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hasunoha 問答検索結果 : 「私 嘘 心配」
検索結果: 677件

今年8月家をリフォームして身内に不幸が起こりました。

私の家は築16年であり、ボロボロになってきたため父がリフォームいたしました。 それが原因かはわかりませんが、父方の祖母が心筋梗塞で最近入院しました。似たような例としてアパートを建てる時には母が癌になってしまったり、家を建てる時には私が原因不明の病で高熱を出して入院したことがあります。 そこで不思議に思い私はネットで検索していると、とあるブログに遭遇しました。そのブログには「仏教徒である先祖が諸行無常を実践し、子孫を難病にさせたりする」と書いてあったのです。 また、そのブログには、「先祖が異教に改宗したことを怒って子孫に災いをもたらしたり、無宗教という馬鹿げたことに怒って災いをもたらしてくる」とも書いてありました。 これには心当たりがあり、私の叔母(父の妹)は、数十年前にカルト系宗教徒(何系の宗教かは不明)であった過去があります。今はそういった宗教に属してはいないらしいのですが、叔母の部屋の棚にはマリア像がなぜか飾ってあるためキリスト教を信仰しているのではないかと私は思っています。 私の推測ですが、その叔母の異教信仰がそういった災いを招いているのではないかと思ってしまいました。 私はこの家の7代目であり、屋号等もあり歴史ある家です。そのため上記のようなことがあってもおかしくないのではと私は思っています。 そこで質問です。家を新築したり、リフォームするうえで身内に異教徒(仏教以外)の人がいた場合、それをきっかけに先祖から罰を与えられたりするのでしょうか?また、こういった不幸の解決方法はあるのでしょうか? 参考までにブログのURLを張っておきます。 http://tamaty-kingdom.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-ac94.html

有り難し有り難し 32
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死にたい

何度も申し訳ございません。 私は高校生(今から10年以上前)からギャルと言われる謎のくくりの中で調子に乗り、アホなことばかりし、しっかりと考えるともなく楽で楽しいことばかりをしてきてしまいました。今となっては後悔することだらけです。挙げ句の果てには中絶までしてしまいました。そのまま赤ちゃんのことを思い出すことも泣くこともなく、自分からとしっかりと向き合わずに日々を送ってしまいました。そして、「これ以上の悪はない」その一線を越えてしまったのだ…という感覚になってしまい、もう人生がどうでもよくなり、更にエスカレートするよにひどい堕落生活を送ってしまっていました。 それからと言うもの、しっかりと自分の人生を歩んでいる感覚がなく、生きている実感がなく今はカウンセリングに行っていますが、仕事を正社員で働いたこともなくもうすぐ30歳にもなるにもかかわらず、1年半程しか働いたことがなく(派遣社員で)それ以外はほとんど短期でしか働いておらず、大切な20代が空白のまま、社会人経験のない人生になってしまい、今後どうなるのか生きていくことができるのか…など考えるとただただ恐怖が襲ってきます。 部屋にはお地蔵様を、リビングには阿弥陀様を奉り、手を合わせているのですが、一心ではないからか、何故かこのまま手遅れで死んでしまうのではないかという気持ちがとれません。お地蔵は髪の毛ほどの善根でもあってもしっかりと見ているので積むように。とどこかで聞いたことがあるのですが、わたしの場合はもう、何が善根なのかもさっぱりわからなくなってしまいました。善根どころか当たり前のこと(働いたり)すらもできていないので、何が善根なんだか、もう善根なんて積めないのではないか、そもそもこれから先何をしても善根になんてならないのではないか、と思いもう救われることはない…と思って気力を失ってしまっています。この人生が嫌で嫌で、後悔だらけでやり直すにももう遅いと何故か体が直感的に感じ取ってしまっているため希望がありません。自分の罪のあまりの数や大きさに押し潰され、生きる気力がだんだんとなくなりもう死にたいです。今後どのような心持ちでいれば天命まで死なずに、生きて行くことができるでしょうか。 ご多忙の中申し訳ございませんが、アドバイスや渇などございましたら、何でも結構ですのでお待ちしております。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 61
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どうすれば学校に行けるのかわかりません

