いつもお世話になっております。 先日、よく顔を合わせる「スピ系」の女性に絡まれました。 彼女いわく、 「私お不動様の声が聞こえたの…❤️」(だまれ電波。) 「瞑想をすれば、あなたの中の悪いものが全部よくなるわよ」 (だったら医者とか存在しねーから) 「姿勢が悪い!もっとお腹!力!!チャクラ開かないわよ!! 笑ってんじゃない!真剣に言ってるんだからね!!」 (いや、姿勢にはかなり気を使っていますが何か?) こんな奴がいるから宗教が誤解されるんだよまったく。 そんな簡単に声が聞こえたりチャクラが開くなら、私なんか 今頃自衛隊から勲章か何かを頂いてても不思議はないはずです。 飛ぶ鳥を落とすほどの験力とかよく言いますよね? つまりそういうことです。 小娘だから騙せると思ったんでしょうか? これから予定が、と言って逃げた後すぐ職員さんの所へ 駆け込み報告。失礼を承知で 「やっぱり、変な人って来ますか」とお尋ねした所 「色んな人がお参りされるので、中には勿論そういう人もいます。 怖いと感じたら絶対に関わらないように! 『ひとりでお参りしたいんです…』とでも言って逃げて。 それでもしつこいようだったら受付所に飛び込んで来て!」 とお言葉を頂きました。 知人に、なぜ私にはこんなに変な人が寄ってくるんだろう? と聞いたら「拝んでる態度見てんじゃない?」とのこと。 正直、不快ですし、怖いです。今に騙されるんじゃないかと ヒヤヒヤします。 ご意見お待ちしています。
昨年、夫が自死しました。突然でした。兆候もありませんでした。 可愛い子供を残し、彼は去っていきました。どうしてこうなってしまったのかと後悔だけが残りますが、色々調べる中で彼の二面性が浮き彫りになりました。 49日までは、義父母の指示通りに従いました。何故なら、夫は跡取りでしたし、嫁の立場で余計なことは言うべきではないと判断したからです。でも、二転三転された挙句風当たりは酷いものでした。 当然のことと判断し対応するも、そう長くは続かず結局今では縁切り状態。百か日は欠席し、自分の身内のみでお墓参りをしました。 また、彼が眠るお墓は分家で、本家も同じお寺にあります。よくわかりませんが、昔からお寺さんとは親しくされていただいているようで、本来与えてもらえない戒名の階級?を「特別」つけてあげたと、御葬儀で何度も住職さんから繰り返されました。 ありがたいお話ではありますが、子供がいる御葬儀です。あの時は辛さでしかありませんでした。 納骨も済ませ、お位牌は義父母宅です。今後どのように私は夫を供養してあげたらよいのでしょうか。お墓参りは月に数回行けてますが、お経をお願いしたり相談する住職さんがいません。 また、お位牌に手を合わせることもできないので、夫に申し訳ない気持ちです。加えて、義父母と絶縁状態になってしまい、これもまた夫に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
こんにちは。 文章がわかりづらいかもしれませんが、ご相談があります。 先日おじが亡くなったという報告が母から来ました。 正直「死」に対してあまり実感がなく、高校生の時の祖父の死で少しずつ実感が湧き始めました。 今回のおじの死は交通事故らしく私は年に数回ほどしか会えなかったので悲しいはずなのに自分の感情がごちゃごちゃになって悲しいのか何も感じていないのかわからないでいます。 しかし父(おじの兄)といとこ(おじの子供)のことを考えるとつらくて本当に涙が止まらなくなります。 私は現在一人暮らしをしていて両親や父方の親戚は外国に住んでいます。そのためお葬式にもでられません。また、半年ほど前に大好きだった愛犬が亡くなった時もコロナの関係で1年以上会えないままのお別れになってしまいました。 今回のおじの死で愛犬のことも重なってしまいすごく辛いです。友達にも心配をかけたくないので相談はできません。しかしいつも通りに接することもできず余計自己嫌悪に陥ってしまっています。早く今まで通りに振る舞えるようにしたいのですが正直今は無理です。でも心配はされたくないです。両親もきっと今は辛いはずなので言い難いです。 大切な人を看取れずとても悔しく悲しい感情をどこに当てればいいのかわからないです。またもしもっと身近な人が同じように死んでしまった時、自分は遠くに住んでいるせいで看取ることができなかったらと考えるととても不安です。 どうしたらこの不安や悲しみや悔しさを和らげる(?)ことができるのでしょうか。 一方的に今の感情を書き留めたら長文になってしまいましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。
こんばんは。いつもお世話になっています。 最近、漠然とした不安、情緒不安定、などで、助けてほしいと思っても頭が働かず、どうハスノハに質問を書いたらよいかわかりませんでした。 やっと不安定の理由がわかりました。 最近のコロナ騒ぎで不安になっていました。私は免疫系の基礎疾患があり、コロナ感染=死です。 感染者が増えてくるに従ってじりじりと自分に死が近づいているとかんじてしまいます。 死ぬのがこわいと心から感じています。死ぬことは怖くないと前は思っていたのに嘘みたいです。 もうじき来るかもしれない死への恐怖、死神が近づいてくるような恐怖、死刑台に立たされているようです。どう恐怖と向き合い受け入れたらよいのでしょう。
最近俳優の阿藤快さんが亡くなりました。阿藤快さんは寝ながらなくなったそうです。そして僕はこのまま寝たら死ぬんじゃないか、など今本当に死が怖いです。どうしたらいいかわかりません。死が怖いのを克服したいです。 どうしたらいいでしょうか??
