初めまして。 先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。 そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。 加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。 実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。 よろしくお願いいたします!
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
寒くなって食べ物がなくなってきたせいか、近頃市街に動物が頻繁に出現します。そして不運にも交通事故に合い命を落とす動物が増えています。 先日、家の前に無残にも車で轢かれたであろう犬二匹がいました。親子であろうかと思います。死んでも尚、親犬が子犬に寄り添っている姿をみて強い衝撃を受けました。 死骸は清掃の方が来られて回収されましたが、私には複雑な感情が混じり合っていました。動物であろうと子を大切に思う親の愛への感動。命を奪われた悲しみ。人間の勝手で命を奪ったという行き場のない怒り。 来世があるのであれば、この親子に次は幸せな家庭で暮らしてほしいと強く願います。 動物の供養の正しい方法をご教授願えないでしょうか? 未熟な自分に出来ることは何かないでしょうか? よろしくお願いいたします。
私はゲイです。 それゆえに、ヘイトスピーチの攻撃対象にされます。 またご縁があって、複数の在日外国人の友人、顔見知り、同僚がいます。 彼らも聞くに堪えないヘイトに晒されています。 外国人へのヘイトも不愉快ですが、ゲイである私はLGBTがヘイトされると、自分のことなので、その数十倍不愉快です。 なので、LGBT以上にヘイトに晒されている彼らに感情移入してしまい、ひどく不愉快になります。 昔は、「嫌なら見るな」で何とかなったのですが、最近はツイッターを見てもSNSを見ても、ヘイトだらけです。仏教書を買うために本屋に行っても、店頭にひどい本が並んでいます。 政治とは無関係の趣味のサイトですら、「何でこんなところでまで?」とヘイトを見せられることも、しばしばです。 「私たちが一体あなたに何をしたと言うのですか?」と言いたいほど、酷い言葉もぶつけられました。 とても引用できない下品な罵倒もしょっちゅうです。 しばしば彼らと議論もしましたが、彼らをますます怒らせて、憎悪を深めただけでした。 喧嘩腰にならないように注意しながら、フォローを入れながら誤解をとこうとしましたが、まったくの徒労に終わりました。 議論をしても、かえってヘイトを増幅させるだけでは? と最近思うようになりました。 友人には「あいつらに俺達の気持ちなんて永遠に分からない。関わっても傷付けられるだけだ、ほっとけ!」と言う人もいます。 また虹色の旗を振りながら、「根気よく理解を求める」と言う友人もいます。 私はと言いますと、ネットの議論は時間の無駄と考え、我慢するようにしています。 でもたまに我慢できなくなって、つい反論や説得を試みてしまうこともあります。そのたびに酷い言葉をぶつけられ、落ち込みます。 ぼく達マイノリティは、ヘイトにどう対処すべきなのでしょうか? 長年の悩みです。
死んだら、自分の行いによって、六道のどれかの道を 選ぶことになるのでしょうか。 その中の選択肢に地獄もありますが、自殺した罪で強制的に 送られることはないけど行いによってはそこに行くことに なる場合もあるのですよね? どういうことをしたらその地獄へ行くのですか? 地獄にこだわるつもりはありません。しつこく感じられたら 申し訳ありません。今はそんなこと忘れて 生きなさい、と言われるよりこの疑問点を知りたいです。
タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。 いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。 べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。 これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。
本を読んでお経に興味を持ったのですがお経とは何のために存在しているのでしょうか?
おはようございます。今あるお経は 昔誰かが作ったものですか? 今お経って作ることは可能でしょうか 今の仏教って 昔の方がきづきあげたもので間違えてないですか? 今現在の方は 本当に頭がよく 暮らしにしても より良く暮らせる 時代になってます そんな 素晴らしい方が沢山いる 現代なら 昔より 素晴らしいお経が出来上がるのではと 思うからです。 後、霊が存在するかと同じくらい 気になる事があるんですが 今は、少し落ち着いてますが 目眩や 難聴で 苦しんでいて 病院に行こうが薬を飲もうが 改善かされなくて そこで 気功って 霊と同じくらい 不思議で 目に見えるものではありませんが認められているんですよね? 効くかもしれないと思って、、、行ってみようか 悩んでるんですが 気功は信じてみていいと思いますか
どういう状態(たとえばこころの状態など)で生きていれば仏道を歩んでいることになりますか? また、結婚したほうが仏道を歩める場合ってありますか?それとも、仏道を歩みたいなら、結婚は望まない、しないほうがやっぱりいいですか?
