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検索結果: 479件

死ぬべき人はいますか?

私は、自分自身は死んだ方が良い人間だと思っています。 私は犯罪者ではありませんが、たくさんの人に迷惑をかけてきました。 税金をもらって仕事をしているのに、何も成果を出せていません。 恵まれた環境を提供してくれた両親、祖父母には、何も恩返しをしていないばかりか、結婚式でひどい思いを味合わせてしまいました。 奥さんには、要求されたことを提供できないばかりか、マイナス思考をぶつけて泣かせる始末。 私とさえ結婚しなければ、幸せになれたろうにと本気で思います。 皆さんにできるだけ早く人生を改善してもらうために、事故に見せかけた自殺により死亡保険を獲得し、分配することを考えています。 自殺について話した職場の同僚の中に、五万でいいからくれと言っていた人がいるので、お金を渡すよう遺言を残せば喜んでくれると思います。 私の死により、税金、食べ物、エネルギー等の無駄が減るのです。 マイナス思考に晒される人もいなくなります。 悲しむ知人はいるかもしれませんが、転校してから一度も合わない友人と同じ状況になるだけですので、一週間も経たずに元どおりになります。何も問題ありません。 いいことしかありません。 死んだ方が良いのに、国家や仏教が生きろと言うのは、 納税者、信者という名の奴隷を減らさないためではないでしょうか? ささやかな幸せという名の幻想で人々を騙しながら、せっせと労働させ、お金を納めさせる。これが国家の真実だと私は思います。 税金を無駄にし、価値を生み出さない自分はゴミでしかない。 それでも、生きなければいけない理由はあるのでしょうか? 親族を悲しませてはいけないのならば、親族を皆殺しにしてから、自殺すれば良いのでしょうか? そもそも、このように人に皮肉や挑発ばかりする性格だから嫌われるんです。 現在、死亡保険や死後に必要な手続き、お葬式の準備など、少しずつ進めています。 お坊さんからも死ねと言ってもらえたら、初めて自分を肯定できそうな気がします。

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猫の死

私の家は、たくさんの猫と暮らしています。猫と生活を共にする様になり、今年で10年になります。この10年の間に、そのたくさんの猫と縁があるのか?我が家にやって来ました。私も迎え入れていました。5年ほど前から、猫が増えてたら、どの子かが死ぬを繰り返していました。こんな事になるなら、猫との縁は金輪際要らないと思っていました。去年は縁も無く、猫が死ぬ事もありませんでした。今年に入り、2匹病気が見つかり、1匹は急に腎臓が悪くなり、先月24日に亡くなりました。もう1匹は心臓が悪く薬を飲ませていました。呼吸状態も確認していました。昨日の朝も元気にちゅ〜るも食べ、呼吸状態も確認し話しかけて仕事に出かけました。昼に仕事から帰った母から、逝ってしまったと連絡が入り、悲しみでいっぱいになりました。 苦しみながら死んでいったのだろう、一人きりで死なせてしまったと、悲しくて仕方ないです。 猫は増えてはいない、なのに立て続けに2匹も亡くなりました。 後悔しかないです。抱きしめて仕事に行けば良かったとか、色々後悔があります。 幸せだったのだろうか?たくさん猫がいて、ストレスもあったと思います。残された兄弟猫は、急に1人になり大丈夫かなぁとも心配になります。 後悔しない生き方はできないですが、今回亡くなった子も含めて、今までに縁あった今は旅立った子達が、私と出会い幸せだったと思ってくれているならと思ってます。生まれ変わって幸せに生きて欲しいです。明日はペット霊園に供養してもらいに行きます。私が日頃から出来る供養があるなら、教えて頂きたいです。