死ぬのが怖いです。いつ死ぬのかわからないし,あと何年人生があるのかとかもわからないけど,死が怖いです。死後の世界がどうなっているのかもわからないし,とにかく怖いです。人間はいつかは死ななければならないし,親もいつかは死んでしまうとわかっているのですが、死ぬのが怖いです。自分もいつかは死ぬんだなぁとふと思うことがあって,怖いです。一人で夜泣いてしまいます。死は怖いですか?
表題の「死ぬとどうなるのか」わかった気がしてしまいます。 死んで戻ってきた人はいないのでどうなるのかわかりません。 というのが一般的な説だと思います。 しかし私は前年事故により脳に損傷をうけ、1日ごとに記憶がなくなり、さらには事故直後には赤ちゃんのようになり、1週間かけて今の年齢まで戻って行ったと聞きました。 もちろん覚えていません。 周りから聞いた話です。 この、覚えていないこと。 思い出さない。覚えない。何も無い。状態が死だと思ってしまいました。 だって科学的には死んだら脳が動かない。ということですよね。 いままでも知識や常識としては、そうである。ということを知っていましたが、今回の事故で実感を持ってそうなんだ!と信じるようになってしまいました。 何もなくなるということは底知れない闇の中に放り投げられるようで恐ろしいです。仏教のいうように、輪廻転生を信じられたらよいのに。と思います。 家族や友人には死んで無いからわかったことにはならないじゃん。 といわれます。 でも私は答えが欲しいです。 もしくは宗教を信じられたらよいのに。 と思います。
現在大学生四年生です。ふとした瞬間に人は死んだらどうなるのかなと考え込んでしまいます。 死んでしまったら、今のわたしの意識は消えてしまいますよね。だとしたら今頑張っていることも、それを感じる意識がないのですから無駄なことになるのではないでしょうか。 わたしは、わたしが消えてしまうことがとてもこわいです。最近こんなことを考えてばかりで、がんばろう!と思っても、すぐ「頑張っても死んだら関係ないよなあ」と思ってしまい、怖くなって何もできなくなってしまいます。 恥ずかしいことに現在就活がうまくいっておらず、本当ならもっと努力をしなければならないのに、無意識にそこから逃避しようとしてこんなことを考えてしまうのかもしれません。 今考えなくていいことを考えてしまい頑張れない自分が情けないです。この悩みに区切りをつけて、また頑張れるようになりたいです。 破茶滅茶な文になってしまいすみません。
もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。
私は死ぬのが怖くてたまらないのです。病気にも神経質で、ちょっと具合が悪いところがあると、がんとか恐ろしい病気ではないかと、すぐ病院に行ってしまいます。始終死のことを心配していて不安になり、こんなに苦しいなら死んだほうがまし、と矛盾した考えに陥ってしまいます。死んだほうがまし、と考えるのなら、死ぬことは本当は怖くないのかなと、自分の気持ちがわからなくなります。精神的な病気を持っているので、そのせいかもしれませんが、こんな私に、心が平穏になるような、アドバイスを頂けたらと思います。どうしたら、死が怖くなくなるでしょうか?主人は死があまり怖くないといいます。50歳にもなると、死の恐怖は落ち着くと聞きます。それともみんな死が怖いのでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
縁があって相談できることをありがたく思います、結婚して18年です、子供は3人、結婚して、親になってわかる、親心、子供ができて、分かる、この心、わかっている、14年前に父方のお父さん、私にとってはおじいちゃんが亡くなりこの死が、私の心を大きな傷となり、今も思い出すとおえつが出るくらい悲しみが心を支配する、身内の死がこれほど悲しくて辛いのは十分わかる、 わかっていながら、自分の子供、主人には平気で死んでしまえとか、汚い言葉、毎日のように、放つ自分、 毎日寝る前手を合わせ毎日反省、わかっているのに、なんでか、自分がすごく汚い心だから、週末はなるべく、神社や、パワースポットと言われる所へ足を運び、感謝する、お線香の匂いに癒され、嫌なこと忘れる事ができる、父が病気になり、すぐは死なないけど、死と向き合う父をみていると、さらに死に恐怖、自分も死ぬんじゃないかの恐怖、不安、でも、築地本願寺に行ったとき、お線香の匂いでその恐怖や、不安が、一気に吹き飛んだ、だから、神社、パワースポットに足を運ぶのは、感謝の為、わかっている、 長女は16歳になり、日に日に反抗がすごい、薬やお酒に、興味持ち始めて、毎日怒鳴り、死んでしまえと思います、私自身反抗期、親に対する口の利き方、ちゃんとしていたから、長女が私に対する口の利き方や、態度が、ゆるせない、尊敬や、優しさが感じられない、毎日怒鳴り、汚い言葉をぶつける、誰一人私をいたわり、優しい言葉かけてくれない、有難う、あたりまえだけど、言われたい、心と、吐き出す言葉が正反対で苦しい
