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hasunoha 問答検索結果 : 「�%B」
検索結果: 1095件

髪を切り過ぎました

髪を切り過ぎてしまいました。 後悔しました本当にショックです。 初めて、ロングからショートにしたのですがもともと髪の毛の癖が強く、中途半端に跳ねていて小ダサい。しなやかな女性らしさも無い。 学校に行くだけならまだどんな髪型でも別にいいやで済むのですが、 来月に初めて東京に行き、好きな芸能人と会う予定だったのです。ツーショットも取れるとのことなので、写真も残ります。 こんなことなら勢いで髪を切るんじゃなかったと深く後悔しました。 同時に、最近季節の変わり目なのかもともと荒れている肌がもっと荒れ、酷く赤くなっています。 かゆみも伴います。 さらに季節の変わり目でずっと精神的にも体調的にも辛い時期が続いており、 もう踏んだり蹴ったり…というような気分でなにもやる気になれません。 側から見たらしょうもない落ち込みなのかもしれませんが、 もういろいろ閉鎖的な気分になってしまいました。 肌は今日学校を休んで病院に行ったのでまだ治る見込みはありますが、 しかし、明日も顔が赤いまま。さらに髪の毛のことを友達に言われたら耐えられる心がありません。 変と言われたりしないか…言われなくても人に干渉されること自体が苦痛です。 私は、どうやって今の気持ちを立て直しいい流れに持っていけばいいのかがわかりません。 教えていただきたいです。

有り難し有り難し 27
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2023/04/29

辛いことが重なっている時の心構え

仕事面とプライベート面で辛いことが重なり、中々前に進む気持ちを持てず、乗り越えられる自信を失い辛い毎日を過ごしております。 【仕事面】 5年程勤めた会社を精神的な病を原因に退職し、体調が回復してきたので就職活動を始めました。 ですが、休職した後退職した経歴が原因で中々選考が進まない状況です。 覚悟はしていましたし、辞めたことを後悔もしていません。 しかし、少し体調を崩しただけでこのような扱いになるのかと、 現実に直面し落ち込んでしまいます。 【プライベート面】 就職活動を始めようとした矢先に、 4年程お付き合いをしていたパートナーとお別れをすることになりました。 心にぽっかりを穴が空いてしまったような感覚に陥っています。 また、ふとした拍子に一緒に過ごしたことや景色を思い出し涙が出たり悲しい気持ちになります。 この2つのことが重なり、無気力になってしまい、 自分の人生に対して投げやりな気持ちすら持ち始めています。 考えても後悔しても現実は変わらないのは百も承知なのですが、 どうしても将来に対して前向きな気持ちを持つことが出来ません。 こんな時、どのような心構えや気持ちをもてば楽になれるのでしょうか。 また、前に進む気持ちになれるのでしょうか。 ご助言いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 24
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このままでいいのでしょうか?

あたしは長いこと精神科に通院しています。 学生時代からですので、今まで正社員として働いた経験がなく、フリーターとして職を転々としていました。 最近過去の質問にもありましたが、トラブル続きで、精神的にも肉体的にも疲れきっていて、新しい仕事に就いていません。 面接に行くなどはしましたが、うまくいかず、こちらから断っています。 最近では、婦人科系の病気にもかかってしまい、そちらだけの治療費でも大変です。 なので、働きたい気持ちもあるのですが、病院への定期的な受診や、健康面での不安な部分があり、なかなか働けません。 今は恋人に頼りながら生活をし、その決められた範囲内で年金や税金、治療費などすべてやり繰りをしているので、お小遣いはありません。 働いていないのだから、お小遣いがないことは当然ですし、不満もありませんが、自分の生活がギリギリなので、働きたいです。 でも、田舎なので職も少なく、その上、体調が優れない為、なかなか行動に移せません。 あたしはどうしたらよいのでしょうか? 精神科、産婦人科、どちらの治療もお金はかかりますが、はずせるものではありません。 今はきちんと治療に専念し、その後で働くほうがいいのでしょうか? 病気があるとはいえ、無職な自分が辛いです。 治療に専念していると、休んでばかりいるような、働くことから逃げているような気持ちになり、悲しいです。 自分自身とどう向き合えばいいのでしょうか? ご回答お願いいたします。

有り難し有り難し 14
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もう30代なのに今だに中学の頃言われた暴言が忘れられません

