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検索結果: 3080件

愚かな自らに厭気がさします

こんにちは。 以前も同じような内容で投稿させて頂きました。また同内容の投稿となり、申し訳ありません。 高校生の頃から付きまとう不安は初めは漠然としたものであり、思春期の年齢的なものと思っていました。 しかしその後も消えず、ずっと胸の奥に固まりとなってあり、突然波のように押し寄せてきます。 不安があることは当たり前で、悩んでいるのが私だけではないと言い聞かせてはいますが、長年続いている不安に疲れてしまいました。 嬉しいことがあれば次には何かあるのではないか、人と話せば今の一言で嫌われてしまうのではないかなどと怯え、表面上の会話しか交わせません。(ある程度の年齢の人間関係で当たり前のことですが)仲の良い友達とはどのような関係なのかも分からなくなっています。 恵まれている環境にいながら感謝どころか、自業自得の不安で疲れている年齢相応になれない自らが情けないです。でもどうしようも出来なくなっています。 どのような心持ちになればこの不安も修行だと思えるでしょうか。またまともな人間になれるのでしょうか。 お忙しいところこのようなまとまりがなく、愚かな投稿申し訳ありません。 ご教示頂ければ幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 20
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希望がありません

将来に希望を持つ事が出来ません。 今まで大好きだった事が楽しめなくなりました。 それが働く理由でもあったくらい自分の生活の大部分を占めていました。 今までは、若かった事もありその大好きな事がいつか仕事や形になればなといった希望がどこかにあり進んできましたが、最近はもう無理なのだろうと感じるのです。 若い頃はいつか自分は変われるとか、いつか何か人生が変わる事を夢見ていた様に思います。 けれど、今はこのままつまらない人生を送って死んでいくのかなと感じるのです。恋愛に関しても以前と同じ様な事で悩んでしまい、少しは成長したと思っていたし、気の合う人に会えたと思っていたのに、そんな自分にがっかりです。 このままでは、また1人になって1人で生きていくしかないのかなと思ってしまいます。 私は1人で楽しく生きていける様には思えません。 周りから見たらこんな風に悩んでるとは思わないでしょうし、実際友達と会ったりするととても楽しいし一度は前向きにもなります。友達に悩みを話すにしても、会っている時はとても前向きになれるので、深刻に悩みを話す気にはなりません。1人になってしばらくすると無力感、無気力感に襲われ、泣いたりはしないですが虚しくなります。その繰り返しで自分でもどの様に解決の糸口を見つけていけるのかが分かりません。

有り難し有り難し 4
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法華経が好きなのにお念仏

私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。

有り難し有り難し 82
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「それがあなたの仕事?」と思うほどガッカリイライラした時は?

問い合わせ先、カスタマーセンターなどに電話し、質問することが多いのですが、当初の疑問が解決しないまま諦めざるを得なかったり、解決法を得るまでに膨大な時間がかかったりすることがあり、どのように気持ちを落ち着かせればいいのかを聞いてみたいと思い、投稿しています。 例えば、「Aという操作はできますか?」と質問すると、「Bならできますが」などのような回答があり、私が疑問に思う「Aができるのかできないのか」がわからないことがあります。 しかし、「Aができるのかできないのか」がわからないままでは電話を切るわけにもいかないと、「どう言えばわかってもらえるのか」をあれこれ考えて話していると、どうしても「だから!Aは!?」のように、だんだん大声で叫び、疲れてしまうことになります。 また、ようやく「ああ、Aですか。できますよ」などと、それまでの私の「どう説明、質問すれば回答してもらえるのか」の苦労の時間がなかったかのように、あっさりした返答を聞くこともあり、「この人は、『いままでわからなくてすみません』とか、『いろいろ説明してくれてありがとう』とかは思わないのだろうか、少しは思ってくれてもいいのではないか」と感じることも残念で、それを伝えないことにはやはり電話が切れないと、また大声で「少しは悪かったと思わない!?」などと訴えてしまいます。 質問を解決できないことも、解決できてもそれまでにいらない苦労・時間をかけなければならないことも、ガッカリし、イライラする原因で、困ってしまいます。 このような状況になった時は、どう気持ちを落ち着かせればいいのか、それとも、どう怒らずに会話すればいいのか、どう思われますか。

有り難し有り難し 23
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仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 77
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