先日、父が亡くなり親族葬を行いました。 突然の死でしたので残された家族と共にバタバタしながらも、父や列席していただいた方々に失礼のないよう努めてまいったつもりです。 そんな中、お通夜のお焼香の時に一人ずつ順番に出て行ったところ、お坊さんのお経の方が早く終わってしまい席を立たれてしまいました。さすがに退場されることはありませんでしたが、その時にお坊さんが「もっと早く出てこなあかん!お焼香は喋るとこちゃうよ!」とお怒りになられました。 喋るというのは恐らく、親族の方々が順番が来て前後の方と「どうぞ」「ありがとうございます」とやり取りされてたことだと思います(狭い会場でしたがそれ以外に会話は聞こえませんでした)。 たしかにお焼香は一人ずつ席を立たず前の方の後ろに並んで途切れることなくすべきだったのかもしれません。お葬式に不慣れとは言え、お坊さんにとっては無作法で失礼に値することだったのかと反省するところはあります。 しかしながらお通夜にも関わらず高齢の親族へ声を荒げられたお坊さんに対し、憤りを感じてしまったのも事実です。 故人である父はこういう場面だと「皆さん足元気ぃ付けておいでください。」と親族を気遣うような人です。その父に背を向け親族を怒ったことが許せませんし、父の通夜を、列席していただいた皆様の思いを侮辱されたような気分です。 何より喪主である母が「こんなことになってお父さんに申し訳ない」と落ち込んでいるのが辛いです。 いまだに気にしてしまっていること自体、父に失礼なような気もしますし、それよりも父を思う気持ちが大事だということは分かってはいますが、この出来事がなかなか頭から離れません。 我が家はお坊さんのお寺の檀家で、これまでも長く付き合いがあり、これからも顔を合わせることはあると思います。 どうやったら落ち込む母を励まし、またこの出来事を乗り越えて、今後もお坊さんとわだかまりなく付き合えるのでしょうか。
真心をこめて関わる方々が、自死を選んでしまったのがつらいです。 自分が関わると死に追いやってしまうのだろうか、立て続けなのは何か因縁があるのだろうかと考えたり、また繰り返してしまうかもとこわいです。 信頼できる人には感情を出し切って、話し合って現実的に動いていますし、皆私を必要としてくれているのを感じる一方、自分を疫病神のようにも感じてしまいます。 また、お墓参り等できないので、厳しい弾圧に耐え抜いたご先祖様の力もかりたく、自分なりにお経をあげ弔いました。が、宗教が違うのにそんな弔いをしてよかったでしょうか。
真言宗の僧侶になりたいと強く思っている方がおります。 元々幼い頃から仏の道に触れ、家に神棚があり御大師さまなどを祀っていたり、お経を唱えたりなどされている方です。 ですが、身体の一部に刺青(獅子)が入っているため僧侶になれないのではないかと、心配しております。 刺青があっても本気で仏道を進みたいと思っていれば師を取らせて頂き、仏道を学び僧侶になることは可能なのでしょうか? 回答よろしくお願い致します。
相談というより質問です。先週、祖母が亡くなりお葬式をあげました。その前のお通夜の時の、お経が始まると息苦しくなりクラクラしました。マスクをしていたので外して落ち着こうと、深呼吸をして様子を見ましたが変わらず…席を外しました。深呼吸を続けても変わらず今度は動悸がしました。ずっと気持ちがソワソワしてると母が気づいてくれて、「ばあちゃん、心配しないで」と言いながら私の肩や背中を摩ってくれました。すると、自然と涙が出てその後は落ち着きました。ばあちゃんが、私のところへ来たのでしょうか?このような体験は初めてなので気になりました、、。
