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検索結果: 11941件

夢が叶わなかったら死のうと思ってます。

最近、夢を追い始めた25歳女です。 自分が中学、高校生ぐらいの時から漠然と音楽の道へ進みたいという思いがあり、 高校を卒業して大学に入ってから1、2年程、歌や音楽に時間を費やした時期がありました。 しかし、20歳を過ぎて周りが就職のことを考え始め就活の話をし出すようになってから、 人と違うことをしていることへの恐怖感みたいなものが勝ってしまい、 結果、一般企業に就職し今年の3月まで普通の会社員としての生活を送って来ました。 会社員生活はまるで死んだような生活でした。 就活をしている時からどこの企業にも興味は湧かず、探してもやりたい仕事もなく、 ただ人並みに生きなければいけないという観念の元、就職をし、 就職してからもただ生きるために毎朝無になって職場に通っていました。 どこか本当の自分を感じれずに生きてきました。 もちろん、プライベートの時間に全く音楽に触れなかったわけではなく、 束の間の生き甲斐として音楽には触れていたのですが、 数年このような生活を送ってから気づいたことは、これでは足りないということでした。 この生活をずっと送ることを考えた時に、早かれ遅かれいつか本当に死んでしまうと思いました。 音楽で何かを表現したい、正しく言うと、 表現し続ける生活を送りたい。という想いだけが人生の強いアイデンティティになっているのだと思います。 音楽だけが自分の生きる意味になっていることを悟りました。 そこで私が出した結論は、何もかも捨てて音楽だけで生きる道に着くということでした。 いくら考えを巡らせても、もうこれ以外の道で自分が生きたいと思える道がありませんでした。 この数年ずっと考えてきて、それ以外で魅力を感じたものが何もなかったからです。 友人と会っていても上の空、好きな人と一緒に居ても上の空、 頭の中で思い浮かべるのは良い音楽を作りたいということだけでした。 3月に仕事を辞めてからは、最低限のバイトしながら音楽に時間を費やす生活を送っています。 彼氏とも別れ、友人との関係も絶ちました。 世間の様々なしがらみから解き放たれて今とてもスッキリしています。 なので、もし音楽で自分が生活していけないのなら死のうと思っています。 私のような生き方は皆様どう思いますか? 馬鹿な考えだと思いますか?

有り難し有り難し 21
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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 111
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このまま死のうかと考えています。

何度もご相談をさせていただき、その旅にお坊様からのありがたい言葉に救われてきました。本当にありがとうございます。 しかし、自分なりに辛い気持ちを抑えて踏ん張って生きてきましたが、どうしても辛くて死にたいと強く思うようになっていました。 仕事が決まり、今日は午後から出勤することになっています。しかし、人がどうしても怖いんです。怖くて怖くてたまりません。 過去と同じようなことが起きたらどうしよう、辞めることになったら、彼や家族に怒られる。もう何もする気になれません。 自分なりに、今まで周りのいうことを聞いて頑張ってきました。最初に言ってることが変われば、それに合わせて自分の身の周りのことなどもすべて変えてきました。しかし、それがすごく苦しかったんです。 人と関われば、また強く意見や考えを押し付けられ、何度も何度も、自分を変えなければいけない。もう疲れました。もう、このまま死んで楽になりたいです。 このようなことを書き込んでしまい、大変申し訳ございません。今まで、このような掲示板などに「死にたい」という思いを書いては失礼だと思い、書かずに自分の中で抑えてきました。しかし、もう限界です。所持金もなく、行く場所もありません。もうどこにも行く場所がなく、途方に暮れています。もう楽になりたいです。

有り難し有り難し 123
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母と仲が悪いと、昔死んだ祖母は私を許しませんか?

これまでの私と母の母娘関係はあまりにも長く複雑にすれ違ってきているので簡単に説明はできませんが、今回はお墓参りに行くべきかどうかで悩んでおりご相談致します。 母は私が物心つく前に父と離婚しました。その為私は父の顔も知りません。相当酷いことがあったようで、養育費や面会などのことは全てシャットアウトし別れている様なので本当に私としては父親はただの謎の人物に過ぎません。また、私は生まれた時から心臓に疾患があったので母の母子家庭での子育ては本当に大変だったと思います。私は素直に母をすごい人だな、と思います。ただ全て感謝しているかと言えば、おそらく病気のこともありひどく過保護過干渉で育てられたので私は自分で自分のワガママな性格にすごく自分自身苦しんできました。なので育ってきた過程については百の感謝はできていないのが本音です。けれど私もバツイチで母と同居ではないものの実家で家賃破格で住まわせてもらっているので今の母の気持ちにはとても表せないほど感謝しています。 ですが、母との仲はとても悪く最近はよく「お前はやっぱり〇〇(私の父親)の子だな!」とDNAレベルで責められます。父を知らない私はそこ責められても生まれ直せないので返す言葉もなくなります。祖父母は私が5歳頃には二人とも亡くなり、祖母はよく私のことを「母親いびりの子」だと母に言っていたそうで、それもよく持ち出して責められます。諸々、今の私にはどうすることもできないのですが母は根深く思っています。 最近、神頼みではありませんがお墓参りに行ってご先祖様と祖母にお花をそえたい、そして願いが叶うよう見守ってもらいたい、そう考えています。でもそんな暴言を言っていた祖母はあたしを許すのでしょうか?ご先祖様は私を認めていないのではないでしょうか?また、ご先祖様とは、父方にもいると思いますが前述通り全く他人同然なのでご先祖様の見守りの範囲というか意味がわかりません。 ご先祖様や、私を憎んでいた様な発言があった(でも、孫としてかわいがってくれていたのもきっとあったかも知れません)祖母の墓前に私は行って加護のお願いなんてしていいのでしょうか? ご先祖様や亡くなった祖父母というのは、現世を必死に生きてる私たちに対しどのような気持ちなのでしょうか?どうか教えてください。お墓参り行ってもいいのでしょうか?

