40代女です。 両親は亡くなり、姉と二人暮しです。 元々うちが本家なので先祖代々の納骨堂と仏壇をうちで守って来たのですが、私も姉も独身で跡継ぎがいません。 親戚は元々疎遠になっています。 先日姉が急な病気で入院し、退院はしましたが急に自分の今後が心配になりました。 もし姉が先に死んだら私は誰が弔ってくれるのか、先祖の供養は誰がしてくれるのか心配です。 鬱病を患っていて病院の先生にその不安を打ち明けると「市が無縁仏として葬るから大丈夫」と言われましたが、私は母と同じ納骨堂に入りたいです。 永代供養というものがあるのを知りましたが父の遺した借金が原因で自己破産していてお金がありません。 お金もなく、身寄りもない場合自分と先祖の供養はどうしたらいいのでしょうか。 ちなみに浄土真宗本願寺派です。 アドバイスをいただければと思います。 よろしくお願いします。
先程猫を轢いてしましました。 ミラーで確認すると後ろから来ていた車が停車し、猫は走り去ってしまいました。30分ほど猫を探したのですが 見つからず、どうすることも出来ずに 帰宅していました。 涙がとまらず、どうすればよかったのか 分かりません。野良猫か飼い猫かは分からなかったのですが私自身、猫が大好きで家で飼っているので もし轢いてしまった猫が、飼い猫だったら飼い主の方のことなどを考えると 申し訳なく涙がとまらないです。 野良猫だったら寒い冬の夜に 一人で痛がってるかもしれないなど いろんな考えがとまらず不安です。 私は、どうすればよかったのでしょうか。
お坊さん方こんばんわ。 最近希死念慮に襲われています。普通に暮らしているのに急に死にたくなったり、急に不安になったりします。でも何が不安なのか自分でも分かりません…自分でも頭の中で何を考えてるか分からない… 家族や職場では明るく振る舞ったらしてるけど、今家族、職場の人と喋ってるのは本当の自分ではなく偽りの自分のような気がします。 家族にはそんな事を言ったらまた、迷惑をかけてしまいます(過去の悩み等で両親に多大な迷惑をかけています。私の過去の相談を是非みてほしいです) 以前ここで相談したお坊さんから「生者必滅」と言われました。確かにその通り。分かってます。 しかし、ふとした瞬間希死念慮が襲ってきます… なにかアドバイスをください… ちなみに今は希死念慮に襲われた時は、長生きしようとせず、少し先に楽しみ、目標を 達成してから死のうと思うようにしてます。 ◯◯をするまで生きてみようかな〜と言う感じで… 死ぬまでやる事リスト ・もう一回1人旅行をする ・スカイダイビングをする ・親孝行をする ・ワンポインの刺青をいれる(親に死ぬほど怒られそうですがこれが今1番やりたい事) ・永平寺に行く ・5万円以上の募金をする ・遺書を書く ・遺影は決めておく これが私の死ぬまでにやりたい事です。
餓鬼の境涯から脱するにはどうすればいいでしょうか。 仏教を学んでいて次のような言葉を聞きました。 「地獄は滅した、畜生の心も消えた、餓鬼の境涯も脱した。もはや苦しみの世界を生きることはない」 僕の人生は、親父から虐待されるという地獄を、長年足掻き続けて滅しました。そして、親父の虐待は俺を虐めてるんじゃなくて、認知症という病気で、悪意はなく、あったとしても悪意を理解出来てないんだと知り、畜生の心も消えたと思ってます。どちらも抗うんじゃなくて、愛すればよかったんだと気づきました。子供が親を愛するなんてできっこなかったけど、それでも愛するべきだったんだと知りました。 悟りを開いたとかじゃなく、状況としてそういう長年の苦しみはなくなりました。 ですが、まだ餓鬼の境涯に苦しんでるような気がします。 長年地獄で苦しんだ結果、精神的に異常をきたし、今は就労訓練施設で働いていて、障害年金をもらい、親と国に養ってもらっています。 子供の頃に親からの愛情を受けなかったからか、自慰も止まりませんし、散財もとまりません。 せっかく国からもらっているお金も、全部趣味につぎこんでいます。 まだ餓鬼の境涯で苦しんでる気がします。 今まで地獄から脱するために色々しました。 お墓参りも神社お寺参拝も何度もいきました。祝詞も奏上しましたし、お経も真言も唱えました。禅もしましたし写経もしました。街のゴミ拾いもして功徳も積もうとしました。 ですが、お金や成功したいという欲求、餓鬼に苦しんでいます。 僕は因縁というものを信じていますので、なるべくして今の苦しみがあるんだなと思っています。 ご回答の方も、迷信じみたものでもかまいません。真言を唱えろと言われたら唱えますし、写経をしろと言われたらします。それで助かるなら。 どうか餓鬼の境涯から脱する方法を教えてください。
