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hasunoha 問答検索結果 : 「私 宗派 」
検索結果: 2552件

仏教徒に対する疑問パート2

この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・?  どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました  そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね?  そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね?  たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください

有り難し有り難し 62
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2023/03/12

人間は生きているだけで罪を重ねている?

いつも相談させていただき、本当にありがとうございます。 回答僧の皆様のお陰で、罪悪感に苦しみながらも日々の生活を送れています。 何度も質問しておりますが、私は一年前に愛犬を殺してしまいました。 その罪に気づいてから(初めは自分が殺したことにも気づいていませんでした)、今まで他にも数えきれないほどの罪を犯してきたことに気づきました。 hasunohaに出会い、仏教を少しづつ学んで知ろうとしています。 最近は私の今後の人生は償いのためにあるのだと思いながら生きています(これは私の勝手な考えです) 正しい言動を心がけ、ボランティアなどにも取り組んでいます。 しかし私自身や他の方の問答を拝見し、また、自分でもいろいろ学ぶうちに 私は生きているだけで罪を重ねていると感じます。 虫なども積極的な殺生はしませんが、知らぬうちに踏んだりして命を奪っています。 食べ物も命です。 私はお医者さまから指導されても飲酒もやめられません。(飲酒も罪ですよね) 話を盛ったりしてしまうのも嘘をつくことと同じです。 勿論食べ物は「命を頂きます」「ご馳走様でした」は必ず言いますが…。 罪を増やすことになるのにそれでも生きるのは、この世で生きることは修行ということなのでしょうか? 極楽にいくまでの修行が現世なのでしょうか?私は絶対地獄行きですが…。 宗派などで違うのは承知の上ですが、仏教の考えを教えていただけたらと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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菩提寺を変えたい

【質問】菩提寺から祖父・祖母を別のお寺に移せるか? 相談者(私):W家 母方の実家:T家とします。 母方のお寺に、祖父(母の父)・祖母(母の母)・叔父A(母の長兄)・叔母A(叔父Aの嫁)が入っています。(全員T家) この度、叔父Bが亡くなりました(母の次兄)。叔父Bは独身で子供もいません。祖母が亡くなるまで一緒に住んでいたので、このお寺に納骨を考えていたのですが、このお寺が何かと家庭のことやお金のことに口出しするので、この機会にお寺を変わりたいと母は言っています。 叔父Aと叔母Aには子供が2人おり、次男が一応お墓を継いでいます。 しかし、諸事情により法要も出来ていなかったりしているようなのです。 そうはいうものの、叔父Aと叔母Aは子供がいるので、今後の事は子供達で考えてもらいたく。 そこでW家のお寺に祖父・祖母・叔父Bを移そうかと考えています。 現在はW家のお墓には私の父が眠っています。 W家のお寺に相談したところ、叔父BをW家のお墓に入れる事に問題はないとのこと。(母と兄妹なのでということです) 叔父Bは祖母の面倒をずっとみてくれていたので、同じお墓に入れたいと思っています。祖父・祖母をW家のお墓に入れて良いか否かはまだお寺に確認はしていません。 因みにW家とT家の宗派は違いますが、W家のお寺は宗派関係なく受け入れてくださるそうです。 今後を考えて、祖母・叔父Bは永代供養をお願いするつもりです。祖父は50年の法要を済ませています。 上記の状況下の場合、祖父・祖母だけを今のお墓からW家のお墓に移すことは問題ないでしょうか?もちろん、費用が発生するのであれば対応するつもりでいます。 ただ、49日までの法要は母の家で菩提寺のお寺に依頼しています。 その後の納骨をどうしようかと悩んでいます。 T家のお寺の住職はちょっと気難しいのと聖職者ですがお金にシビアなので、すんなり受け入れていただけないのではと心配しています。 どうぞアドバイスの程、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 29
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懐中仏の開眼について(お寺様とのご縁と義理)

たびたび神経質で奇妙な質問、申し訳ありません。 仏様と身近になりたくて、「懐中仏」をいただきました。 (また旅行先等での勤行を行なうため) お不動様と三面大黒天様です。 こちらにも開眼をしたいと思っております。 自宅の祭壇にお祀りしているお不動様は同じ町にあるお寺で開眼していただいたので、同じお寺にお願いしようと思っております。 ところが祭壇の大黒様は、(開眼済みの仏像を通販でいただいたため)非常に遠方のお寺で開眼をしていただきました。 お不動様をお願いしたお寺様では「うちでも大黒様の開眼はできます」と言っていただいているのですが、お願いしてしまっても良いのでしょうか? (ややこしいことに宗派も違います) それともやはり、祭壇にお祀りしている本命の大黒様を開眼していただいた遠方のお寺に、多少無理をしてでも行って、こちらで開眼すべきなのでしょうか? とある人の忠告では、「お寺とのご縁があるので、同じ仏様でも何から何まで同じに考えてはいけない。またお寺との義理もあるでしょう」とのことでした。 こうした場合、どうすべきでしょうか。 アドバイスいただけましたら幸いです。