お寺の小僧さんの生活について教えてください。 得度前の小僧さんは、どのような生活をされているのでしょうか。 下座行とはお掃除以外にもありますか。 朝の勤行などお坊さんのお勤めは、得度してからですか? ごはんの前にお経を唱えたりとか、夜もまたお勤めしたりとかあるのでしょうか。 得度前、あるいは得度後(一人前になる前)の小僧さんの暮らしについて知りたいです。 どうぞよろしくおねがいします。
先日、親戚の法事に参列しました。 お経の後 和尚さんから有り難いお話があり、 とても感銘を受けました。 煩悩があるから 人間は思い悩むと。 自分の心が自分を苦しめるという お説教でした。 会食の席で 和尚さんは我々と同じ料理を 食されていました。 食欲って煩悩ではないのですか? てっきり精進だと思ってたので 少なからずショックでした。 お子さまの話しもされてました。 結婚してもいいんですね? お説教とあまりにギャップがあります。 そのあたりを 分かりやすい教えて下さい。 よろしいお願いします。
看取りまで入院をし 最期を病院で迎える母のことです。 今は 気切 のためも話しをすることもなく 経鼻からのチューブで栄養を摂っています。 そのような毎日の中 いつか迎える最期の日まで 少しでも不安や悲しみなど諸々の 負の感情を 取り除いてあげられ穏やかに笑顔で過ごせるのか 毎日 考えております。 穏やかに過ごせること・穏やかな最期を迎えられる ようにするのには どのようにしていけば 良いでしょうか。
祖母が、私が写経しているときに、コバエを写経用紙の上で潰してしまいました。祖母は軽度の認知症なので、写経しているという認識もなかったのかもしれません。止められなかった私が悪いのですが、この写経用紙をどうしたらいいのか考えあぐねています。 捨てるのも良くない気がするので、全て書き終えてから、お寺に納めることを考えています。その方が虫の供養になるのではないかと…。 ただ、元々、祖父の病気平癒の祈願を込めて写経を始めたので、殺生したくせに、安易な気持ちで納経できないとも思ってしまうのです。 アドバイスをいただきたく存じます。
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
真言宗の掛け軸 私以外の家族は信仰心が薄く、神棚と、棚の上に家族の宗派の仏壇がありますが、 私は真言宗が好きで、念珠も持ってお経も毎日読んでます。 ただ仏様を見て読みたいので 真言宗の掛け軸を自分の部屋に置きたいと思っていますが、ダメでしょうか 棚の上に仏壇なしになりますが…… 本尊様はどの仏様でも良いですか?(個人的にお不動さんが大好きです) また魂入れをやれないのですが、掛け軸に悪いものが入ってしまうのは嫌なので、できないなら、買わない方が良いでしょうか……? やはり開眼供養は必要ですよね……
娘を亡くし、もうすぐ1年です。 今は朝と夜に仏壇に手を合わせて、仏様に「娘をお願いします」と伝え、娘にお話をしています。 仏壇には綺麗なお花とお供え物をいつも欠かさないようにしています。 仏壇のお手入れも小まめにやっています。 そして月命日にはお坊様にお経を読んでいただいてます。 遺骨はまだ手放せず、お墓には入れていません。 いつでも娘の顔を見れるように、家のすべての部屋に娘の写真を飾っています。 他に私が娘のためにできることはありますか?