よろしくお願い致します。 自宅の小屋で野良猫が死んでいました。 保健所に引き取ってもらいましたが、子猫もいました。 実は2週間ほど前、小屋に猫が入り段ボール箱に子どもを産んでいたので、箱ごと外に出し、親猫も外に出るよう促しましたがなかなか出てこず、しばらく小屋の戸を開け放したままにして外に出たところ戸を閉めました。 我が家では動物を飼うことはできないので、親猫が子猫を連れていくのを遠くから見て待っていたのですが、連れていく様子はなく、そのうちカラスが子猫1匹を連れ去ったので、親猫が入れる程度の隙間を作って、保健所の方が来るまで囲いをしていました。 保健所の方がきて保護したときには子猫は1匹しかおらず、他の子猫は親猫が連れて行ったのだと思っていましたが、今日、小屋に親猫と子猫の死骸を見つけました。 小屋の戸を閉めたときに見た猫は、親猫ではなかったということになります。 それなのに私は戸を閉めて親子の間を割いたばかりでなく、親猫も子猫も死なせてしまいました。 仕事から家に帰り、猫がいた小屋で線香をつけて南無阿弥陀仏と唱えましたが、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私は猫たちに恨まれますか? どのように供養してあげたらいいのでしょうか?
非常に読みづらい文章で申し訳ありません。 以前にも相談させて頂いたのですが、私は人生で躓き苦しんでいたある時、頭の中で光に包まれ同時にそれが「救い」であると信じ、以降常にその光が示すであろう方へ突き進んでしまいました。 結果、人生が滅茶苦茶になり今現在も逃げられないような状況を作り上げています。 その状況の内容は、父親が私の為に会社を立ち上げたのですが、勢い任せで立ち上げたため具体的な計画性がなく将来的な見通しがほとんど見えない点です。私の意思としては絶対に設立を反対した方が良いとわかっていましたが、当時の私は光の方向に従ってしまい設立を許してしまいました。父親が70歳越えた高齢であること、また、私がその仕事に対してほとんど素人である他不安な要素が多すぎて毎日恐怖と闘っています。また、親子であるため考え方の距離が近すぎるため、衝突しないよう常時神経を使っているため気が狂いそうです。 なんで光の方向なんてものに身を委ねてしまったのか怒りと悔しい思いで毎日頭がおかしくなりそうです。 また、自分が勝手に「救い」であると勘違いしたのが悪いのですが、仏また仏教というものに対し逆恨みで強い恨み憎しみが湧いてしまいます。 自分はどうしたら良いのでしょうか。 仏、仏教というものに憎しみを止め心を正し、毎日お題目を唱えていれば救われるのでしょうか? また、怒り憎しみを鎮めるためにもどのような心持ちをした方がよいでしょうか? 心が乱れてしまい無茶苦茶な文章になってしまい申し訳ありません。 返答お待ちしています。
閲覧下さいましてありがとうございます。 はじめてご相談差し上げます。 誰もが通られる多感な時期に 『私は生まれないほうが良かったのだ』と 感じる出来事がありました。 それからというもの 人生全体に関わるような大きな決断ほど、 その決断の対象である大切な人物に 物理的に最も負担のかからない方法を 自身のキャパを超えてまで選んでしまうので、 『なぜこの選択をするのか?』と 自分なりに掘り下げてみました。 すると 『私“なんか”にかける時間や労力が少なく 済むように』など、 頼ることを過剰に怖がっていると分かり、 その根底には 『本来、私は存在してはならないものなのだから、相手の期待(見返り)に沿えないなら、 頼ってはならない』 というような 存在否定とも取れる心理が あると感じています。 軌道修正したいので数年前から 様々な心の持ちようを取り入れようと 試しているのですが、どうにも腑に落ちず 思い悩んでいます。 長年かけようやく数年前に根底まで 辿り着いたので、 自分の『心』を諦めずにいたいです。 全く以て未熟な限りですが、 ご教示賜りたく存じます。
