二度目の質問です。 前回の質問で母が他界した事で善き解答を頂き有難う御座いました。 さて、今回の悩み事なのですが 友人に四国八十八お遍路を誘われているのですが、我が家の宗派が浄土真宗で親鸞聖人の教えで般若心経を唱えないとの教えがあるようなのですが、四国巡礼とはそもそも般若心経を唱えながら人々の為自分自身を見詰め直すモノだと思うのですが、般若心経を唱えても良いものなのでしょうか。 私は朝夕と御仏壇の前で正信偈を唱えるのが日課です。
生涯ひとりと考えるようになり、葬式や埋めてもらう時の宗教を決めておきたくなっています。そもそも誰か私の葬式を出すのかが不明ですが、子供の頃から自分はたぶん宗教というものを好きな人間だと思っています。 しかしどうも宗教‘’団体‘’、‘’組織‘’が好きでないとか合わないと感じていてどこにも属していません。 仏教への気持ちとしては、高校生くらいで般若心経を読み、「かっこいい!」と感動してたものです。 しかし自分がいいと思った面を、日本にある宗派の短い説明を読む間に、全部の宗派が持ち合わせていない気がしてきます。 他には強いて言えば慧能の言葉も「おおおかっこいい!」と感動したのですが、では禅宗かというと般若心経に私が感じた内容と違う気がしてきます。 そのうちだんだん、感動して感じたところと宗派の説明に感じる差の離れ度で考えれば、シントーの方が身近な価値観に思えてきています。 いっそ日本の仏教なしにしてシントーかなと考えはじめています。 墓考えなくていいんじゃない、でも何でも構いませんので、ご回答頂けると嬉しいです。 (大勢いると苦手なのと、たまたま話した事があるお坊さんのふたりが、ふたりとも長く関わりたくないと思ったので、どこにも行きたくなくなりました。 ひとりは不倫を勧めていて、もうひとりは座禅会だったんですが、同僚を悪く言って(私には根拠がない話に聞こえました)「あっちの座禅会より自分の方が良いですからね」と話していました。 特に不倫の人からは話を切り上げて一刻も早くここを離れなきゃと怖くもあったし、もうこれ以上お坊さん知り合いたくないわ、と思っていました。でもそういえば幼稚園が仏教だったと思い出しました。家族が冷たかった私には、その時栗をくれたお坊さんが、子供時代に会った最も情がある人だった気がします)
こんにちは。 ご教授ください。 仏教では、死は穢れと見做していないというのが私の認識でした。 ところが、とあるセミナーで土地に関するデリケートな問題を扱った場面があり、"仏教あるいは神道において、生死や血液を穢れと見做しており・・・云々"とテキストに記載されておりました。 死や血液を穢れと見做しているのは神道ではないでしょうか? 講師の方曰く、お葬式の際、清め塩で穢れを払うように、 仏教で死は穢れなんですよねと説明されていましたが、私はそのような話を存じ上げません。 そのように説いておられる宗派があるのでしょうか?