私は、自尊心が低く、自分というものがわかりません。 自分を認める事が、どーしても出来ず自分自身が嫌いです。 心が疲れてしまっている時、仏様にすがるのは、甘え?逃げなのでしょうか。 お坊さん方は、こういう気持ちになる事は無いのですが? 心が病んだ時どの様に対処なさっているのですか? お経を唱えるとよいのですか? 私なんかより、本当に苦しんでいる方がいる事も、承知しています。 平凡日々を送らせてもらってる中での、ただの甘えなのかもしれません。 けれど、変えたい変わりたいと思うだけで、どーしたらよいのかがわからないのです。
ご覧いただきありがとうございます。 突然ですが、久しぶりに口内炎ができました。あまりの痛さにろくに食事を取れず、辛かったです。 仏教のいう「執着から離れる、苦しみから離れる」というのは主に「精神的な執着、精神的な苦しみ」として解釈していたのですが、何かのお話しで、お坊さんを殺すため(すいません)寺に火を付けたら、お坊さんたちは慌てたり逃げ惑ったりすることなく死ぬまでお経を唱え続けた……というのを聞いたことがあるので、「精神的な苦しみだけでなく、身体的な苦しみからも離れることができる」のだと思いますが、一体どうなっているのでしょう?どうやっている(?)のですか? 口内炎でこんなにも痛いのに、火をつけられて動じないなんて……。無我の境地というものでしょうか。
お坊さんの読経をyoutubeなどで聞かせて頂いています。 自分が観音経などを読経しても、お坊さんの様にいい声で、滑舌良くハッキリと唱えるのが難しいです。 また普通に話している時でも、お坊さんの声は芯があって優しい感じがします。 お坊さんは何かボイストレーニングや滑舌トレーニングの様な事をしていますか? また読経や話す時に意識している事が有れば教えて頂けると嬉しいです。
数年前に田舎の実家の寺を継がないと決めて現在は東京で別な職業に就いております。 結婚して家庭もありますので田舎に戻るのは難しいです。 実家は私の他に後継がおりません。 継がないと決心して実家を飛び出したのですが最近寺を継がないことへの罪悪感で押しつぶされそうで自主的にお経を聴いて仏教を学んでおります。 この罪悪感はどのようにすれば軽減できますでしょうか。 御回答よろしくお願いいたします。
販売職をしています。 ある日お年寄りのお客様が私の事を気に入ってくださり、 ご自身で書いた写経をくださりました。 私は最近からお経を仕事前に唱える事を始めたばかりだったのでタイミング的にも驚きました。 なので頂いた写経も 粗末に扱ってはいけないと思い、 大切に持って帰って来ましたが 保管の仕方がわからず悩んでいます。 もしくは お寺にお納めした方が良いのでしょうか? どうか教えていただけると ありがたいです よろしくお願いします。
見つけてくださって、ありがとうございます。 以前、お地蔵様の前掛けについて質問させていただきました。今回は、お地蔵様の前掛けの交換について質問させてください。 以前お地蔵様にお供えした前掛けが、風雨に耐えたためちょっとボロボロになってしまいました。そのため、新しいものと交換しようか、それとも洗おうか(洋服のようにじゃぶじゃぶ)迷っています。 新しいものと交換or洗う、どちらがよろしいのでしょうか。 また、新しいものと交換する際、作法はありますでしょうか(お経を唱える、古い前掛けをお寺にもっていく等) よろしくお願いいたします。
大切な方が亡くなりました。 これは宗派によって考え方も違うと思いますが、禅宗の和尚さんにお参りをしてもらいました。 四十九日を終えて、六道に生まれ変わったと言ってみえました。 六道に生まれ変わった、六道の中には人間界もあって、どこかに生まれ変わっているのでしょうか? 空から見守ってもらっている?と思っていたら違うのでしょうか? お盆や何回忌に追善供養をするというのは、地獄にいる前提なのでしょうか?人間界に生まれ変わっていたら、人間界に生まれ変わった誰かに追善のお経がとどいている。ということでしょうか?
東京もしくは埼玉でお墓を作りたいと思っております。 先祖と育ての叔母の遺骨です。 (以前あった墓を管理していた寺院がヤクザ関係者の運営になり、墓じまいしてから実家にて遺骨を管理しています) きちんと定期的にお経をあげてくださり、維持・管理費が良心的な寺院を探しています。 宗派への拘りはありませんが、心の広い、真摯にご自身の信仰に向き合っておられるご住職が居られるお寺を希望します。 良きアドバイス、情報をよろしくお願いします。
父が亡くなり葬儀社の紹介で、あるお寺の僧侶にお任せすることになりました。 四十九日も、一周忌も供養をしていただきましたが、高齢のためか(90歳近い?)お経も休憩を入れながら長時間にわたり、その後の法話(お説教)も同じことを何度も繰り返し、世間への愚痴や他の宗教への悪口を言われるので、聞くのがいやなのです。 途中でお断りして帰ったらいけませんか?早く二代目の僧侶に代わらないかと願っているのですが。