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友人が元父親に復讐を企てています

友人は幼少期ロクでもない家庭環境で育ったらしく、その原因である父親に憎しみを抱き続け、15年経った今になりその気持ちが爆発してしまい、精神疾患を患ってしまいました。するとマイナスの方向に吹っ切れたみたいで、表題の通り、元父親へ復讐しようとしているのです。 ちなみに友人の両親は10年以上前に離婚し、友人は母親の方に引き取られています。 友人は最初、元父親を法律で裁くことで復讐するつもりでした。 しかし、友人が警察や弁護士に相談したところ、「精神疾患」と「過去の家庭環境」との因果関係の証明が難しかったり、時効だったりで、法律で裁くことはほぼ不可能らしいのです。 絶望した友人は、「法が駄目なら自分がやる」と、元父親へ直訴しに行くと言いました。つい最近のことです。 ただ、友人の元父親はとても気が短く狂暴で危ないDV男なのだそうです。 躊躇なく妻にも子どもにも痣が出来るほど手を上げていたそうなのです。 直訴なんかしに行ったら殴られるかもしれないし、後々報復があるかもしれません。最悪殺されてしまうかもしれません。 自分は、危ないから復讐を止めるよう言ったのですが、過去の家庭環境のストレスから来る希死念慮や自殺願望をずっと抱えてきた友人にとってはそんなことどうでも良いらしく、自分が傷付いても死んででも良いから、ともかく元父親が苦しむ仕返しを今すぐしてやりたい。出来れば元父親を殺し、刑務所行きになる前に自分も死にたい」のだそうです。 復讐したい気持ちは肯定してあげたいのですが、自暴自棄になっている友人を止めなければ取り返しのつかないことになる とも思います。 自分としては「元父親のことなんて記憶の隅に追いやって、己が幸せになる道を歩んでほしい」のですが、友人は「元父親のせいでずっと苦しいままなのだから、元父親への恨みを復讐で払拭しなければならない」のです。 現在友人は病院で処方された抗うつ剤などを飲んでいます。カウンセリングにも行きました。 それでも精神疾患とストレスから来る心身的苦痛や危険思考が和らぐことは無く今も苦しんでいます。 危険な元父親の所へ乗り込みに行こうと計画しています。 今の友人は衝動性が強く、感情に任せて何をするか分からない状態なのです。 不安と心配で仕方ありません。 どうすることがベストなのでしょうか。 助言を頂きたいのです。よろしくお願い致します。

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死ぬために生ける

初めてこの場所を使うので慣れず間違ってるかもしれません、初めに伝えておきます、すいません。 なぜこの考え方に行き着いたかハッキリとは分からないけれど、自分の親友の付き合っていた彼女が16.17歳の時に自殺で亡くなり、それにとても責任があると重く考えた自分の親友が鬱病と診断されました、毎日死にたい死にたいと悩んでいました、その度に自分は何度も何度も励まし慰めて 男2人一緒にクリスマスも過ごしたりしました笑、しかしどれだけ一緒に遊んで楽しんでも彼の思い(決意?)は変わらないように思えました、それでも変わらずにいたのですが、その数ヶ月後に彼女と同じ死に方を選び自殺をしてしまいました。彼の母親から連絡を貰った時は何故か冷静でいれました。それはやっぱり自分が19年間生き てきた中で1番分かり合えた人間だった からかも知れません。 そんなことがあってから 死とは何か、生きるとは何か、特に自殺とは何かを考えるようになりました、でも、まだまだ未熟な自分には分かりっこありません。しかし時間が経つにつれて自分の中にあった死にたいがまた現れ始めました。 自分はハッキリとは覚えてないけど、小学校低学年の頃から行きたい願望はなく死にたい欲?がありました。 小学2年生の時に、喉の手術を受け数ヶ月?入院しましたその頃から勉強に全くついていけず、宿題に手をつけませんでした そのせいなのか元々そうだったのかは覚えていないんですけど宿題をしないと義理の父親が怒って何回も何回も殴られた記憶があります、怒っている時に目をちょっとでも逸らすと殴られた。 また兄弟で楽しく遊んではしゃいでいる時もうるさいと言われ殴られまくりました、 母親が止めてくれた覚えは全然なく家では自分の居場所がなく思えていました。 学校でも自分が太っていた為その事で虐められたりハブられたりされて、本当に死にたかったです、毎日毎日マンションのベランダに立ち飛び降りようか泣きながら悩みました、けど、そんな醜い人間のために自分が死ぬのはおかしいと思い踏みとどまって今まで数十年生きてきました。 けれどもう我慢の限界なのかも知れません 自称大人や人間が大嫌いな自分が唯一分かり合えた親友も居なくなり耐えれ無くなってきました。どうすればいいのでしょうか、分かりません、もうそろそろ1000文字になっちゃうのでやめようと思います。長文失礼しました。