亡くなった悪友は51歳という若さで単独事故で亡くなりました。 「関係性」 相手には家庭もあり、愛人も数人居るような元気な方でした。愛人ではないが、時間が合えば出かけたり体の関係もあり遊んだりしていた仲でした。 私が再婚して連絡回数が減り1年に3回程になっていた。 何故か久々に連絡を取りたくなりめ連絡先したが返事が無くて、共通の友人に連絡とりたいと話しして伝えておくね!と翌日亡くなりました。 「デジャブ」 そして葬式準備していたら、ふと自分が喪服を着る自分の夢を思い出した。 この姿、手に持っているもの同じでした。この断片的な夢は数カ月前見た夢で何か記憶に残る動物が出ており、目が冷めた後夢占いで調べたので記憶にかすかに残ってました。 その夢占いには、「試練、大切な人が亡くなる」と言う書いてありましたがそんな事あるはずないとスルーした事がありました。 この出来事が気になり調べていたら ここの仏教の教えをしることになり楽になりましたが、仏教の教えではあり得ないが 私の様な出来事があると、この人の運命は決まっていたんじゃないかと思いました。 私が経験したデジャブのような事は 「なぜ、ひとも特定して事故死する事を見れなかったんだ、」など悔みました。 だか、ここの悟りを読んで 私に対して「試練」がくるよと教えててくれただけでもありがたいと思えるようになりました。 「疑問」 この出来事はデジャブと言うのか、守護霊さんか何かが教えてくれたのでしょうか? この方は、亡くなる運命が決まっていたんじゃないかと思えましたがどう思われますか?
お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。
死ぬことが怖くて、そのことだけが頭の中で渦巻いています。 死に至るまでの過程についてはそれ程まで怖くありません。 お迎え現象が私にも来てくれたら嬉しいなというだけです。 ただ、死が怖いです。 死んでしまうと自分の意識がなくなってしまう、愛する人と会えなくなるのが恐ろしいです。 死後の世界があると信じたいですが、自分の意識は脳があるからこそ成立しうるもので、死んでしまったら脳はなくなってしまいます。 そうしたら自分というものはなくなってしまうと考えてしまいます。 そう思うと死が恐ろしくて堪らないです。 80までいきたとしてもあと50年。 その50年があと50年しかないと考えてしまいます。 死が怖いです。 けれども、ずっと死を恐れて生きていくよりも死をポジティブに受け入れて生きたほうが人生を充実できのでは?と思っています。 ただ、死についてあまりポジティブな意見を見ることができません。 死についてポジティブな意見をいだけませんでしょうか。 また、死後の世界があるかどうかということにも意見を聞きたいです。
高校二年生です。 質問のカテゴリが少しズレているかもしれません、すみません。 相談というよりも、誰かに分かってほしいという思いの投稿です。 突然ですが、私たちは各々『自我』をもって、それぞれ自分の見る世界があって、色々なことを考えたり感じながら生活しています。よね。 自分以外の人がもつ自我を『他我』と呼びますが、私はこれがすごくこわいです。 うまく説明ができません。 友達に理解してもらうこともできませんでした。 ネットで調べてもそれらしい答えは見つかりませんでした。 例えの1つなのですが、 ごくたまに、一緒に生活している親のことを、『他人』と認識してしまうことがあります。 「あ、この人も私と同じ時間で別の人生を生きている1人の人間で、」 「私から見た『親』は親には分からない、そして同じように 今このとき、親から見た『私』がたしかに存在しているんだ」 そう思って、親のことを何か得体の知れない生き物のように、生々しいものに感じて怖くなってしまいます。 何を言っているかわからない自覚はあります。 私は、私のまわりのひと全部、なにかRPGのキャラクターのように認識しているのかもしれません。 それぞれにそれぞれの意識や感情や人生があることが、こわいんです。 自分でも、どうしてこんなに心の中で他人のことを怖がってしまうのか分かりません。 死んだ後の世界や自分の行く末がわからないことが怖いように、人の意識や心なんて絶対にわからないことだから、それが怖いのでしょうか。 どちらにせよ私は私のことを寂しい人間だと思っています。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