お坊さんや、宗派によって答えが分かれると思うので、複数の回答をお願いします。 ①人間の死んだ後の魂の居場所はどこですか? まず、人は死後の魂は入魂儀式で位牌のに入るのでしょうか? 例えば49日に白木位牌から本位牌に「入魂」します。だとすると「遺骨」には魂は宿ってないんでしょうか?遺骨に魂が宿ってないのなら、お墓は単なる納骨施設で、お墓参りする意味も薄れてしまいます。仏壇の位牌に毎日手を合わせる方が遺族にとっても、亡き人にとってもいいと思います… 遺骨に魂が宿っているから、お墓の下で眠っていると信じてお墓参りにも行くし、また自分が死んだ時に一緒にいたいと思うからこそ家族は同じお墓に納骨するのだと僕は思いたいです。もし「位牌」に魂が宿っているなら、位牌もお墓に入れるべきですが、お墓→遺骨 仏壇→位牌というしきたりになってますよね… 死者の魂の本当の居場所はいったいどこなんでしょうか? ②極楽往生と輪廻転生 輪廻転生説:人間は死んだら、その人生の記憶は全部消されて白紙の状態に戻されて生まれ変わるんでしょうか?プラスチックやペットボトルのように、何度も0に戻ってリサイクルされるように、人間も全く別物に生まれ変わるのでしょうか? 極楽往生説:それとも浄土宗の教えのように、極楽浄土で過去の人生の記憶を持ったまま、自分の家族や大切な人と永遠に過ごせるのでしょうか? 僕は生まれ変わらなくていいから、極楽往生説を信じたいです。 大切な家族との思い出も、大切な人さへも、自分が誰だったのかさへも忘れてしまうなんて、余りにも虚し過ぎます(涙) 質問は人間の死後の「魂」についての上記2つです。 宗派や考え方でお坊さんによって違うでしょうが、複数のお知恵を拝借願います。
うちの宗派が曹洞宗で、今年の宝暦を拝見しました。 年間行事予定の中に大山阿夫利神社の例大祭の日取りが書かれており、曹洞宗とどんな関係があるのかな?と思い質問させていただきました。 出身が阿夫利神社の近くで、よくお世話になっていました。
時間が遅くなってしまいお経を読む頻度がここ最近減っていて、御題目は毎日あげています お経本は少し省略して読んでも大丈夫なのでしょうか? 後お経を読んでいると、 嫌なことを思い出してしまい集中できなくなることがあります どうしたらいいでしょうか? 宗派は日蓮宗です ご回答よろしくお願いします
自分は以前から死後の世界&生まれ変わりについて興味がありました。 宗派によって死後の世界&生まれ変わりは違うと思います。 死後の世界はどんな所ですか?やはり天国、地獄と分けられているのでしょうか? また、生まれ変わりはあると思いますか?あるとしたら人は人として生まれ変わるのですか?それとも人以外として生まれ変わるのでしょうか? ほかの動物や虫たちも生まれ変わる時は同じものに生まれ変わるか、それ以外(例えば人など)に生まれ変わりますか?
お坊さん方おはようございます。 もうすぐでお盆なので当日お墓参りに行くのですが、ご先祖様に日頃の感謝とお帰りなさいって心の中で願うとご先祖様は喜んでくれますか?? またお寺のご本尊様も同様ですか? ちなみに宗派は曹洞宗です。 お盆にこれはやった方がいいのとかってあるのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
こんにちは。 私は、家の宗派は真言宗なんですが、実は法華経も好きです。 先日、鴨川に出掛ける機会があり、縁あって日蓮宗の 誕生寺にお参りさせて頂きました。 参拝時は流儀に従い「南無妙法蓮華経」とお唱えし、 法華経について色々と考えさせられるきっかけとなりました。 「観音経」として知られる二十五品や有名な「自我偈」を含む十六品など、 どれも素晴らしいのですが、私が特に好きなのは 仏の命が永遠と知って全世界(全宇宙?)の菩薩が歓喜し、 曼荼羅華が降り注ぎ、天には妙なる音色が響くと言う、 壮麗な仏国土が現前する十七品(分別功徳品)です。 「如是等衆生・聞仏寿長遠・得無量無漏・清浄之果報」 の所が特に好きで、正直この部分を紙に書いて お守りとして身につけたいくらいです。 この世の誰をも救ってあげよう!って大らかさとパワフルさが 法華経の魅力だと思うし、そんな法華経の魅力が結実している 一文だと考えてます。 で、ふと思ったんですが法華経の十六品や十七品で言及されてる 久遠実成は、永遠性や普遍性といった性格が大日如来と共通している のではないでしょうか? 上述の十七品は「仏国土は遠い彼方にあるものではなく、仏の永遠性を 信じれば、この現世こそが仏国土と知れる。」 と主張してるように思えますが、これは大日如来を中心とする 密教の思想にも通じていると感じるのですが如何でしょうか? 私にとって仏様と言えば、実家の仏壇に鎮座する、 きらびやかな衣装をまとった大日如来様です。 子供の時から手を合わせている大日如来様が、 法華経の久遠実成と相通じているなら 何と素晴らしい事か、と考えてしまいます。 厳密な意味での同体ではないにしても、 根底で通じているのではないでしょうか? 少なくとも相反するものではないと思うのですが如何でしょうか? ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