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2023/05/15

死を意識する子ども

6歳の娘を育てていますが、その子がやたらと死を意識するような言動が多く不思議です。子どもとして正常なのでしょうか? その子のまえに2歳離れた娘がいましたが、先天性の疾患があり4ヶ月でお空に帰ってしまいました。わが家には長女の仏壇があり、朝夕に手をあわせ、月命日には墓参りをしています。 3ヶ月前にはわたしの祖母が亡くなりお通夜に参列しました。棺に手紙を入れて、亡骸と対面もしています。 飼っていた猫も老衰し、亡くなる時を見守り、ペット葬儀場でお骨になるまでをみせています。 同年代の子どもより亡くなった人(ペット)と接するエピソードが多いからかもしれませんが、「◯◯ちゃん(長女)はお空にいるんでしょ?今日は背負って一緒に小学校に行くんだ~」 成人式のニュースをみて、どんな振り袖が着てみたい?と話しかけた主人に「パパは成人式の時まで生きてるの?いつまで生きてるのかな?」 祖母のお通夜をした葬儀場前を通ると「大バァちゃんはまだここにいるの?死んだらどこにいるの?」などよく聞いてきます。 死に対して恐怖を感じてる様子はありませんし、死を意識した会話を悪いことだとは思っていませんが、なにかにつけてまわりの大人たちに「いつまで生きるの?」と聞くため、変な子どもと言われます。 長女の死について詳しく話したことはありません。長女の死因や死生観についてなど、なにか特別な説明や教育をしてやったほいがいいのでしょうか?どうしてやればいいのかわからずモヤモヤします。ただ、変な子どもと言われるのは不本意だし、よくないなと思っています。なにかいい言葉がけなどあれば教えてください。よろしくお願いします。

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2023/06/26

希死観念が消えない

希死観念が消えずに困っています。 受験期に鬱になって以降自分のこれからの未来に、過去の選択に自信が持てず、いつも死ぬ事ばかり考えてしまいます。というより、死ぬメリットのほうが大きいように感じてしまいます。 だって自分が死んでしまった方が面倒くさいことや自分のコンプレックス、世界の悲惨さから目がそらせる事ができるでしょう。家族の死や友人の死だって見ることも。 自分は自分の容姿も磨かないくせに妬んでばかり。自分の努力不足を家族や周りの環境のせいにして、被害者づら。lgbtqに理解があると謳いながら、自分は心の奥底で嫌っているから自分が当事者であると言えずに取り繕って、自分に嘘をつき、周りにばれないように生きている。 こんな矛盾したゴミのように甘えた自分に嫌気がさして、死にたくなるのです。 過去に戻りたい。もっと真面目に努力すれば良かった。 ただただ何かに打ち込み、輝いていたあの頃に戻りたいです。 とにかく今の自分が嫌いです。もっともっと何かに熱中して、命を使い切るかのように生きていきたいのです。 しかし、それと同時に死んでしまいたいという思いが頭いっぱいに広がってしまい、情熱が消え失せてしまうのです。 自分の中にあるモヤモヤを書き殴っただけなので、意味不明な文章になってしまいまい申し訳ありません。しかし、自分のなかの願いはただ一つ。希死念慮を消してほしいのです。

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何故死んではいけないのでしょうか

先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。

有り難し有り難し 99
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2022/12/19

何故死を選んではいけないのでしょうか?

