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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん お経 」
検索結果: 1064件

はやくしにたーい

何度かここにお世話になっております。 中学生の頃から自分の存在意義が分からないのと将来への不安からずっと死にたいと思っています。 しかし日に日に一分一秒でも早く死にたいという思いが強まるばかりです。 鬱なわけではないんです。 よく食べ、よく寝て、よく笑っているとは思います。 ただ早く死にたいのです。 早く解放されたいんです。 ポジティブな死です。 病気や事故で亡くなられた方には大変失礼ではありますが、自殺以外でどうにか早く死にたいです。 愛を注いで育ててくれた両親にも申し訳ないです。 生きたいと願うのがよくて、死にたいと願うことはいけないことでしょうか。 なぜ私は生きているのでしょうか。 最近職場の人が事故で亡くなりました。 なぜ私ではないのか。 なぜ善良で人望もあるあの人が亡くなって私が生きているのでしょうか。 私はブスで優しくもないし、なにか社会に役立てることもありません。 生きる価値などこれっぽっちもありません。 有事に命をかけて人を守ることができたならば初めて自分に価値が生まれるのではと思いこの職に就いたのに現実はスマホをいじりながらただ1日が過ぎるのを待つばかりです。 なんのために生きているのでしょうか。 仕事を辞めたいのにお金もなく勇気もなく、この田舎では転職活動すらままならない環境です。 なにも楽しくない。 こんなに楽しくない生活を続けることになんの意味があるのか。 価値のない私が生きていることになんの意味があるのか。 もう早く死んで全てから解放されたい。 将来への不安、存在意義の追求、全てのことから解放されたい。 日本でも安楽死をさせてくれればいいのに。 あー早く死にたーい。 生きることから解放されたーい。 文章がめちゃくちゃでなにが言いたいのかもよくわからないですね。 すみません。

有り難し有り難し 47
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見返りを求めてしまいます

普段から好かれたくて人に親切にしたり、何か褒美を得られるからといった理由で行動を起こすことが多いです。 そのおかげでよく優しいね、えらいね、と言われますが、実際はとても自分本位な性格なので得にならないことだと途端に面倒くさがってしまいます。 他人に優しくするのも、自分が好かれたい、優しくされたいという下心からです。 浅ましいと自分でも思います。 優しくされたいから仕方ない!と開き直ったり、自分はなんて人間なのだと落ち込んだりする日々です。 どうしていいか分からず苦しいです。でも優しくされたいです。好かれたいです。見返りを求めてしまいます。 その一方で必死すぎてきもいなとも思います。 昔、友人から雑な扱いを受けていて、度々「いないもの」にされていました。発言、行動を無視されたり、否定されたり、馬鹿にされたりといった扱いです。それが2年ちょい続いて正直かなりきつかったです。 向こうは冗談のつもりだったらしく、のちに謝ってくれてこの件は解決しました。でもこれをきっかけに、こんな調子になった気がします。 また、「無償の愛」について語るドラマや人を見ると、そんなものあるわけないじゃん、と思ってしまいます。 そんな考えを持つ自分が嫌です。 長いうえに文章がまとまっていなくて申し訳ありません。 一体どうすれば考えを改められるのでしょうか。

有り難し有り難し 169
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六波羅蜜の1つ、「忍辱」とは?

 いつもお世話になっております。  忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、 「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。  これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を 受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、 ということでしょうか?  それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう 自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。 という教えでしょうか?  後者が当てはまるとすれば、  例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく 堂内にいるので接触しないよう待機、  立ち去ったら私は私のお参りに入ります。  ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている 一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく 席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに 「お手数をおかけしてしまってすみません。 おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」 と言ってお支払いをしてお店を出た…とか…  いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 65
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亡くなった次女はどうしてるのでしょうか

はじめまして。 今年女の子の双子を出産し、生後3ヶ月で1人を亡くしました。 妊娠中から様々なトラブルに見舞われ、緊急帝王切開で早く産まざるを得ませんでした。 かなりの早産だったため、2人とも1000g満たない小さな赤ちゃんでした。 出産直後は誕生してくれた喜びよりも、こんなに小さく産んでしまった自分を責め、この子達は無事に大きくなれるのだろうかという不安でいっぱいでした。 2人ともNICUでしばらくお世話になったのですが、長女はすくすくと大きくなり2ヶ月ほどで退院することができました。 次女はなかなか思うように大きくなれず、手術も何回も繰り返し、結局NICUを出ることなく亡くなってしまいました。 次女が亡くなった直後は、生きている長女のためにも頑張らなくちゃという気持ちで無理をしていたのかもしれません。 しかし、四十九日を過ぎたあたりから実感が湧き始め、慰めのつもりでかけられる言葉が胸を突き刺さるようになりました。 今では人に会うことが怖くなり、外に出ることもできなくなってしまいました。 元気に育ってくれている長女のためにも、一生懸命生き抜いた次女のためにも、私はしっかりとこの世を全うするつもりです。 しかし、毎日次女を思っては涙が止まらないんです。 何で他の赤ちゃんではなく次女だったのか。 私には2人を育てる器量がなかったのだろうか。 何でもっとお腹で大きく育ててあげれなかったのか。 一人で寂しくしていたらどうしよう。 いつも私たちと一緒にいてくれてるのだろうか。 また会えるのだろうか。 こんなことばかり考えてます。 次女を亡くした悲しみを乗り越えるつもりはありません。 乗り越えたいとも思いません。 ただ次女がどうしているか知りたいんです。 お願いします。

有り難し有り難し 82
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祖母のお骨についてアドバイスお願いします。

昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。 

有り難し有り難し 60
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神様、というようなものを信じてみたいです。

仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。 私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。 こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。 私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。 社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。 とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。 風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。 しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。 しかしながら、どうも難しいのです。 祈る=決まった文句を唱えることの安心感 などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。 どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。 それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。 というより、本当に信じているのですか? 教義に共感しているだけですか? 今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか? 共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。 信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。 既に反抗的なことを書いてしまいましたが、 本当に信じたいのです。 どうしたらいいのでしょうか。

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