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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2156件

自分自身を認められません

初めまして。 私は高校を中退し、高卒認定資格を取り、22歳で大学に入学し現在大学生でアパートで1人暮らしをしています。 高校を中退したのは学校に馴染めず、次第に学校に行かなくなり、そこからうつ病と強迫性障害を発症し、大学入学に至るまでの期間は空白の期間になっています。 自分自身この空白の期間はとても苦しいもので、強迫性障害の症状が酷くて日常生活や外出もままならない時期もありました。 その影響で通院も途中でやめてしまい、現在は普通に生活できる状態になりましたが通院によって完治したわけでは無いのが気掛かりになっています。 また、高卒認定資格と大学受験は独学で勉強し、偏差値は高くないですが現実的に自分でも入学できそうな狙っていた大学に入学できました。 こんな自分を見捨てずに今に至るまで支援してくれた両親にはとても感謝しています。 しかし、個人的にはやっとのことで大学に入学したと思っているのですが、その反面、この空白の期間の出来事は甘えなんじゃないかと考えてしまいます。 自分にとってはとても苦しい時期でしたが、他人には理解されないものだと思ってしまいます。 事実自分の人生はもう終わったんだと投げ出していた時期もありました。 そういった時期も含めると甘えていただけなんじゃないかと思ってしまいます。 もっと早く病気から回復できたんじゃないか、もっと早く大学に入れたんじゃないか、と思ってしまいます。 もっとうまく出来なかったのかと後悔してしまいます。 そのため、自分で自分を認められず、大学の友人にも自分は遅く大学に入ったのだと告げられずにいます。 自分をごまかして高卒でそのまま大学に進学したんだという振る舞いをしてしまったこともあります。 仮に誰かに認められなくとも、自分で自分を認めてやりたいです。 どうしたらこんな自分自身を認めることが出来るでしょうか。 どなたかご意見頂けたらと思っています。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 37
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手遅れの人生、せめて憂さ晴らししたいが、他にやることは?

利己的な質問です。 最近、何の罪もない子供を殺したくなります。なぜかというと、それが自分に可能な、もっとも世の中を不幸にできる方法だと思うからです。 値打ちのない人生でした。 幼少期は日常的な虐待。親が相手の親に嫌われて、友達もいませんでした。今、故郷に帰っても、思い出話できる人はいません。 中学生の頃に、激化した家庭内暴力の末、両親は離婚。電灯もつかない部屋で貧乏生活をしました。 それでも若い頃は人生をなんとかしたかったので、一応は頑張りました。一流大学にも合格し、仕事も、土日を潰して学んだおかげで、搾取されるばかりの派遣社員になった今でも食うには困りません。 ただ、もともと虚弱だった体はもう、喜びを知りません。苦痛だけがあります。 気がつくと、大切なものは何もありませんでした。友人、家族、恋人、誇れる仕事、実績や思い出。皆無です。 人並みにそれらを大事にしようとして、随分痛い目をみました。時間とお金と健康を犠牲にして、裏切り、搾取が一通り済んで、気付くと周囲には何もありません。 これが自分の本当の姿だったんだ、とわかりました。 もうこの年齢です。未来もありません。富も地位も名誉も愛情も。 人生の敗北はもう確定しました。仮に今から宝くじに当選しても、大して意味がないくらいに。 代わりに恨みだけは山ほどあります。ここに至って気付きました。 私は三つの誤りを犯しました。 生まれたこと。自殺しなかったこと。なんとかしようとしたこと。 努力しようがなんだろうが、私は出来損ないだったのです。 そして、私はこの世界に何の責任もありません。 大事なものは何も残っていない、でもなんとなく腹が立つ、であれば面白半分に壊しても構わないのではないか? そもそも私はもう破滅するしかないのだから、私にとっては世界の終末と同じです。 被害者面などしません。弱いのが悪いのです。なら、私に傷つけられる誰かがいても、その本人が悪いだけでしょう。 あとは苦しみながらゆっくり死んでいくだけ。なら最後に自由を満喫して、思う存分命を嘲って、ちょっとだけサッパリしていこうと思っています。 ただ、他にもっといいプランがありますでしょうか? あればご教示ください。

有り難し有り難し 26
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老後に仏門に入ることはできますか

はじめまして。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 老後は仏門に入って生涯修行をしたいということを心の支えにしている者です。 そう思うきっかけになたのは、現在同棲生活をしている男性との悩みです(彼にはその場しのぎの嘘をつく癖があり、彼を信頼することができなくなってしまいました)。 私自身、過去には結婚離婚を繰り返し、不倫もしてしまい、若い頃にはたくさん悪いことをしてしまいました。 そういう自分だから、大好きな人に嘘をつかれるというようなことになるのか、自分の幸せは恋愛関係等以外のところに見つける方が真の心の安らぎを見つけられるのではないか、といろいろ考えておりましたところ、心を清めたいと思う気持ちから、般若心経を唱えたり写経していくうちに少しずつ心が整ってきたと感じるようになりました。 そして、老後はお寺で生涯修行をさせていただきたいと思うようになりました。 お坊様方は、このような私の考えを甘いと思われるでしょうか・・・? 私は、今を生きるための心の支えを将来仏門に入ることとさせていただき、彼との毎日を感謝しながら過ごしたいと思っております。 将来仏門に入ることが許されるような日々の生き方のヒントをいただけましたら有難く存じます。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ありがとうございます。

有り難し有り難し 45
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2025/02/05

仏教において、慈悲の心とは

51歳女性です。 私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。 ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。 生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。 そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか? ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。 ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。 両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか? また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか? それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。

有り難し有り難し 13
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死の恐怖ばかり考えてしまい精神と心身を病んでしまいました。

はじめまして。 39歳の男です。夫婦二人で子供はおりません。 2ヶ月程前から、自分にも必ずやってくる死についての恐怖からパニックになったりし、いつでもそれが頭から離れなくなってしまい、精神をおかしくしてしまいました。私は小さな頃から死ぬ事に関して人一倍恐怖として感じていたのですが、これまではただ考えないようにできていただけだったと思います。半年程前から母親の認知症介護や、子供が流産したりで授からないなど、いろいろな出来事から、人の生き死にを真剣に考えるようになり、考えないようにしてきた、いずれくるであろう避けられない自分の死の恐怖が夢の中でも襲ってくるようになってしまい、今は精神科に通い薬を処方して頂いておりますが、良くなる気配はありません。今は前のように笑う事もできなくなってしまい、仕事にも支障をきたす状況になってしまい、これからさきの不安などで自分自身どうして良いのかもわからない状態になってしまいました。 いろいろな死生観の本を読んだりしましたが、頭では今をしっかり生きるという必要性を理解できても、心の中の死の恐怖が勝ってしまっている状況です。仏教を勉強してみようかと思っていますが、何か少しでもアドバイスを頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 146
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お釈迦さまが自殺をとめられた話について

インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

有り難し有り難し 104
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