いつもお世話になっております。 私の古巣、浄土宗の教えには「法然上人の厠念仏」の話が 伝えられています。 時間がなかったら、または思い立ったら、トイレで用を 足しながら、お風呂にかぽーんと浸かりながらお念仏しても バチは当たらない、むしろ尊い、といった趣旨だったと思います。 ですがこれは「念仏」の場合であって、真言や陀羅尼、 偈頌や宝号はどうなのかしら?と疑問が浮かびました。 カップラーメンや煮炊きの番、 または体幹トレーニングで一定の姿勢をキープするのに、 ただ数えただけでは気が遠くなって続く気がしない! そんな時に、 「のーまくーさーんまーんだーばーざらだーん…」 「なーむみょーうほーうれーんげーきょーう…」 などとお唱えしたら失礼でしょうか? 喉の鍛錬も兼ねたいので… お知恵をお貸しいただければ幸いです。
いつもありがとうございます。 質問というよりはお礼なのですが。 自分を好きになるということは、 私は私にしかなれないと知ることだと、 お坊さまたちの回答から教えていただきました。 私はブスでデブで貧乳で、職能は低くセンスもなくてコミュ障で、怠惰で卑屈でプライドの高い自己中で、薄っぺらで甘ったれで、性根が腐ったオバサンですが、 こんな私を生きるしかないし、 こんな私でも生きていけるなんて、 「ほとけさま」、宇宙は、なんて広いのだろうと思います! 自分に対しての怒り、不信、呪詛を取り除くために、苦しいですが頑張ろうと思います。このようなチャンス、今生を恵まれて、ありがたいと思えるようになりました。(以前の私では考えられないことです!) 沁み着いちまった卑屈さは、訓練でいつか薄めていけますよね!? 自分嫌いが取れると人生はとても生きやすいものになるのかなと思います。 たくさんの問答を読んでいるうちに、試してみたいという気持ちになりました。努めてみます。 やっと入り口が見えたような思いです。(遅っ!) 質問はこれで最後にします。 回答をくださった方々、どうもありがとうございました。 hadunoha、とても素敵なサイトです。たくさんの人生を知ることができます。 厳しかったり優しかったりするけれどどれも丁寧な回答で、読んでいて救われます。 皆さまのご健康、お幸せを心よりお祈り申し上げます。
どうやったら過去に戻れるのでしょうか 早く死にたいです 逃げなのでダメですが 鳥もいるので死にませんけど きつくて死にたいという感情だけあります、きついです。 一番辛かったのは殺した子だし今も辛いかもしれないのに。 殺したのにも関わらず笑ったりご飯を食べたりあろうことか娯楽を味わったりしてます 気持ち悪いです 殺したくせに食べたり飲んだり外食したり甘いジュースを飲んだり生きるために必要のないことまでしてます 酷い方法で殺したのに自分だけ楽に生きてます どうすればいいのでしょうか どうも出来ないのはわかります どう生きていけばいいのでしょうか。 先日、質問するアプリで鳥の生死を質問していた方がいて、一番いい回答に選ばれ、一命を取り留めたと、救われたと言われました 救われたのはよかったですが 自分は大切な子を殺したので救うも何もありません その鳥が救われたとしても自分が救った事にはなりません 救われてよかったと、そうは思います でもお世話をしないで殺した 恐らくここにこの鳥の件を記入してるということは少しでも救いがあると思われようとしてるんでしょうかね ないですが。 自分が地獄行きで苦しむのは確実だと思います。 しんどい時にしんどすぎてやめてと言いかけ、やめないでとか言ったり もっと苦しめて下さいと神様に言う時もありますが 神様に穢らしい言葉を吐いた時がありました ばかだの なんだの 最低で仕方ありません 早く死にたいです でも死にたくないとか楽しいという感情を抱いてる時もあります それが気持ち悪いです 救われないべき人間なのにずっと常に苦しんでるわけじゃないのが気持ち悪いです ごめんなさい これからどう生きていけばいいか、アドバイス ありますでしょうか お願いします 何かご教授ください 命日は6月28日です よろしければ、お経を読んでくださる方いらっしゃいませんでしょうか メスで白黒、可愛くて黒の配分が多い美味しいものが大好きな子です 2歳になってなかったと思います 愛せるかなとか心配してました 初めて一人で世話を見る時で そんな心配より世話の心配をしていればよかった 全部自分が悪いのですが ハムスターの小屋に水が溜まってても あらあらって思ってた みたいな感想を言っていた母親にも気持ち悪いと殺してから思ってしまいました 気づかなかったです 気づいてたはず
