初めまして。 私は高校を中退し、高卒認定資格を取り、22歳で大学に入学し現在大学生でアパートで1人暮らしをしています。 高校を中退したのは学校に馴染めず、次第に学校に行かなくなり、そこからうつ病と強迫性障害を発症し、大学入学に至るまでの期間は空白の期間になっています。 自分自身この空白の期間はとても苦しいもので、強迫性障害の症状が酷くて日常生活や外出もままならない時期もありました。 その影響で通院も途中でやめてしまい、現在は普通に生活できる状態になりましたが通院によって完治したわけでは無いのが気掛かりになっています。 また、高卒認定資格と大学受験は独学で勉強し、偏差値は高くないですが現実的に自分でも入学できそうな狙っていた大学に入学できました。 こんな自分を見捨てずに今に至るまで支援してくれた両親にはとても感謝しています。 しかし、個人的にはやっとのことで大学に入学したと思っているのですが、その反面、この空白の期間の出来事は甘えなんじゃないかと考えてしまいます。 自分にとってはとても苦しい時期でしたが、他人には理解されないものだと思ってしまいます。 事実自分の人生はもう終わったんだと投げ出していた時期もありました。 そういった時期も含めると甘えていただけなんじゃないかと思ってしまいます。 もっと早く病気から回復できたんじゃないか、もっと早く大学に入れたんじゃないか、と思ってしまいます。 もっとうまく出来なかったのかと後悔してしまいます。 そのため、自分で自分を認められず、大学の友人にも自分は遅く大学に入ったのだと告げられずにいます。 自分をごまかして高卒でそのまま大学に進学したんだという振る舞いをしてしまったこともあります。 仮に誰かに認められなくとも、自分で自分を認めてやりたいです。 どうしたらこんな自分自身を認めることが出来るでしょうか。 どなたかご意見頂けたらと思っています。 よろしくお願いします。
現実的な幸せと、非現実的な幸せをどちらも求めてしまい、私の欲求は両者の間をグラグラしているなぁと自分で思っています。 そして私は目的と行動は一致していなければならないと考えるのですが、どちらも求めてしまうため、どのように行動すればいいのか分からなくなってしまうときがあります。 目的に向かって行動するためには、現実的な幸せか、非現実的な幸せ、どちらかを選ばなければならないのでしょうか。
何もしなければ人間は地獄に堕ちるが、助かる方法もあると聞きました。 その方法とは具体的に何をすればいいのですか?
お忙しいところ閲覧ありがとう御座います。 私の生業は絵を描く関係の仕事なのですが このたび、友人を自殺で失くし、供養のため 何かできることが無いかと思い、写仏や仏画等による供養があることを知りました お地蔵様や観音様を好んで描いているのですが 本当に供養になっているのでしょうか 自殺した友人のためになっているのか、 自己満足になっているだけなのか、 よろしければお教えください。
利己的な質問です。 最近、何の罪もない子供を殺したくなります。なぜかというと、それが自分に可能な、もっとも世の中を不幸にできる方法だと思うからです。 値打ちのない人生でした。 幼少期は日常的な虐待。親が相手の親に嫌われて、友達もいませんでした。今、故郷に帰っても、思い出話できる人はいません。 中学生の頃に、激化した家庭内暴力の末、両親は離婚。電灯もつかない部屋で貧乏生活をしました。 それでも若い頃は人生をなんとかしたかったので、一応は頑張りました。一流大学にも合格し、仕事も、土日を潰して学んだおかげで、搾取されるばかりの派遣社員になった今でも食うには困りません。 ただ、もともと虚弱だった体はもう、喜びを知りません。苦痛だけがあります。 気がつくと、大切なものは何もありませんでした。友人、家族、恋人、誇れる仕事、実績や思い出。皆無です。 人並みにそれらを大事にしようとして、随分痛い目をみました。時間とお金と健康を犠牲にして、裏切り、搾取が一通り済んで、気付くと周囲には何もありません。 これが自分の本当の姿だったんだ、とわかりました。 もうこの年齢です。未来もありません。富も地位も名誉も愛情も。 人生の敗北はもう確定しました。仮に今から宝くじに当選しても、大して意味がないくらいに。 代わりに恨みだけは山ほどあります。ここに至って気付きました。 私は三つの誤りを犯しました。 生まれたこと。自殺しなかったこと。なんとかしようとしたこと。 努力しようがなんだろうが、私は出来損ないだったのです。 そして、私はこの世界に何の責任もありません。 大事なものは何も残っていない、でもなんとなく腹が立つ、であれば面白半分に壊しても構わないのではないか? そもそも私はもう破滅するしかないのだから、私にとっては世界の終末と同じです。 被害者面などしません。弱いのが悪いのです。なら、私に傷つけられる誰かがいても、その本人が悪いだけでしょう。 あとは苦しみながらゆっくり死んでいくだけ。なら最後に自由を満喫して、思う存分命を嘲って、ちょっとだけサッパリしていこうと思っています。 ただ、他にもっといいプランがありますでしょうか? あればご教示ください。
お盆で、お墓参りに行って、またすぐにお彼岸でお墓参りに行くのはなぜですか?