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毒もみのすきな署長さん

という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。

有り難し有り難し 91
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生死不明-続

生死不明で質問させて頂いた者です。 お言葉が心に染み、涙が止まりません。ありがとうございます。 我が家には仏壇がありますが、元々は一向宗であったと聞いています。 しかし、義理の父(既に故人)が 祖父母の葬儀の際、浄土系の戒名は祖父母が生前自分で準備していたようですが 近くで僧侶が見つからなかったらしく 結局、臨済宗のお坊さんをお願いし、それがご縁でそれ以降、臨済宗で葬儀及び法要を行っております。 父の戒名は臨済宗でつけて頂きました。 そんな経緯があり お経をあげに来て下さるお坊さんは臨済宗でありながら、我が家のひとつしかない仏壇の中には 色々な宗派の位牌が混在しており ご本尊様も 掛け軸も 臨済宗のものではないようです。 僧侶の方にも指摘はされましたが、特に改めるよう言われなかったので 今までそのままでした。 この度 子供が生死不明のような状態になり 長子であるわが子に 影響があったのかとも思います。 そんな状況で 臨済宗のお経をあげても 供養になっていきますか? 本人の死亡確定も 今の所されない中、お経をあげても構いませんか? お経をあげてよいなら誰に向かい手を合わせ、唱えればよいですか? その際は、現在の、菩提寺のお経が良いんでしょうか? 今後 どのように ご本尊様やご先祖様を おまつりしていくのが良いのでしょうか このままでも良いのでしょうか? 子供の生死がはっきりはしておりませんが、不明から49日が近づき状況も厳しい中、子供が少しでも楽になれる方法が あれば、と焦る気持ちがあります。 かといって、子供の状態がこういう事だから 正直、人の噂も怖く、地区内の菩提寺さまに相談するのも ためらわれます。 どうかよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 20
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2024/02/01

消えない憎しみについて

こんにちは。24歳の女性です。 本日も宜しくお願い致します。 私には憎んでも憎んでも、憎み足りない人がいます。去年の話ですが、アルバイト先で休憩室が隣だったことをきっかけに話すようになった10歳ほど上の女性がいました。それからというもの、連絡先を交換し、一般的に言えば「仲が良い」とされる関係性だったと思います。 しかしながら、私は彼女との関係性が進むにつれて、自分が彼女の言葉に度々傷ついていること、不安に感じていること、嫌われまいと自分を偽っていること、心が疲れてしまっていることを感じており、そんな正直な自分の気持ちを見て見ぬふりし続けた結果、相手に対する憎悪が一年たった今でも肥大化しています。 その方の嫌悪点を端的に申し上げますと、 価値観を強制的に押し付ける、マウント(自分の方が上だ、と思うための手段として私を利用してくる)、発言のほとんどが人の悪口、自慢をする(異性にモテること、仕事ができること)、相手の一言一句を否定する、という点です。 さらに、私は同じ職場に好きな人がおり、その女性とその男性を含めて話すこともあるような関係性でした。私はその女性に、彼が好きなことを話していたのですが、「脈は感じられない」「諦めて合コンに行こう」「彼が好きなのはあなたではなく私(その女性)では?」「彼は思わせぶりだ」などといった意見を毎日のように浴びせられ続けました。 ただ自分の方が上だと主張したいだけでは、そのために弱い私を利用しているのでは、と気づいた時には手遅れで、その女性からの連絡を無視し、連絡先自体を削除した今もなお、怒りは消えません。 ただ、こんな女性のように歳を重ねたくはない、という反面教師として勉強させて貰った貴重な機会にはなりました。自分の嫌いな人、モノを理解するための教科書のようなものでした。 しかしやはり、怒り、憎悪、醜さ、相手への攻撃性、その相手を否定しようとするエネルギー、などがふつふつと湧いてくるばかりです。許すことなどできず、正直なところ、相手が死に至れば喜んでしまうほどです。 私はこのような感情とどのように対峙し、理解し、受け入れることができるのでしょうか。自分の心がどんどん悪に染まるような気がしてきて、とても怖いです。

有り難し有り難し 17
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古いお墓について

おはようございます! お暇な時に教えていただけると嬉しいです。 潰れたり移転したりしたお寺にあったお墓、あるいは存続している古いお寺にあるお墓でも、もう面倒をみている子孫がいないかもしれないような古いお墓はどうなるのでしょうか。 私の片親の曽祖父と曾祖母は山形県に昔から住んでいたという地元の人だったのですが、娘達(そのうち一人は私のお祖母ちゃん)がみな遠方に嫁いでしまった後、どうなったかわからないんです。祖母も滅多に帰省できなかったみたいで、そちらの家族とは疎遠になり、そのうちに祖母も当時を知る血縁者もみな亡くなってしまいました。 曽祖父・曾祖母が住んでいたらしい地名がわかったのでグーグルしてみたら、村が統合されて今は市になったらしく正確な住所はわからないし、更に、昔大火事があって市役所の書類など焼失したとか。 曽祖父と曾祖母の菩提寺も宗派もわからなくて、彼らがお世話になっていたお寺そのものが今あるかどうかもわからないという状態です.....。 墓石の状態にこだわったり、今から何が何でもお墓を探し出して供養しなきゃ!と思っているわけではないのですが、お墓がどうなったのか気になって質問いたしました。 一度も会ったことがなかった東北の曽祖父と曾祖母ですが、血のつながりを感じます。寒い天気だと落ち着くというか居心地が良いんです。亡くなった肉親は天国にいると考えると私は安心できるのでそういう考えもありだと思っていましたが、上に上がったというよりはみんなつながって私の中で生きているのかもしれませんね。

有り難し有り難し 16
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
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檀家寺さんに仏教初心者が訪れるのは、ご迷惑になるでしょうか?

最近、仏教に興味を持ちはじめ、 自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。 そして、私の心の支えになっています。 仏教を学ぶにつれ、 「仏教徒になりたい」という思いや 「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。 私が現在住んでいるのは、 古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。 私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、 地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。 お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、 「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、 興味はあるものの、 「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」 と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。 また、まだ特定の宗派を信仰する、 というところにまでは至っていないため、 そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。 昔からの檀家さんばかりのお寺に、 私のような、仏教初心者が訪れるというのは、 お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか? 都市部に足を延ばせば、 私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも 気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので 遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。

有り難し有り難し 18
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