ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
こんばんは🌃 数日前に、「霊感の強い息子について」 で相談させて頂いた者です🙇 先日、無事に四十九日法要を終えて、 毎日お仏壇に手を合わせております。 息子たちには、「おばあちゃんの心が この中にあるんだよ」と本位牌に向かって手を合わせるよう、今日始めて祖父の家に来たんですが、お仏壇の部屋に入った瞬間息子が、「あ、おばあちゃんが居る」と言いました。 「え?次の世界に行ったんじゃないの?」と聞いたら、「様子を見に来たんだって」と答えました。 ちょうど、四十九日か1日前に祖父宅へ行ったとき、息子は「おばあちゃんいない。何も感じない」と話したので、てっきり次の世界に旅立ったと思ってたので、今日お仏壇の前に居ると聞いてびっくりしたのと、何故か嬉しい気持ちになってしまいました。 息子(長男)は、祖母とコンタクトとる事が出来るので、今日私が次男を叱った事を祖母に話したみたいで、「あんまりしかりなさんな。○○(私の名前)の家の事はちゃんとみてますよ」と言われて、 身の引き締まる思いをしました。 祖父は、このような霊的なものを信じないので、「あんまり良くないから、やめなさい」と言われるのですが、長男が普通に見えてしまうのでどうしたら良いのか迷ってます。 私も母が亡くなってから四十九日間、 台所やリビング、息子達と寝ている和室等で、ふっとお線香の香りを感じてました。 そのたびに「あ、おばあちゃん今ここにいるんだな。様子を見に来てるんだな」と思って過ごしてました。 これから、どのように過ごして行けば良いのか?良きアドバイスがありましたら 教えて頂けますよう、よろしくお願いします🙇
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 ここのサイトで仏教を知り、諸行無常、諸法無我や、執着しないことなどを知り、これは素晴らしいものだと感動しました。 実際にこの思想で生活すると、毎日が濃い1日となっているように感じられ、とても嬉しいです。 ですが、本当に苦しい時に、これらの教えが思い出せなかったり、気づかないうちに執着してしまったりするのがとても不安です。 仏教の心を忘れないために、何か私にもできることがあれば教えてください。
人間って本当に生きているのでしょうか?
婚約者を亡くして5ヶ月が経とうとしています。 仕事も再開し、元の生活に戻りつつありますが、家に帰った後や休みの時など、無性にさみしさがこみあげます。 仕事が忙しい上に結婚のことでさらに無理をさせてしまったのかもしれない、子供がほしいと私が言ったばかりに高血圧の薬を飲まずにいてしまったのかもしれない、などと私と出会わなかったら彼は生きていたのかもしれないと考えてしまいます。 結婚の話を伝えていた友人にも彼の死を伝えられていません。 まだ自分で伝える勇気がないということと、友人たちに私がかわいそうだと思われたくないという気持ちがあります。結婚の話をしていたとても幸せな私のままの記憶でいてほしいという、私のただのわがままです。 どうしようもない位悲しくて大泣きをする日もあれば、泣かずにいられる日もあります。 いつになれば、この悲しい出来事にきちんと向き合えて、気持ちにブレがなく考えられるのでしょうか。 質問にまとまりがなく申し訳ありません。 愛する人を亡くしたものへ、生きるための力をいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
母が亡くなり約半月が経ちました。 9月上旬に半身の痺れと歩行困難があり病院に行ったところ、末期の癌ですぐに入院。 母が落ち込むかもしれないと思い、年を越すのは難しいことを伝えませんでした。今思うと伝えてあげた方が良かったのかなと思います。突然亡くなり母もびっくりしているのではないかと心配です。 入院してから毎日会いに行きましたが、これは食べちゃだめ、この体勢でいた方がいいよ、とか体調が優れない母に口うるさく言ってしまった事も後悔しています。 周りの人に聞くと、母は子供の頃から今まで幸せだった事は少ないと思います。それなのに最期もこんな病気になり亡くなってしまった。 母はどんなに自分が辛くても病院の看護師さんや私達家族、周りの人全てに感謝を伝える人でした。見習わなくてはなと思います。 産まれてから23年間を母と一緒に過ごせて幸せだった、という気持ちと、心配ばかりかけて、親孝行もできなかった申し訳ない気持ちが交互に押し寄せてきてどうしたらいいのかわかりません。 亡くなる前日まで家族の心配をしていた母が成仏できるのかも心配で心配で、考え出すと止まらなくなり不安です。 まとまらない文章で申し訳ありません。 御意見を頂きたいです。