はじめまして。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 老後は仏門に入って生涯修行をしたいということを心の支えにしている者です。 そう思うきっかけになたのは、現在同棲生活をしている男性との悩みです(彼にはその場しのぎの嘘をつく癖があり、彼を信頼することができなくなってしまいました)。 私自身、過去には結婚離婚を繰り返し、不倫もしてしまい、若い頃にはたくさん悪いことをしてしまいました。 そういう自分だから、大好きな人に嘘をつかれるというようなことになるのか、自分の幸せは恋愛関係等以外のところに見つける方が真の心の安らぎを見つけられるのではないか、といろいろ考えておりましたところ、心を清めたいと思う気持ちから、般若心経を唱えたり写経していくうちに少しずつ心が整ってきたと感じるようになりました。 そして、老後はお寺で生涯修行をさせていただきたいと思うようになりました。 お坊様方は、このような私の考えを甘いと思われるでしょうか・・・? 私は、今を生きるための心の支えを将来仏門に入ることとさせていただき、彼との毎日を感謝しながら過ごしたいと思っております。 将来仏門に入ることが許されるような日々の生き方のヒントをいただけましたら有難く存じます。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ありがとうございます。
婚約者を亡くして5ヶ月が経とうとしています。 仕事も再開し、元の生活に戻りつつありますが、家に帰った後や休みの時など、無性にさみしさがこみあげます。 仕事が忙しい上に結婚のことでさらに無理をさせてしまったのかもしれない、子供がほしいと私が言ったばかりに高血圧の薬を飲まずにいてしまったのかもしれない、などと私と出会わなかったら彼は生きていたのかもしれないと考えてしまいます。 結婚の話を伝えていた友人にも彼の死を伝えられていません。 まだ自分で伝える勇気がないということと、友人たちに私がかわいそうだと思われたくないという気持ちがあります。結婚の話をしていたとても幸せな私のままの記憶でいてほしいという、私のただのわがままです。 どうしようもない位悲しくて大泣きをする日もあれば、泣かずにいられる日もあります。 いつになれば、この悲しい出来事にきちんと向き合えて、気持ちにブレがなく考えられるのでしょうか。 質問にまとまりがなく申し訳ありません。 愛する人を亡くしたものへ、生きるための力をいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
出釈迦寺の弘法大師(真魚)のことについて調べています。 以下伝説の内容です ------------------------- 弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り 「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」 と願い、断崖絶壁から飛び降りました。 すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。 天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。 -------------------------------------------------------- この 「釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。」 という意味がわかりません。 生きながらにして仏になったということですか? 空海さんは即身仏になる前から仏だったということでしょうか? 誰かわかりやすく教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
自分は悩みや不安があるとき、 物事を複雑にかんがえてしまい、頭が混乱してしまうのが 最近の悩みです。 どのようにしたら単純明快に物事を考えることができるでしょうか。 悩みがあっても単純、シンプルに考えて シンプルに生きたいと願うのですが、どうしても悩み始めると いろいろ考えてしまいます。 よろしくお願いいたします。
51歳女性です。 私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。 ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。 生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。 そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか? ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。 ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。 両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか? また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか? それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。
無明の人と、無明じゃない人って、どう違うのですか? どうして自分は無明になってしまったのか、 なにが原因だったのか、なにがいけなかったのか、よくわかりません。 無明に陥ることがない人もいるのですか?