タイトル通りですが、なぜ死を選んではいけないのでしょうか? 生きることが尊いこととされ、生きる権利は日本国憲法でも保障されております。 ですが、同じ生命にかかわることで死を選ぶ権利、つまり死ぬ権利はどこにも保障されていないのです。 これはとても歪なことのように感じます。 私自身、周りの人が幸せと一般的に思うようなことを幸せと感じることがほとんど無いということに、漸く気づけました。 つまり、他人と行動を共にして社会生活をするということそのものが大きなストレスでしかないのです。 それを根本に踏まえた結婚だとか出世だとか友人づきあいだとか、正直に言うと全てが無駄なことにしか思えません。 じゃあなぜ未だにそういった無駄なことを続けているかというと、この国では、というよりもいま世界的には死ぬ権利が認められていないからです。 私の望みは一切の他人との縁を断ち、孤独に死ぬことです。 自分のことで葬儀だのなんだのと煩わしいことをしてほしくもないし、記憶に残してほしくもありません。 ですが困ったことに現在の社会ではそれを実現することが非常に困難、というよりも不可能であるように思います。 人間は自己実現と自身の望みの完遂のために生きているのだと私は思います。 この考え方はきっと何があっても変わらないでしょう。 私の望みは上記のものですが、然してそれはどうやってもかないません。 どうやっても叶わない望みを持ち続けるのならば、もはやそれは耐えようのない苦痛としてのしかかり続けるだけです。 ならばさっさと命を絶ってしまった方が、幸福の総量は多いのではないでしょうか? 今でも楽しいことが皆無かと言われれば、そんなことはありません。 趣味である読書や、いくつかの行いは確かに私にとってプラスになります。 ですが、そのプラスが精々週に1~3だとすると、生きているだけで他人とかかわる以上毎日マイナス5ぐらいはされてしまっているのです。 これでは話になりません、ずっと損をしています。 長くなってしまいましたが、どうしてこのような意味のない生活を送り続けなければいけないのか、終わらせてはいけないのか。 このことについてよろしければ解答お願いいたします。

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幸せを感じると死ぬのが怖い

以前、死ぬのが怖い、そしてこの世界はなんなのかという質問をさせて頂いた者です。その度に暖かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 ご回答や仏教について、素人ながら自分で調べたり考えたりしております。その中で、やはりお釈迦様のように、この世から執着を無くすということは、死の恐怖や今生きていることの恐怖を克服する上で大切だと考えました。 しかし、この世への執着というのが、日々の小さな幸せを感じるたびに増えて行くように感じています。例えば、今日も家族と暮らせたこと。友人と話したこと。ご飯が美味しかったこと。素敵な景色を見たこと。そのような日常の幸せを噛み締めるたびに、大切な人たちと離れたく無い、なぜ永遠に一緒にいられないのか、こんなに綺麗な景色を死んだら見られない、死んだら「今ある幸せ」が消えてしまうのだ…と、死によってそれを失うという恐怖にかられます。魂を信じてみても、自分の肉体さえ今は愛おしく、離れがたく思ってしまいます。 この世への執着を手放すことと、幸せを感じることは共存できるのでしょうか?死という自己意識の消滅の恐怖は、どういう考え方をすれば克服することができるのでしょうか? 今はまだ、死ぬのが怖すぎて生まれてきたくなかったと思ってしまうことが多いのですが、願わくば、それでも生まれてきてよかったと思いたいです。いつも、どうせ死ぬのに生まれた、最悪だ、と思ってしまうので、恐怖を克服することで、本当に心から幸せだと思いたいです。 乱文で申し訳ありません。御助言を頂けると幸いです。

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