こんにちは。 亡くなった人にもう一度会えるの方法が、なにかしらあるのではないかと考えてしまい、検索していましたら、そういう考えは仏教の教えに背くものとありました。 会えないのは当たり前なのに、少し悲しかったです。 やっぱり私が人生を全うするまでは、絶対に会えないのでしょうか。 はすのはでたくさんのお坊さんに助けていただきました。残された子供たちに主人の魂が宿っているというのもわかってます。でも、もう一度会いたいと思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょうか。主人の死を受け入れられてないからなのでしょうか。 同じ様な体験をされた方は、どの様に過ごされているのでしょうか。
こんにちは、拙い文章だとは思いますが読んでいただけたら幸いです。 私はよく死んだらどうなってしまうのかを考えてしまいます。自分がなくなるのが怖い、死ぬのが怖いと思い涙が止まらなくなります。体も重いです。 最初に一番悩んだのは高校2年生の時、死ぬことや自分が存在するということを考えすぎてご飯も食べられなくなりあまり眠れませんでした。母親の前で大号泣しなんとか克服したのを覚えています。そこからは、たまに死んだらどうなるのかが頭をよぎることはありましたが、なんとか考えないようにしてきました。 そして今、24歳になる私ですが、ここにきてまたこの思考を止められなくなりました。というよりも止めてしまうことが怖いのかもしれません。前ほどではありませんが寝つきが悪くなり睡眠時間も短くなり仕事に集中できない日が続いています。涙も止まりません。 ネットで色々見て自分以外にも考えている人がいると安堵する気持ちとそこからまた他人がいる、思考している、とどんどん自分が存在していること、なくなったらどうなるのかと結びつけて怖くなってしまいます。 生まれ変わりや幽霊はいるなど信じていないわけではないですが、もし生まれ変わりがあったとしてもその思考が自分ではない(現に私は前世の記憶はありません)と考えてしまい、励ましてもらってもうまく消化できないでいます。 それでも自分の中だけでは苦しくなるだけなので相談してみました。皆様のお考え等を教えていただいきたいです。
父の法要の際、ある事情で僧侶を呼んで葬儀を執り行えず、また仏壇の本尊を新調する際、僧侶を呼んで開眼供養を行えませんでした。数年経ってからおかしなことが起こり、非常に今苦しんでおります。 現在の宗派を辞めて、平安時代の伝統仏教に入信して、修行を積んだ僧侶の方に、父の供養を執り行っていただきたいと、切に望んでおります。 しかし、親戚に現在の宗派の盲目的信者がおりまして、やめようとするならば、私ではなく、私の母を責めます。母は、何も悪くありません。 むしろ、献身的に家族、親類に尽くしてくれました。母を苦境に立たせたくありません。 しかし、現状のまま仏壇の本尊を開眼供養せず、亡き父も僧侶に供養していただかないと、あの世で浮かばれずに苦しんでいると、視える方に言われました。 最初は、別の困り事で相談したのですが、何をしても解決せず困り果てて、藁にもすがる思いで偶然相談に乗っていただいた方の話によりますと、原因が本尊の開眼供養をしていない、僧侶を呼んで法要を執り行っていないことなどを告げられ、宗旨変えするしかない状況ですが、親類のからみもあり、うかつに行動に移せません。 私は真言宗に変えたいのですが、ご祈祷で親類と争い事無く、開眼供養のない本尊の危険性を伝え、理解して欲しいのですが、凝り固まってしまって理解させるのは到底無理だと思います。 密教の縁切り術で親類との縁を切ろうかとも思いましたが、母はそれも 心苦しいと縁切りも拒みます。 普通の話し合いが通用する連中ではありません。 父を救うために僧侶の方に供養してもらう、その為には宗旨替えを行う必要があります。 また、本尊の開眼供養を行わないと、様々な問題が起きてくるので早目に手を打ったほうが良いとも言われました。(私はうつ病の手前にいると言われました。) 密教の縁切りに頼る私は親戚に対して薄情で、仏教の慈悲の心から、掛け離れているのでしょうか。考え方が安易なのでしょうか。私なりに半年以上考えぬき、苦しんで考え抜いた結果です。 朝から晩までこの事ばかり考えてしまい、頭がおかしくなりそうです。 できれば、真言宗、天台宗の僧侶の方に、回答して頂きたいと思います。
実家の父が亡くなったときのことです。無事にお葬式を終えた晩のことだったと思います。 寝室を暗くしたあと、なかなか寝付けずにいました。 やっと、うとうとしてきたときに、押し入れから「チャリン....チャリン...」と金属音がするのです。驚いて意識がはっきりした後も数回聞こえました。 そんなことが2日程続きましたが、どういう意味なのでしょうか? 押し入れには布団しか入っておらず、金属製の物なんて入っていません。 私は勝手に亡くなった父が6問銭を鳴らしていると思ってしまいましたが、なにしろ深夜のことでしたので怖かったです。 我が家は浄土真宗なのに葬儀屋さんの言われるままに、旅装束を着させてしまったから怒って現れたのでしょうか?それとも、逆に感謝してくれたのでしょうか?それとも、何か他に心配事があったのでしょうか? と言いますのも、実は母が亡くなり、これからお葬式をしなければなりません。 今度は旅装束を着させないつもりですが、金属製の6問銭や護り刀をどうすべきか悩んでしまいます。 ※参考までに、ですが...父のお通夜から49日まで、透明な煙のようなものが鏡越しにみえたり、家鳴りなどの物音がよくしたりしていました。不思議なことに49日が過ぎたら、その様なことは起こらなくなりましたが....。