質問を読んで下さり感謝いたします。ペット供養のお供え物についてご意見をお聞かせ下さい。 供養には「ペットの好きだったものをお供えしましょう」とよく言われますが、お肉やお魚が大好きでした。 しかしお供えするうちに「この牛の供養はどうなっているんだろう」「お魚の魂は供養されてるのかな」「肉と魚の切り身になってくれた命を供養せずにペットだけ供養するのは許されるのだろうか」と悩みが生じてきました。 人の供花だって花の命を奪っているのに花の供養をしている話は聞いたことがないし、細かい事を言えば人のお供えのお菓子に卵が使われる事もあるだろうし気にするのがおかしいのかな?と自分をごまかしてみたりするのですが やはり仏前に供える肉や魚に対して居心地が悪く、供養とは何だろうと悩みが強くなってまいりました。しかしフードやお菓子をペットは食べなかったのでお供えしても喜ぶ顔が全く思い浮かびません。 いっそ肉や魚にもありがとう、頂きます、成仏して下さいとお祈りするのが良いのかとも思うのですが肉や魚の一切れにお祈りして大元の個体に届くのかどうか… 肉や魚に供養と言いながら写真なども飾らず言葉と気持ちだけで祈るのは自己満足なのではないか…とか でも仏壇に見ず知らずの牛や魚の写真はシュールだよなあ…とか そもそも魂になったペットに他の命の体をお供えしてペットは喜ぶのか?とか 毎日の自分の食事で供養云々考えた事もないのにこの感情はなんなのだろうとか 理屈を言い出したら何もお供えできなくなるのではとか…お供えする度に堂々巡りに悩んでいます。 便宜上ペットという言葉を使ってはおりますが心情的にはかけがえのない家族であり、人生最高の相棒であり、魂の一部と言っても過言ではないくらい感謝している存在なので大切に供養したいのです。 お坊様からのご助言をお願い出来ましたら幸いです。宜しくお願いいたします。 (もし動物や植物など自然界のために祈るためのお経や仏様がいらっしゃいましたら重ねてご教授頂けましたら助かります。)
迎えた生みの母の月命日、年に一度の大会議があり、私のチームの発表の結びは『お母さんは、喜んでくれるだろうか?』でした。寺の本堂で、夕食のあとに銘々が話す機会をいただき、皆さまにありのままを伝えました。 ・母のとき、導師を務めさせていただいたこと ・様々な障壁、思い通りにいかない苦しみを経て生きてきた両親が、それでも私たち姉妹を育て上げてくれたことへの感謝 ・責任を持って、お墓をたのみまいる意 ・日々のこと 「皆の生活がかかっているから」と懸命な、母のように慕うその人は私の話の途中で、両手で顔を覆い涙を… 家族のような絆で結ばれた、父のように慕うお坊さんは、会の後に廊下ですれ違うとき「茗荷さんのお父さんになろう」と、誓ってくださいました。 その日の朝勤行は、地元の子どもたちも参列、開始早々ぐずってしまった幼子に、辛抱強くお経を読むお母様、幼子が自分で作ったお念珠を手にした時、私は通路を開けるために元の席に戻りました。程なく椅子を乗り越えて、幼子はこちらに来ました。 お母さまは勤行の間、怒りませんでした。若坊守は、実のお子さん達によれば「厳しいお母さん」で心底、親子のかかわりを目の前に、苛立ちがあるのではと余計な心配をしましたが、幼子がふと若坊守を見た時、最高の笑顔でずっと包み込んでいました。 自分の和讃の声は、涙とともに震えつまりました。後ほど若坊守は「わかりますよ。」と、笑顔で燦々と頷いてくれました。 今思えば一部始終、襖一枚の向こうで、黙って大坊守は、お聞きになっていたのかもしれません。 数か月前、営繕の同僚は、若坊守に「大坊守が非常に厳しい御方だった、だから、厳しいことを言うけれども…」と営繕の同僚をきつく叱った折に強く念を押したそうです。 初めてお会いした大坊守は、司会から紹介をうけ「初めてお目にかかる人も多いのですが…前坊守の…」と深々と、ゆっくりとお辞儀をされました。 住職の涙も、悔しさも、海外へ逃げようと迷った苦労も皆一心に聞きました。前坊守が話す間「お母さん、ちょっと話していいですか」と住職が話始め「いま、この子は、焦っています」と皆に微笑み「人の話は最後まで、聞きなさい。あなたの選ぶ道が、どれだけ厳しいか…本当に」と諭されました。 これからも、法を聞きてよく忘れず、精進させていただきます。 どうか私の母と、母に…何卒ご法話をお願いします。