私は将来、浄土宗のお坊さんになりたいと思っています。勿論、“修行”する覚悟は有ります。 しかし、浄土宗では、修行はどの位の厳しさなのかは分かりません。禅宗や日蓮宗よりは厳しくないと聞いた事は有るのですが、やはり、仏教は修行有りきなので、浄土宗も厳しいとは思うのですが、どの程度の厳しさなのでしょうか。他宗派の様に、滝行や施餓鬼等もするのでしょうか。 これを御覧になって下さっているお坊様、教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。
即身仏について本を読んでいます。その中で、「3年3ヶ月後に掘り起こす」や、「地面より3m下に埋める」など、数字の3をよく目にします。仏教には、この数字の3に何か特別な意味があるのですか?もしあるとしたら、どのような意味がありますか?また、意味があるとするならば、宗派によってその意味は変わってきますか?ご回答、宜しくお願い致します。
私の方のおばあちゃんと一緒に住んでた私のお母さんの浄土真宗の仏壇をもっており、ダンナのほうは日蓮宗で誰も亡くなっていないので、家には浄土真宗の仏壇があります。この度、祖母を弔いあげしました。あと10年後には母も弔いあげしようと思っています。今、お骨は2人とも母の本家のほうのお墓にありますが、本家はもういとこと奥さましかおらず、後継もいないため、そこも永代供養かもといってまして、うちの2人のお骨をどうしますかといわれてます。最終的には、菩提寺に相談かもと思いましたが、2人分の永代供養料を今すぐ払えなくてと、躊躇しております。自分もダンナも持病があり、自分たちも女の子ばかりで後継なく、しかも、宗派も違うので、どうしようかと思っております。 ダンナが樹木葬できる近いところを探して、お骨を引っ越したらと言いますが、永代供養料、埋葬料、まだ、子供も学生で家のローンもあり、払えません。日蓮宗なので、どのみち離檀料は払わなくてはなのですが、自分が死んだらでる生命保険料で何とかならないかと思ってますが、人に任せて粗末になったら嫌だなと思いなやんでます。ちなみに弔いあげ後の永代供養料はおいくらぐらいが相場でしょうか。教えていただければありがたいです。貯めていかなくてはと思います。いいアドバイスをいただきたいです。
最近仕事で行き詰まり、休職中に仏教に興味を持ち始めました。 仏教の基本的なところから、宗派の特徴など見て、なんとなくですが真言宗にひかれ、信仰してみたいなあと思うようになりました。 ですが、実家は地方で、現在の私の家には仏壇も無く、近くでお世話になっているお寺さんもありません。私自身全く宗教に関わってきませんでした。 そこで疑問に思ったことなのですが、 ①真言宗を信じている一般の方はおうちで何をしますか?お坊さんほどの修行をされない一般の方は、おうちでするのはお経を読むくらいなのでしょうか。(日々のおつとめ?というのでしょうか。教えてください。)また、それは一日何回ですか? ②家に仏壇が無く、またスペースも収入も無いので購入も難しいです。おつとめする時は何もない場所でやっても大丈夫ですか?また、かわりにこういう物でも良いよというのがあれば教えてください。 ③お寺さんとはどうご縁を結べばいいのでしょうか。電車で1時間で成田山に行けるのですが、頻繁には行けません。近所に真言宗のお寺がないので、行けそうなときに成田山に行く、でもかまわないでしょうか。 初めての質問なので読みづらかったらすみません。 よろしくお願い致します。
ここ最近、質問ばかりですみません。 卒塔婆?塔婆?について教えて頂きたいです。 地域によって、違うのでしょうか? 私は神奈川在住です。 塔婆は、誰が出すものなのでしょうか? 宗派や、地域によって違うらしいと 検索すればするほど出て来てしまったので、 葬儀屋さんや霊園の方にも聞いたのですが、 「それは、それぞれの家庭のお気持ちなので……」 との回答で、よくわかりませんでした。 母にも聞いたのですが、 「知らないよ。施主だけでいいんじゃないの?」 と言われたので、 不安になり、質問しました。 亡くなった兄の供養になるなら 私も塔婆をと思っているのですが、 それは間違っているのでしょうか?
