失礼を承知ながら質問です。 どうして、お坊さまは衣食住にも恵まれているのに(恵まれているように見受けられます。汗)ホームレスや、借金苦などの方々をお助けにならないのでしょうか…? お坊さまも、切り詰めて生活なさっているのかもしれませんが、一般の人たちよりはお金があるのではないかなと考えました。 私の身近にも、ホームレスだったり借金で苦しんでいる方が居ます。 どうか、見かけたら助けて差し上げてほしいのです。 良くないことを考えたり、身に災いを受けている最中(自分のせいなので、お気になさらず。)の私からの願いです。 何も悪くないのに、寒かったりお腹が空いたり、良くない人と繋がることもある、借金苦の方々も、ホームレスの方と同様に、助けてさしあげてほしいです。
何の為に生きているのか、わからなくなる時があります。 後継の為に生まれたのか、自分の人生とは何か、眠れなくなるほどです。 何故、後継の話が出てくるのかというと、私の実家はお寺だからです。 特に、ここ数年は私が後継として見られるようになりました。 私には男兄弟がおらず妹が二人だけなので、後継として見られるのは自然なことだと思っており、またそれを受け入れているつもりでした。 そんな中で、私は後継の為だけに生きているのかという思いが出てきました。 理由として、周囲の友人が次々と結婚し出したのもあり、自身の結婚を焦っていること、また、難病を発症してしまい、妊娠・出産できるかわからない身体となったことです。 もし結婚できなかったら、もし子どもが作れなかったらと思うと、後継としての意味が無いのでは?と思い悩んでいます。 それでも、まだ若い妹たち(学生)に実家を任せる訳にはいかず、ましてや実家を手放す気にはなりません。 私は何でお寺に生まれたのかと思う始末です。 これも運命ならば仕方ないのですが、今後をどうしても悲観的に考えてしまいます。 家族には迷惑をかけると思うと相談できず、自分でもこんなことで悩むなんて…と泣けてきてきまいます。 長々と申し訳ありません。 少しでも心を軽くできたらと思い、投稿ささていただきました。 よろしくお願いいたします。
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
僧侶の皆様に御尋ね致します。仏教の教えでは「親を大切にしたければいけません」「育ててもらったご恩に報いることが大切」といわれて いますが、昨今多発しています「児童虐待」「養育放棄」にあっている子供も、その親を大切にし、恩に報いなければならないのでしょう か?僕は幼少の頃から感情の起伏の激しい母親 に振り回され、悪化している夫婦関係のストレス解消に精神的暴力肉体的暴力にさらされ、逃げ場なく、過ごして来ました。19歳で家を飛び 出し、やっと呪縛から解放され32年が過ぎました。数年前から仏縁を頂き、仏教に帰依致しましたが、その中に冒頭の教えがありましたこれ については、僕は素直に受け止めることが出 来ないのです。どうぞ僧侶の先生方のご指導ご回答の程、よろしくお願いいたします。
半僧半俗な生活をしている日本の僧侶。 本山が本社で末寺はフランチャイズ店のような仕組みも 理解できません。 日本の仏教って名ばかりだな。と思うことが多々あります。 お寺の息子や娘に生まれ落ちて各宗派の大学を出て ちょっと修行して資格を持ち、家を継ぐ。そしてそれだけで人々から拝まれ、敬われるのって・・・ 何か違う気がします。 たいして苦労もしていないお坊ちゃま僧侶に偉そうな事を言われても何も説得力もありません。 お坊さん自信はこういった日本の僧侶の状況を どう思っているのでしょうか?
初めまして。51歳のオヤジです。 20数年務めた会社が倒産し、次の会社もリーマンショックでリストラされ また次の会社は事業縮小でリストラ。 今は失業保険で生活しています。 妻も働いて助けてもらっていますが、きっとまた何年かでリストラされる・・・ と半ば求職を諦めムードです。 豊かな日本と言われる中で自殺者が 毎年3万人だとか、15分に1人亡くなっている計算で、私がその中に 入ってもも~いいかぁ~って考える自分もいます。 面接する椅子から、される椅子に座って、自分の人生こんなはず ではなかったと何回苦い酒を飲んだ事か・・・。 が、このままでは駄目 子供の為にも、働いて養うのが男の務めなのは、分かっているのですが 精神的に、積極的に就職活動しようと思いません。半導体関係で今まで 仕事をしてきましたが、もうこの歳では雇ってくれません。 かと言って畑違いの職種を探すのも困難です。自分が嫌になってる この状態から脱出できるアドバイスをお願い致します。
先日自分のことを小さいころから苦しめてきた母親を殺害しようしました。 しかし結果的にはできなかったです。痛めつけることだけでした。 やつを床に強い力で踏みつけ、それなりの力で殴って、蹴り続けました。 悲鳴を上げて、叫んで、呻いてました。 本当は殺害する気だったけど、いざ踏みつけていると何か重さのようなものを感じてできないとわかりました。今目の前で動いてるものを一生動かなくすることの大変さというか。 途中で痛めつけることに方針を抱え、今でも不完全燃焼ですがいくらから痛めつけて帰りました。 やつは追いかけてきてどこに住んでるのか連絡先を教えてほしいとか、父親と連絡を取っているのか聞いてきました。 自分は歩きながら住所も連絡先も教えず、父親との連絡も「知らない」とだけ答えました。 本当はここでもう少し殴るべきだったと思います。 そしてちゃんと生活しているのか、幸せに暮らしてるのか聞いてきました。 子供でまだやつの家に暮らしていた時けなして、追い詰めて、苦しめてきた人間が今更そんなことを言ってくる。本当に頭に来ました。でももう外にいて人もいる。自分にそれを見られながら殴る気持ちは整理できなかった。 自分は笑いながら、幸せに暮らしてるし、普通に生活してるとか答えました。 何度もそれを聞いてきましたね。本当に殺してやりたい。今思い出しても胸糞悪くなってくる。 最後にヒステリックに自分がいなくなればいいの?!とかわめきだしました。 意味がわからなかった。もとから自分の周りにいない人間のはずなのにいったいどこにいたというのか。 「なんでそんなことを聞くのか」とキレると奴は帰りました。 幸せに暮らしてるのね、それだけわかればいいからと言って。 奴を痛めつけてるとき、リビングにはTVがついていた。それも許せない。奴にはまだまだ年齢からして30年近くは人生を楽しめる。 日本はやさしい国だ。年をとっても快適に暮らせる制度、環境はごまんとあります。 まだ足りないです。今回のことで実際に殺害することは難しいとわかりました。 だけど痛めつけ足りない。次は警戒されて難しい。今回はインターホンで自分を名乗って入った瞬間殺しかかりました。 次は難しいが奇襲しかないと。 だけどそれだけではできるかわからない。 何か、何か最高の復讐を教えてほしいです。 今回のことで自分に人は殺せないかもと感じました。
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。