人生とは?と聞かれたらどう答えますか? こちら40代男性ですが、この年代になるとある程度親しい人が亡くなったりすることがあり人生について考えることが非常に増えました。 先日も年の近い人が急に亡くなり何とも複雑な心境です。 人間ですから死ぬことは避けられませんがどう考えていけば良いか分からなくなってしまいました。 目の前のことを楽しめば良いという人もいますが時々虚しくなります。
前回も回答ありがとうございました。 今では前回よりもだいぶ前向きになれました。 私は今でも死ぬのが怖いです。 人はいずれ死ぬ。わかってます。理解もしてます。 できれば、おばあさんになるまで生きて今世に悔いがないように生きたいと思っています。 ですが、最近頭から離れないのは、災害での死です。 私は、東京に住んでいます。 いつ来るかもわからない、そもそも私が生きているときに来るかもわからない首都直下型の地震に怯えています。 今は建物もだいぶ強化されていて、被害は予想よりも少ないかもしれない。実際被害は予想より少ないかもしれない。 被害にあわれる方も、考え方が悪いかもしれませんが、一握りだけです。 最近は、その一握りに入らないように精一杯生きていこうと思っています。 ですが、もし建物が倒れてきてつぶされてしまったら、火災に巻き込まれて死んでしまったら、水害に巻き込まれて死んでしまったら、予想よりも被害が大きかったら。 最悪なケースしか考えられません。自分が生きている未来が見えません。 死んでも、死後で昔一緒に暮らしていた愛犬や愛猫、おじいちゃんたちが迎えてくれるかもしれない、そう考えると悪くないかなと考えることもあります。 でもやっぱり怖いものは怖いです。死ぬときのことを考えすぎて日々しんどいです。 想像するだけでも火災は熱いし、水災は苦しいし、潰されるのは嫌だし。 死について両親に言うと「考えるからだよ」「身近な人がいなくなると怖くなくなるよ」と言います。友人は「その時にならないと分からなくない?」と言います。言っていることはわかりますが、怖いものは怖いです。 一か月ほど前までは、周りの人と同じように楽しく暮らしていたのに、コロナで暇になった今、こういうことしか考えられなくなりました。 少しでも心を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか。前向きに生きたいです。 相変わらず読みにくい文章ですみません。
従兄弟の娘が亡くなりました。 もうすぐ2歳になる女の子でした。4歳のお兄ちゃんもいます。 明後日お葬式があるのですが、自分の息子たち(4歳男、3歳女)を参列させるべきか迷っています。 私の両親は無理に参列させなくてもいいのでは、と言っていますが、あまりに突然の死で、絶望の淵に立っているであろう当人達のことを考えると、子供達と一緒に悲しんであげたほうがいいのでは、と私は考えています。 これは私のエゴなのでしょうか?
先日同居している祖父が亡くなりました。ですが、その時の対応に後悔しています。 私と叔父は看取れましたが、一番祖父と関係が近かった母と祖母は看取れませんでした。 その日、母は買い物をしてから家に帰っていました。いつも通り母が会社からどこにも寄らず帰ってきて、祖母を連れて病院に来ていれば祖父の最期に間に合っていたと思います。 私は医療を学んでいるので、祖父が亡くなる1時間ほど前、祖父の状態の変化から、保ってあと数時間かもしれないと思っていました。ただ、まだ学生なので自信もなく、母や祖母を無駄に心配させたくないと思い、その時点では電話もしませんでした。 今思うと、あの時電話してあげていれば、母と祖母は祖父の最期に間に合っていたのではないかと思います。母も祖母も、あの時買い物していなければ間に合ったと後悔しています。 母と祖母には、異変を感じていたことは言っていません。これから先も一生言えません。墓まで持っていくつもりです。 二人には、祖父は母と祖母に最期の瞬間を見せたくないから、二人以外に祖父と同居している私と叔父がいる時に亡くなったのではないかと言っています。少しでも心が楽になるのではと思ってのことです。 ですが、私の中では異変を感じた時に呼んであげていればと後悔しかありません。 今となっては祖父の気持ちも分かりませんので、母や祖母が死の瞬間を見てショックを受けないようにだとか、急いで来て事故をしないように考えてくれていたのかもしれませんが、本当は祖母や母にそばにいて欲しかったのかもしれません。 母と祖母への対応はこれでよかったのでしょうか。少しでも後悔をしないように、心を楽にしてあげたいです。