好きな人がいます。ながらく恋愛事に縁がなく、真正面から好きと言ってくれた相手で、年は10歳以上離れていましたが、とても嬉しくて気付けば私も好きになっていました。 同じ職場の方で、誠実な方で、人を楽しませたり、周りに気を使って雰囲気を和ませるムードメーカーさんです。 けれど、彼の私生活が大変な事になってしまって、お別れすることになりました。 「若いきみを巻き込めないから、自分からアプローチしていたのに、こんなことを言ってごめん」と何度も謝られました。 私のことを考えて、大切にしてくれてるのですが、とても悲しかったのです。 何よりも、私には何も出来ないことが悲しいです。 彼はなかなか返事は出来ないけど、連絡が来るのは嬉しいと言ってくれたのですが、そんな状況で、これから連絡したり、話しかけるのも負担になるのでは無いか、と考えてしまうと、何も出来なくなってしまいました。 そこからは、何度も顔をあわせる機会はあるのですが、彼は大人で、そんな自分の状況を全く悟らせず、普通に接してくれます。なのに私は、上手く笑えなくて、彼の辛い状況を考えると、どうしても普通に接することができません。 子供っぽい自分に嫌気がさします。 何も知らない方が彼と、楽しそうにお話しているのを見ると、苦しくなります。 何も知らなければ良かったのかも、という気持ちと、全部知ってるのに何も出来ない苦しみがあります。 また、彼に何かしてあげたいという気持ちさえ、迷惑なのではないかと思ってしまいます。以前から贈り物をする約束をしていたのですが、お返しなんていりません。でも彼は優しい方なので、お返しを考えてまた時間を無駄に使ってしまうんじゃないかと思ってしまうと、これもなかなか渡せません。また、自分のこの気持ちは本当に彼のためなのか、自己満足のためなんじゃないかと思ってしまうと、自分が嫌になってしまいます。 私はもう好きでいるということもやめた方が彼のためになるのでしょうか。毎晩のように1人になると涙が止まりません。好きでいるのも、迷惑なのでしょうか。 気を使わせないために、私は何もせずに、もう深くは踏み込まない方が良いのでしょうか。何をすれば彼の迷惑にならないのか、わからなくなってしまいました。したいことすべてが裏目に出てしまうような不安があります。 拙い文章ですいません。どうかよろしくお願いします。
最近Amazonでお坊さんを手配するお坊さん便が始まったそうですが、お坊さんに知り合いがいない人やお寺が身近にない人達にとってはお坊さん便は便利なサービスかも知れません。 ですが、「仏教をビジネスと考えてるからけしからん!」といったお坊さん便に対する反対意見もあることは確かです。 ちなみに私はお寺に縁のない若い世代の人達の為にもお坊さん便はあってもいいのではないかと思います。 そこでハスノハのお坊様方に質問なのですが、Amazonのお坊さん便に関して賛成ですか?それとも反対ですか? 詳しい意見の方よろしくお願いいたします。
駄文・乱文になりますが、ご容赦ください。 妹には昔から俗にいう【霊感】というものがあるらしく、昼夜問わず【幽霊】を見ることがよくあるそうです。(的確な表現がわからないので、以下【霊感】や【幽霊】と表現させてください) くっきりと人間と同じように見えるらしく、また霊を感じると恐怖感から「この場所すごく怖い…「出る」から早く逃げよう!」と突然言い出したりします。 極めつけは、約10年ほど前に祖母が亡くなったのですが、通夜で「お坊さんがお経を唱えている隣にある椅子に座っていた」と言ったり、深夜2時頃に熟睡していたはずの妹が突然起き上がり、棺の前に座り込み突然号泣。「親戚(叔父・叔母)を集めて欲しい」と言い、急いで起こした事がありました。 そして、祖母が思い残して逝った事(子供達が不仲だったことが悲しい、○○が借金を抱えていたのを知っていながら何もしてやれなかったことが悔しい)など、妹が知り得ることが無い事を長時間に渡り話していました。 