こんにちは。 私は数年前から一人暮らしをしており、1人の時間も長くなると考え事をする時がしばしばあります。 その中で昔の嫌な記憶を思い出すことがよくあり、思い出した嫌悪感に我慢できずにたまに泣いてしまいます。 自分の性格や人間性のダメな部分に嫌気がさして自己嫌悪に陥るのですが、ああしてこうして育ててくれればこんな人間にはならなかったのに、と親のせいにしてしまう自分に何より腹が立ち、情けなくなります。 もちろん四六時中こうして悩んでいるわけではなく、仕事ができるありがたさや趣味に打ち込める楽しさもあり、普段はポジティブに生活しています。 ですが、人間いつか死ぬのなら、できるだけ早く死にたいなとも考えています。 自分で言うのもなんですが、感受性が豊かな自分にとっては家族も含め人付き合いに疲れてしまい、早く楽になりたいんだと思います(叱られるかもしれませんが… 死後の話でよく『輪廻転生』と耳にします。 私は現時点で20数年しか生きていませんが、もし人間として生まれ変わるのなら、またこんな人生を送らなければならないのならないのは御免だなと思います。 やはり死後の魂は何かに形を変えて生まれ変わるのでしょうか?だとしたら魂の数には限りがあるのでしょうか? もう一度生き物に転生せずに済むのなら、魂ごと消えてしまいたいです。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
大切な人を昔亡くしました。そのあと私は死に対して経験しています。幸せとはなにか?わからずに生きてきました。 結婚することか?子供を産むことか?生きていることか? 私自身が人生を終わりにしたいと思っているため、結婚しませんでした。自分が子供を産むことも望むことも許されません。許せません。寂しいと思いながらいつでも終われるように家族を作らずにいます。 人を大切にすることで生きる価値を見いだしていたのだと思います。今でもそうです。 大切にしたいと思いながら結局は、人は裏切り裏切られ、傷つけ傷つけられる人生なのでしょう。それでも一緒になりたいという人と一緒になるべきか、独りで生きていくか? 恵まれた環境のなか、自分の価値がわかりません。一緒に居たいと思う人はもういない。 でもずっと独りで生きていけるか? 誰でもいいのか? このような考えで生きている私にどうかアドバイスを下さい。
先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。
空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?
先日、知人から鮮やかに色づいた美しいアジサイをいただいたので、花瓶に生けながら様々な事を感じていたら、自分が寂しいような哀しいような複雑な笑みを浮かべているのに気がつきました。(変なスイッチが入っていたんです。) それはまぁいいとして、近頃ずっとhasunohaを読んでいた影響なのか、昔、疑問だった拈華微笑の話を久しぶりに思い出しました。 確か、ニッコリと微笑んだのだとか。 未だに何を表しているお話なのか分かりません。改めてネットで調べてみても、やはりサッパリです。 ニッコリ(?)微笑んだのは何故でしょうか?何が伝わったのでしょうか? よろしくお願いします。
この度はお世話になります。 私も家族もキリスト教の洗礼も受けていないし、仏教の宗派にも属していません。 きちんとどこかに属されて宗教を信仰されている方々からしたら無宗教と言われるかもしれませんが、神様、お釈迦様、仏様・・・具体的には分かりませんがすべてに感謝し、毎日何度か感謝と祈りを心の中で唱えています。 両親の実家はお寺とのお付き合いもあり、法事もきちんとされていたのですが、私の実家は兄弟が多く、裕福な家庭ではなかったので日々の生活に追われ、お寺とのお付き合いなどもありませんでした。 でも、母は自分が小さい頃に両親から聞いた仏教のお話を私たち子供にしてくれて、兄弟は皆おとぎ話か昔話のように興味深く聞いていたのを覚えています。 先祖の仏壇にお供えをし、お線香をあげ、手も合わせています。 最近仏教についていろいろ調べて、興味を持ちましたが、知ることが増えるにつれて、分からないことが出てきたため、どの宗派がいいのか決められません。 そこでいくつかお話をお聞かせいただけたら幸いです。 ①宗派に属さないと仏教徒とは言えないのでしょうか。 ②もし、宗派に属さなくても、仏教を信じる場合は、どのように手を合わせ、何と唱えればいいのでしょうか。宗派によって違うと思うのですが、共通するものや一般的なものがありましたらご教示ください。 ③仏教を信じているけど宗派に属していない場合は、お葬式、戒名、位牌などはどうすればいいのでしょうか。 ④日本でのお葬式は仏式が多いと思うのですが、仏教徒ではなくて仏式のお葬式をあげているだけの場合でも、戒名や位牌をいただくだけで出家して成仏し、極楽浄土へ行くことができるのでしょうか。 ⑤仏教を信じ、どんな困難も乗り越えて、真面目に、人を助け、一生懸命に生きた人でも、宗派に属さない、または宗派を決められないために戒名も位牌もない場合は成仏も極楽浄土へ行くこともできないのでしょうか。 調べているうちに、どこの宗派にも属さない単立の寺院や神社もあると知りました。 でも、それはそれである意味、単立という宗派のようにも思ってしまいます。無知な意見をお許しください。 お答え辛い質問かとも思いますが、ご教示いただけると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
紅葉の質問ありがとうございました。続いて気になってる質問です。 数年前にNHK大河ドラマで龍馬がゆくをやってましたが、その中で龍馬の許嫁?のおさなさまのお墓に歴女が殺到みたいなニュースをみましたが、歴史上有名な人のお墓めぐりをいつかしたいです。 お坊さんから見たこの有名人のお墓はおすすめというのはありますか? 京都の坂本龍馬と日光東照宮は行ったことあります。