夫とはいろいろあって愛情はまったくありません。家庭内別居状態です。 子供は成人し、子育ても終わり、空の巣症候群で空虚な毎日でした。 そんな時、会社の若い男性に優しくされ、好きになってしまいました。 歳も離れていて、恋愛感情で誘ってくれているのではないと頭ではわかってますが、食事や映画に誘われ、女性として扱われて、依存してしまったんだと思います。 彼にはもうすぐ結婚する彼女がいるのも分かっていますが、その話を聞くたびに嫉妬で苦しいのです。いい歳して情けなくなります。 忘れたいのですが、毎日会社で会うのでなかなか難しいです。 周りの人は、みんな恋人がいたり夫婦仲が良かったりで、自分だけが誰からも愛されていない気がして寂しくて虚しい毎日です。 ただただ、その彼と会社でしゃべったり、食事に行ったりだけが楽しみですが、私から誘うことはできないので、ひたすら誘ってくれるのを待って、また苦しくなります。いい歳をしたおばさんなのに彼の言動に一喜一憂してしまう自分が情けなくて嫌になります。 何にも依存しない強い心になりたいです。 以前、仏教では「依存すると苦しいですよ」という教えがあると聞いたことがあります。 では、依存しない心になるには、どのように暮らせばいいのでしょうか 一人でも強く何事にも動じることなく生きていきたいのです。 具体的な考え方を教えてください 漠然とした悩みですが、よろしくお願いいたします。
苦しむこともなく安らかに息を引き取り、お浄土へ修行に出られた我が父のことで少々ご相談致したく。 確かに父は死を迎え、我が家からは表面上姿を消しました。 然しながら何かにつけて見え隠れする父の存在の大きさに息子として見ると詠嘆するばかりです。 「それに比べて我が身のなんという小ささよ」 とふと、自分が卑下の心にとらわれてしまいます。 無論、こんな心にとらわれるのは馬鹿げていて何も生み出さないのですが時折熱病のように我が身を襲うのです。 超えられなかった父の存在、超えるべきであった父の存在。 両者の間で惑う自分がおります。 「僕は父のようになれただろうか?」 「僕は父のようになれないのだろうか?」 「父」という存在が未だ自分を動かしている。という事実が苦しいのです。 如何ともし難い現状ですが、少しでも抜け出せるお言葉をいただけたら幸いでございます。 合掌。
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
お久振りです。いつもお世話になっております。ユーリです。 今回は、個性を磨くということについて質問いたします。 教育現場では、良く「個性を磨く」といった文言が使われ、「生きる力」と共に、二大教育用語になりつつあると、私は考えております。 さて、個性というと、広義にはその人の特性・性質ですが、それを磨くというと、どういった意味なのでしょうか? 私個人の見解を述べますと、やはり、短所のない人間はいないわけで、また、自分と同じ人間もまたいないわけであります。 自分を追及し(今頑張っています。)、自分をより深めることで、自分にしか出せない味を出す。それによって、噛めば噛むほど味が出てくる。噛めば噛む程、噛んだ傍から味が出るような。そんな人間を目指すのが、「個性を伸ばす」だと感じてならないわけであります。 私は、部活の野球はベンチ外。勉強は、論外の外。顔は、圏外の外。 喋らせたら、うるさいとよく言われ…。そんな人間です。 ですが、人に誇れるものというととくにありませんが、この喋りというのは、自分の中で好きな部分ではあります。 アホなこと言って、「自分ってあほやなー」と、振り替えってにやにやしてしまう。そんな自分が大好きです。 元々、芸人になりたい私ですから、そう感じるのかもしれません。 「よく喋る・デブ・ちび・くそメガネ・頭悪い・送りバントが得意」これが私の個性です。 ですが、「よくしゃべるなー・・・」と周りに言われるということから、それを不快に思う人もいるかもしれないわけです。 自分は誇らしく思っても、そんな一面を磨いてどうするのかと思うわけです。 「個性」には、対個人、対社会にプラスのもの、マイナスなものがあるわけで。 マイナスなものだとしても、それを伸ばせ、ってことなんでしょうか?
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。