親戚は「何故そのようなことを知っているのか?」と驚いていましたが【霊感】の事を話すと納得したようで、皆謝って泣いていたという事がありました。 翌朝妹に夜中の事を説明しましたが「全く覚えていないけど、すごく疲れている」と言われました。 それからも「祖母が軒先で日向ぼっこしている」とか「世間話をいくつかした」等と話を聞くことが多々ありました。 前置きが長くなりましたが、本題はここからです。 現在妹は結婚し、二人の娘をもうけています。相変わらず幽霊が見えたり感じたりするらしく、その度にどっと疲れると言っています。 特に亡くなった祖母や弟、最近亡くなった親友の親族から、口を揃えて「お前は3人目の子供を産まないともうすぐ死ぬ」とか「3人目を産んだら【霊感】はなくなる」と言われるそうです。 詳しく聞いてみると、【幽霊】を見るのにもとても体力を使うらしく、見た後はぐったりする日が続くそうです。それは精神(魂)を削って見ているから死に近づいているのではないか・・・と自己分析していました。 「もうすぐ死ぬ」ということはあり得るのでしょうか? 本人はすごく悩んでおり他言無用と言われましたが、本当に死なれたら困りますし、とても心配なので今回質問をさせていただきました。現状を良い方向に持っていくにはどのような事をしたら良いのでしょうか?
仏教も各宗派も、成立も発展も、ずいぶん昔からの歴史あるものですので、現代的な価値観と相容れないものもあるかと思います。 良く言われるところでは女性蔑視だとか。障害や病気を因果応報で説明される事だとか。 お坊様たちは、そういう教義と、現代的な価値観とどのように折り合いをつけておられますか? 私自身女性ですので、どのように考えて行けば良いのかわからないところがあります。 「その時代の人にもわかるように説明しただけ、方便」だとか 「解釈が間違っていただけ、仏様の本意ではない」みたいに言うのも、なんか都合が良すぎるような…。 たとえばある経典や説話集などを、全体としては採用し信仰したり説明に用いながら、特定の部分を現代の価値でジャッジして、美味しいところだけをつまみ食いするようなやり方、本当に正しいのかな、と。 お坊様たちはどうお考えですか? 考えるヒントをくだされば幸いです
いつもありがとうございます。緊急度低めの質問なので、他の手助けをもっと必要とする方がいましたらその方を重要最優先でかまいません。 少し前までは、両親は愚か、娘や夫を許せなかった私ですが、ハスノハを見て、しょうもないことに腹を立てても、煙たがられて良いことはないなと気づきました。 怒りっぽくて、度々人と衝突し、時間にルーズ、ミスだらけ、忘れ物なくし物の多さに、毎日毎日後ろ向きなことばかり呟いていた性根は、 お経やお寺参り、仏様の顔を観て自分を見つめる時間とともに、ずいぶん円くなったと自分でも不思議なぐらいです。 年を取れば体もオツムも弱くなり、逆に子どもや若い方の力に頼らざるを得なくなります。 最近は、周囲に心から長生きしてね、と言われる歳のとり方をと願う今日この頃です。 と思うと、せめて周りの困りごとの種にならないよう、今から日々の行いや習慣をちょっとずつ改めなきゃとも思います。 三十代まで構ってちゃんの村八分だった私ですが、お寺での奉仕員を経てから、今では嘘のように休み無しに仕事が来ます。 (大きな声では言えませんが、当時ハスノハにも嘆きの質問をし、目の敵にしていたお局様よりも、諸々3倍くらいには…これもお寺の皆様の智慧のおかげです) 願はくは一生現役で、死ぬ前まで働いて、世の中の役に立ち、感謝とともに逝きたい。 老いることも、いずれ死ぬこともありがたいのですが、どうか世話・厄介にはなりたくないです。 『今ここを生きる』仏教の考え方からすれば、未来を勝手に思い煩うことは、煩悩そのものだとは思いますが、まだまだ未熟な、家の中ではサボり魔の私が、心を入れ直してちゃんと、娘からも認められるような大人の母親となれるようお諭しいただけましたら幸いです。 最後に一言。ああ、片付けが、苦手です! 本当に、外ならまめまめしく動けるのに、なぜ家だとこんなに愚かな母親になってしまうのでしょう…お空のお母さん、ごめんなさい!