中学の頃、授業の合間の休憩時間に廊下で友人と話をしていたら同級生の男子に「ブス!!!!!!!!」と大声で叫ばれました。 からかい等ではありません。名字と顔しか知らない、会話をしたこともない男子です。 中学生男子なんて可愛い女子とそうではない女子とでは扱いに天と地よりも差があります。逆もあるのでしょうが。 その時、その人は私の背後から叫んでいたので、聴こえていないフリをしてロボットのように友達と話を続けました。その時の友達の反応、廊下中に響く大声を聞いた周りの同級生の反応は記憶にありません。叫ばれた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように硬直し全体に白いもやがかかった感じになったからだと思います。 小学校の頃から自分は美人ではないと自覚しておりました。そして中学でそれぞれ別の人に数回「ブス」と言われ、自他共に認めるブスなんだと自覚しました。さすがに高校大学社会人となるとオブラートに包まれますが。もう男性不信状態です。 他のボソッっと言われたのも辛いのですが、大声で叫ばれた件だけは今だに脳に焼き付いてふとした瞬間に思い起こされてしまいます。そして、芋づる式に他の件もフラッシュバックしてしまうのです。 その度、あいつはもう死んでる、もしくは天罰が下って酷く惨めな生活を送ってる、そう思うようにしています。しかしそうやって考える度に『これでは永遠にあいつが自分の頭の中に住み続けてしまう』と思い、苦しみの連鎖を止められません。 もうどこにも存在しない中学生に苦しめられる、そんな呪いのようなものを消す方法がございましたらどうかお教えください。本当にお願いします。

有り難し有り難し 19
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宗派による死後の世界の違い

いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。

有り難し有り難し 46
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お経を唱えるとどうなるのですか?

過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人  かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 105
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仏教と神道

 こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。  私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。  しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。  なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。  浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。  お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 47
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お布施とは?

お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。

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2025/09/28

正解の生き方が知りたい

見ていただきありがとうございます。 軽く自己紹介させていただきます。 27歳男性で実家暮らしで交際歴などはありません。 現在映像職の仕事はしておりますが以前からロクに続かず収入も低く...まあ所謂弱者男性と呼ばれる人物です。 言い訳にはしたくないのですが、発達障害や鬱病など様々な物を患っています。 お坊さんと言えば人生の正解などを知っているのでは無いかと思い投稿させていただきました。 次に前提となるような私の過去を話させていただきます。 私は仕事、趣味など人生全ての場面を振り返ると無能だったなと強く思います。 幸い27にもなる私を4万円程度で家に住まわせてくれる母親がいる点は幸運なのですが、酷く申し訳ない気持ちです。 両親はやさしいのですが、職場や学校では「お前は本当にダメだな」「バカ」「ポンコツ」このような言葉を投げかけられて謝るかヘラヘラするばかりです。 そして家に帰れば思い出して自己嫌悪で命を終わらせたくなる...というよくあるパターンです。 そんな私でも仕事をデータ化して効率をあげて最近ですがようやく人並み一歩手前ぐらいまで働けるようになりました。 ですがここ最近データを取り扱った事により死にたいという気持ちを細分化して調べていく中で強い疑問を抱いているのです。 人生において正解となる行動はあるのでしょうか?長くなりましたがコレが質問です。 これは何も毎日コレを食べてこの仕事をして...という細かい所まで指示が欲しい訳ではありません。 例えばですが、生きているなら最大限他人のために親切にしよう、コレを目標にしようという人類に共通する正解の行動が無いかと思ってお聞きしています。 ですが、命を絶つことが正解、給料を全て募金すると言われても実行はできない事は申し訳ございません。 無能な私でも理解できる正解の行動がありましたら教えていただけると幸いです。 生きる価値が無い私にどうか救いをください。 どうかお願いします。

有り難し有り難し 37
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人生の意味

生きる意味を教えてください! 別に自殺を考えたり、リストカットしているわけではありませんが生きている意味がイマイチよくわかりません。 100年後には確実に今生きている人のほとんどが死んでいます。たしかに生きていると悲しい事も楽しい事もあります。しかしこの世にはテロや残酷な殺人事件、強盗、DV、痴漢、いじめなど人生を狂わせることがあります。私は幸運にもそういう事件や事故には巻き込まれていませんがそういう方は多くいますし、見聞きするだけでもとても嫌な気分になります。全ての人が嫌な奴とは思いません。しかし人の人生を平気で壊すような人が大勢いる腐った世の中で生きていくのにはいったい何の意味があるのですか?血のにじむ努力して頑張ってる人にとって、平凡に静かに暮らしている人にとっては理不尽だらけです。さらにいえば貧困やエイズ、戦争、病気で若くして亡くなる人にとってはもっと理不尽です。悪いことをした人に罰は与えられないのですか?反省すれば許されるのですか?何も悪いことをしてないのに被害に遭う人に幸せはくるのでしょうか?毎日毎日学校に通い、手伝いをし、ボランティアや習い事、部活をしている自分が生きている意味がよくわからなくなります。

有り難し有り難し 66
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空についての理解

2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。

有り難し有り難し 51
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執着を手放すには

以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。 ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。 ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。 たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。 なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。 説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 133
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極楽について

以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。

有り難し有り難し 110
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