与えて頂いた命ですが、限界です。 この世間から離れ、仏門を目指す事は出来ますか。
精神科で闘病しており、生活保護をいただく予定です。こんな弱者のくせに、私には世界の救済と全ての霊魂の永遠の幸福という夢があります。自分が救われて永遠に幸福になることは大前提とし、それだけでよしとせずに全ての魂が幸せな世界です。大乗仏教的と言えるなら嬉しく、ゆえに死後は世界救済のお手伝いのために弥勒菩薩様やイエス様などの救世主の部下になりたいとさえ思います。 しかし地上での私は霊能力も超能力も無いので、ボランティアを趣味にしています。物理的な世界から見ればちっぽけな人間がボランティアをして生きたところで救われる人間の数などたかが知れており全ての人を救うなど到底無理なのですが、仏の世界から見れば私の生き方は世界の救済の役に立てるのだろうか、「世界の救済と自分を含めた全ての霊魂の永遠の幸福、そのためにその身を捧げる」という私の生き方を貫いた先に、本当に世界が救われみんなが永遠に幸福になれる未来はやってくるのだろうかと疑問に思い、登録させていただきました。 ご回答よろしくお願いいたします。
ふと思うのですが、因果応報とは本当にあるものなのでしょうか。。 嫌なことをされた思い出がよぎるたび、正直、バチでも当たれ、とか、同じような目にあえばいいのに、とか思ってしまいます。 でもきっと、私だけが恨みにまみれて、相手は何もなく普通に生きてると思います。 それか、同じような目に仮にあったとしても、私に知る機会はありません。 私だって主人に出会ってからは確かに幸せだけれど、 失ったものを考えると、悔しくて悔しくて仕方ありません。 過去の他の方の質問で、バチあたれ!と思うのは良くないと知りました。 確かに、そう思った矢先に石につまずくようなこともありますし、よくないみたいです。 踏んだり蹴ったりです。 もちろん仕返しはできません。できたとしても、私の主義に反します。 じゃあ、どういう心構えでいるのが良いのでしょうか。 恨みがつらく、解決に自殺を考えることが時々あるのです。(今はありません)
はじめまして。 39歳の男です。夫婦二人で子供はおりません。 2ヶ月程前から、自分にも必ずやってくる死についての恐怖からパニックになったりし、いつでもそれが頭から離れなくなってしまい、精神をおかしくしてしまいました。私は小さな頃から死ぬ事に関して人一倍恐怖として感じていたのですが、これまではただ考えないようにできていただけだったと思います。半年程前から母親の認知症介護や、子供が流産したりで授からないなど、いろいろな出来事から、人の生き死にを真剣に考えるようになり、考えないようにしてきた、いずれくるであろう避けられない自分の死の恐怖が夢の中でも襲ってくるようになってしまい、今は精神科に通い薬を処方して頂いておりますが、良くなる気配はありません。今は前のように笑う事もできなくなってしまい、仕事にも支障をきたす状況になってしまい、これからさきの不安などで自分自身どうして良いのかもわからない状態になってしまいました。 いろいろな死生観の本を読んだりしましたが、頭では今をしっかり生きるという必要性を理解できても、心の中の死の恐怖が勝ってしまっている状況です。仏教を勉強してみようかと思っていますが、何か少しでもアドバイスを頂けたら幸いです。
お坊さん 隠者、厭世者、世捨て人、ニートの違いはなんでしょうか。 単純な興味本位の質問で恐縮です。 最初の2つは仏教やキリスト教など、なんらかの宗教を信じて、修行を実践している人のようなイメージがあるのですが、現代でもいらっしゃるのでしょうか。何を目的に、どんなことをして日々を過ごしたら、上記の人々のようになるのでしょうか。
いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。