久しぶりに地獄についてなのですが、 さっき何気なく地獄について調べたら、阿鼻地獄(無間地獄)のことで気になりました なんかよく読んだら、「五逆罪 謗法罪」というのがあり、特に五逆罪は父母、そしてお坊さんや悟りを開いた方などを殺してしまうと無間地獄行きとかいていたと思います。でも無間地獄=人殺しがおちる と思ってたのですが殺しの中にも殺生があって、それについて調べたら、命あるものをころしてはいけない。とあり、殺人者は五逆の罪に入ってなければ無間地獄行きではないのかな?と思いました。 僕の思ってたのは間違ってたのでしょうか?でもずっと前に地獄の絵本みたいなのがあったのですが「ひとをころすも2000年も真っ逆さま」とあって、これは阿鼻地獄(無間地獄)と関係してますよね。 五逆罪と殺生の違いがイマイチ把握できてませんでした。
私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。
私は人づてではありますが、ある宗教と出会い信仰しています。お坊さん方は、生まれがお寺で跡を継ぐ方もいらっしゃると思いますが、自らお坊さんを志されたお坊さんに質問したいです。何故その宗教を信仰心しようと思われたのか?その宗教を信仰して何か心や考え方が変わったのか?その宗教の素晴らしいところはどこですか? 私は宗教に興味があります。それぞれの宗教には、神様や仏様がいらっしゃり、様々な考え方や人を導く素晴らしさがあると思います。 よろしくお願いします。
今から約8年前、自分が高校生のとき 事故で急に姉を亡くしました とても仲が良く友達みたいな姉妹でした。 それからなのか人の死がとても怖くなり 家族が家に帰ってくるのが遅いと 事故にあったんじゃないかどっかで 倒れてるんじゃないかとか 異常なくらい心配になります。 また体のどっか気になることが あったりテレビで色々な病気の ドキュメンタリーを見るたび 自分もそーかもしれないと思い込み 病気になった気分になり 病気=死を連想してしまいます 少しどーかあると気になって気になって 色々検索してしまったり 今は卵巣に小さな奇形種があると 言われていてそれが気になってしまい 先生は経過を見ていくしかないと いう風に言ってくれてるのに それで大丈夫なのかとか色々 深く考えてしまいます。 もし病気が進行して手遅れに なってしまったらとか なんか病気だったらとか 考えるとキリがないです。 家族と笑いあってるとそのときは 楽しいのにいつかこの楽しさも なくなるのかなとか 誰かまた亡くなったらとか 考えると悲しくて仕方ないです。 今年は結婚もし赤ちゃんも10月に 産まれる予定です。 嬉しい事が続いてると余計色々 怖くなってしまって どーしたらいいか分からないです。
こんばんは(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) 以前 親戚のお葬式に行った際に もし、自分が亡くなったら 何人くらいの人が 見送ってくれるんだろうか?とふと思った事がありました。私は あまり 友達とか 作らないので 人に合わせる事が苦手で 耳も悪いので 会話をするのが 辛い時があるんです。 耳鼻科の先生に何でか 聞き取り間違えで 偉く叱られてから 会話する事に自信が もてなくなってしまって テレビも 字幕で見ると 内容が把握できるんですが なので 電話も苦手で メールなど 文字で会話する 方が楽だし 会話を楽しむ事ができるので いい世の中になったなと思いました こんな私なので 亡くなっても 親戚くらいしか きてもらえないだろうなと思ったんですが この広い世の中で たまたま偶然 お知り合いになれた 広い空の如く 皆様との縁がございますように
以前、法座で冥福の冥は、暗闇の世界だから適切ではないと伺っております。テレビを見ていると泣くなった人に対して、アナウンサーは必ずと言って良いほど「ご冥福をお祈りします」と言っています。その度に違和感を感じてしまいます。 身内を亡くしているので、余計に感じます。 もちろん、言っている人は悪気はないのは承知していますし、間違っていると言う訳でもないのかなと。しかし私は、「お悔やみ申し上げます」を心がけています。 ずっと気掛かりだったので教えて下さい。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?