有り難し有り難し 5
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なぜ死んではいけないのか

はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。 表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。 決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。 私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。 そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。 5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。 大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 109
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飼い犬を死なせてしまいました

はじめまして。 1年以上前の、春の話ですが、飼い犬を死なせてしまいました。 赤ちゃんの時からずっと一緒で、どこへでも連れて行っていました。 あの日、犬と一緒に一泊旅行で山へ出かけました。 すごく寒い日で、車中泊だったのですが、暖房をつけても寒く、なかなか寝られず、、 翌朝、明朝から私だけ軽い登山へ出かけました。 犬は車内でお留守番してもらっていました。 登山に予想以上に時間がかかり、すごく日が昇ってきました。 犬が心配になり、急いで下山しましたが、熱中症で亡くなっていました。 寒い日だったので熱中症のことは全く頭にありませんでした。 私の知識不足です。 犬は、リードを咥えて亡くなっていました。 車内が熱くなっていて、出して欲しかったんでしょう。犬は汗がかけないので、舌を出してはぁはぁして体温調節をします。その息が水滴になって、身体はびっしょりになっていました。 どれだけ苦しんだか分かる亡骸でした。 その光景がいまでも頭から離れません。 私の知識不足で死なせてしまったこと。 まだ6歳でした。 生きていればあと15年は生きられたと思います。 その日から、罪の意識で苦しんでいます。 仕事は辞め、いまもまだちゃんとは働けていません。 あの子の笑顔を思い出すと涙が出てくる。 あの子の苦しんだ亡骸を思い出すと、死にたくなります。 いまは同じ犬種の保護犬をもらい、一緒に暮らしています。いまの子を愛することで、贖罪になればと思っていますが、いまの子に愛情をかけても、なぜ前の子にはそこまでしてやれなかったのか、と後悔ばかりです。 また会いたい。会って、抱きしめて、私の過ちを謝りたい。 亡くなった日、まだそのときは何も知らない遠くに住む家族の夢に、犬が出てきたそうです。 ですが、私の夢には一度も出てきません。なぜでしょうか? いまだに骨壷を部屋に置いています。その子が、離れたくないと言ってるような気がして、、 どうしたら、前向きに生きていけるでしょうか。

有り難し有り難し 126
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老いて死に向かう事

介護の仕事をしています。 そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、 人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。 なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、 脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。 また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。 やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。 道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、 前後裁断があったかと思いましたが、 今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。 あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。 わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。 自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?

有り難し有り難し 37
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死ねないし死にたくないけどしんどいです。

会社も家庭もうまくいきません。 この状況を伝える人がいません。 ただただ共感してほしいだけです。 しかし立場と責任があるので話してしまうと わたしは出来ない人に転落します。 それは悔しいです。 理解されないなら話しても無駄なので黙っています。今日は限界になりました。 しかし死ぬわけにはいきません。 今までは子ども達のためでした。 今は16年いっしょにいるペットのためです。 誰かのために生きていることは良いと思っています。ペットは今日もわたしを迎えてくれました。 しかしわたしはわたしのために、共感を期待してしまいました。共感は得られませんでした。 話せる人をと考えました。 だけど相談などできません。 立場と責任があります。 泣きたいですが泣いてもどうにもなりません。 涙は滲みます。でも拭きました。 笑わないといけません。 立場と責任があります。 わたしが倒れると組織が止まります。 でももうどうしようもできません。 死にません。怖くて死ねません。 だけどもう限界で強くなれません。 明日会議に出ないとなりません。 資料は何も作れません。休みたいです。 でも休めません。立場と責任があります。 みんなが迷うことになります。 わたしがいなければ、ペットは死んでしまいます。わたしはしんどいです。ごめんなさい。

有り難し有り難し 19
回答数回答 1

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