学校が嫌いで嫌いでとても行きたくありません。 元々小学4年生の後半くらいから学校への苦手意識が出てきてそれからずっと不登校で今更っていう恐怖心もあるんだと思います 行かなくちゃいけないとわかっていてもやっぱり学校には行きたくなくて、 正直行きたくない理由はないんです、親からはどうせめんどくさいからだろ?と言われてきたんですが、激しい嫌悪感と恐怖心があって 親や学校から「何故行けないんだ、何がダメなんだ、何が嫌なんだ」と聞かれる度ストレスを感じるようになり、 なんで行けないんだろう、理由がないってダメなことなのかな、もしかしたら自分がどこかで甘えているだけかもしれない、ととことんネガティブになっていってしまい 最終的には鬱になりかけるまでになってしまって、日常の些細なことでどうしようもないくらいに死にたくなったり、ふとした瞬間に自分はこれからどう生きていくんだろう、学校も行けずに生きていくことなんてできるのだろうか?こんな自分は生きていてはダメではないのだろうかと考えるようになりました 親からの「こんな子に育てたつもりは無い」や祖父からの「なんで弟はあんなに出来ていて愛想もいいのにお前はダメなんだ?」という言葉を聞くと怖くて怖くて いつか自分は親にも見放されて独りぼっちになってしまうのではないだろうか、親の思い通りに育たなかった自分は死ぬしかないのかもしれない、親不孝だ、死にたい、と何度も思うようになり遂に自傷行為に走りました 誰にも相談も出来ず、元々人に自分の話をするのがとても苦手で、親が連れていってくれた病院のカウンセラーさんや学校のカウンセラーさんにも本当のことは言えずにヘラヘラ笑っていたら結局独りになってしまい 友達にもネット上でもこの気持ちを話せずにいつもいつもただひとりで泣いて、親の前では何も無いように笑って振舞ってそれが本当に苦しくなってここならどうにかしてくれるかもしれない、と思いました 親にも友達にも相談が出来なくて、 というか誰も信用出来なくなってしまっていっつも疑心暗鬼で生きていて、 親が怖くて、人が怖くて 学校に行って親に見捨てられないようにしたいのにやっぱり行けないんです、怖いんです、震えてしまうから怖いんですなのに私の心の問題のせいでうじうじ閉じこもっていて、どうやったら私は学校に行けるようになるのでしょうか

有り難し有り難し 127
回答数回答 7
2025/02/25

このまま離婚したほうがよいかわからない

お時間を頂きありがとうございます。 自分の気持ちがわからなくなり質問させていただきます。 質問内容・離婚したほうがよいか?自分の気持ちがわからない。 結婚15年目ですが、不倫相手を好きになり妻と離婚を考えています。 付き合っている彼女も既婚者ですが離婚協議中で相手も離婚届はサインしているが相手旦那がお金の面で渋っているらしく離婚協議書にはサインしていない状況です。 離婚したいとは妻には伝えましたが彼女と一緒になりたいなど明確な理由は伝えていません。自分は女遊びがやめられず5回バレているため色々な人と遊びたいから離婚したいと伝えています。 5回目がバレた際には自分が慰謝料を200万ほど妻に払うことになっており今も払っています。 離婚話は進めており離婚協議書は養育費を月15万ほど渡す内容で作り妻に渡しました。 妻としては仕事についていなかったので就職し安定するまでは離婚できないと2年の間は離婚しないと話し合いできまりました。 妻のことは嫌いではないですが、今付き合っている彼女とデートしたり食事したりが楽しくて一緒になりたい気持ちがありますし、可愛いのでデートしてると嬉しいし優越感に浸れます。 ただ、妻から他の人を好きになるように頑張ると言われた際にヤキモチを妬いてしまったり、また性行為はしたいなど自分の気持ちがまったくわからない状況です。 離婚して不倫相手と一緒に添い遂げる確率はもの凄く低いと聞きましたし、彼女も出会い系で出会った人なのでまた浮気するかもしれない、彼女の子供とやっていけるのか不安なのも事実です。 我ながらとてつもなくクズだと思っていますが、性欲で動いてしまう人間なのかなと思います。 薬物治療やカウンセリングは進められましたが行うつもりもないので心から反省はしてないんだなと感じています。 どう気持ちの整理をつけたほうがよいか? 妻と離婚して彼女と一緒になったほうがよいか? 不倫相手への気持ちがいっ時のものなのか? 答えにくい質問で申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 81
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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

有り難し有り難し 239
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