今年は母の十三回忌になります。 葬儀、三回忌は実家で行いましたが、お墓は私の家の近くで建てることにし、霊園・お墓の建立の都合で七回忌とお墓の入魂式・納骨を同時に行いました。そのときは父方の宗派が暮石屋さんでもお知り合いがおらず、自分で父方の宗派と同じお寺さんを何とか探してお願いをしました。 十三回忌はその時探したお寺にまたお願いに上がろうと思っていますが、十三回忌はお墓で行うものなのかお寺で行うものなのか、どちらでしょうか? また十三回忌は親戚はどこまでお声がけするのが一般的でしょうか?(母方の親戚のみ?家族のみ?) 父は私に任せきりにするつもりらしく、また知識も調べる意思もなく、困ってここを見つけました。ご教示いただければ幸いです。 私もこういった知識もなく教わる相手もおらず(母には存命時には色々聞けたのですが)、また仕事も子育て・子供の受験も控えてバタバタしているなかで法事を丸投げしてくる父にも悩んでいます。妹もいますが父が振らないせいか人ごとに考えているように感じます。母の供養はしてあげたいのですが、大変気が滅入ります。この状況に関しても何か良いお導きをいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
ご縁がありまして、毘沙門様のお札を頂きました。 私は浄土宗の檀家なので、天部尊のお札は仏壇とは別に、隣の大黒様の祭壇に一緒にお祀りしております。 そこのお札は主に、真言宗や天台宗、曹洞宗のお札なのですが、そこに日蓮宗のお札も一緒にお祀りして問題は無いでしょうか? 「毘沙門様の視点から見れば、宗派の違いは無い」との解釈で問題無いでしょうか? お坊さまがたのご意見を伺えましたら幸いです。
最近、疑問に思っていることがあり各ご僧侶様のご意見を頂きたく質問させて頂きました。 まだ小学校低学年の頃から、30年以上前に亡くなった曾祖父に会いたがったり、誰に教わるでもなく仏像をねんどで作ったり絵に描き起こしたり何かと仏教とご縁のある身なのだなとありがたく思っております。 大学でも仏教学部に在籍していたこともあり学問的な仏教にも大変興味があります。 この1か月間で無量寿経、薬師経、阿弥陀経、般若心経等、10以上の真言、経典を読んでいました。 釈尊の言葉をまとめたものがお経なのであれば、なぜ葬式や法事であげるか少し理解できずにおります。教えを書き起こしたもの(学校でたとえるならば教科書でしょうか)を故人にあげる意味とはどういうことなのでしょうか? ある本には六道の中で人間界でしか仏教を聞く事ができないと書いてありました。 人の思う天国も六道では天界というところだそうですが、苦しみもあるとのことでした。 葬式や法事等であげるお経は人間界でしか学べぬ仏教を、故人にもその教えをお経として聞かせ参列している人もまた教えを一緒に聞く、という意味合いなのかなと解釈しております。。 菩薩や天部のエピソードは多少脚色されたものもあるのかもしれないなと物語として楽しく学んでおります。 また各浄土にいらっしゃる仏様それぞれが得意とする分野をお持ちですが(薬師如来なら無病息災や病気治癒など)、病気になった時はお薬師様、強い心を持ちたい時はお不動様などそれぞれの仏様に拝んでもよいのでしょうか? 全ての仏様のお師匠様が阿弥陀様ということを本で見かけましたので基本的に元をたどれば一つであると考えればどの仏様にお祈りをしてもよいのかなと、、 仏様のご利益は願って叶うものではなく、願ったのち自身が前を向き努力した時にそっと後押しをしてくれる存在と最近は思います。 ご僧侶様のご回答ご意見を、宗派関係なくお聞かせください。 ※曾祖父時代は浄土真宗、現在は真言宗ですが私自身はどの宗派も元をたどればおおかた同じと思っておりますので気に入った仏様や宗派を勉強しているようなかたちです。
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?