何度もhasunohaさんにお世話になっております。ありがとうございます。 私のプロフィールは10代ですが、不登校とあるように、私は現在中学3年生です。 10月は進路希望を出す時期で、来月は最終進路希望票を出さないといけないです。 今まで、教師の兄や先生が言っていた流れや、社会一般常識上、高卒資格は必要だと思っており、不登校で行ける通信を視野に入れていました。 しかし、それは本心ではなかったです。 母はやりたいことをやった方が良い。 高校なんて行かなくても良いんだよと教えてくれました。 ここ一、二年で真言宗の弘法大師さんが好きになり、般若心経を唱え、日々お勤めをしていました。 うちはお仏壇もなければ、菩提寺もなく、仏教とは1ミリも関係がなかったのですが、ご縁か小6の時日蓮宗のお坊さんと出会い、仏教に触れていきました。 お坊さんと会ったのも、般若心経はすっと覚えられたのも、何かのご縁かと思います。 勉強は遅れていて、しかも3年生の大詰めなので、分からなくてもどんどん進んでいかないと行けなくて、しかも中学の勉強をしていても何も得るものもなく、ただ無駄な時間だなと思いました。 でもお坊さんの動画を見ていたり、お経を読んでいる時、礼拝している時はすごく清々しく楽しいんです。 それは上辺ではなく、人生の中で初めて、本当に楽しいと感じたことで、本当に感動しました。 発達障害があり虐められたりして逃げたり、鬱になり入院しました。 そんな私自身の心に響いたのが仏教の教えだったんです。 そこで、調査希望表に本心を書きたいんです。「仏教に進みたい」と。世の中の常識だからと高校と書きましたが、やっぱり嫌。本心で嫌です。 話が膨らみましたが、 菩提寺もない。中卒の子どもが仏門に入れる可能性はありますか。 また受け入れてくれるお寺はあったりしますか。 仏様、お寺、お坊さんは受け入れてくれるんでしょうか。 どうすれば仏門に入れますか。 来月には進路を決めなければなりません。 自力で調べてはいますが、やはりお寺へのツテがないので、相談できる場所もないです。 hasunohaにいらっしゃるお坊さま。お願い致します。
こんにちは。 先日、出産時に赤ちゃんを亡くしました。 妊娠の経過はとても順調で何の問題もなかったのに、突然のことでした。 直後は、ごめんねという気持ちで一杯でしたが、お経をあげてもらいました。 また、赤ちゃんは天国でお地蔵様が抱っこして下さると聞き、今まで仏教に興味の無かった私が沢山お寺に行き、仏様やお地蔵さまに「どうか明るく暖かい所で赤ちゃんを沢山抱っこしてください」と泣きながらお願いしたことで、「赤ちゃんは今はもう苦しくないんだな。幸せなところにいるんだな」と思うことができ、罪悪感のようなものは薄まりつつあります。 仏様やお地蔵様のお顔を心からしっかり見たのは初めてでしたが、とても優しい顔で…赤ちゃんは大丈夫ですよと言ってくれている気がして、救われました。 ところが、今は別の感情に苦しんでいます。それは、周りを嫉む気持ちや、おいてけぼりになった気持ちです。 周囲の友人は出産ラッシュで幸せそうです。反対に自分はどん底にいます。本当は赤ちゃんを抱っこしているはずだったのに、部屋で1人でいる。 「私も幸せになるはずだったのに、なぜ」 「みんな幸せになってしまって、自分だけ取り残された」 「不幸で可哀想なやつだと見下されているかもしれない」 「みんなずるい。死産してしまえばいい」 心が真っ黒になってしまいます… 友人の赤ちゃんと私の赤ちゃんは別で、友人が幸せを奪ったわけではない。もしも次に妊娠して無事産まれれば、自分も同じように幸せになれるかもしれない。 それは分かってるのに、黒い気持ちに支配されてしまいます。 昔から赤ちゃんが好きで、赤ちゃんのいる生活を思い描いてきたから、特に想いが強く、それを何の問題もなく持っている友人たちが、うらやましくて仕方ありません。 これまで満たされた人生を送ってきて、 競争心の薄い人間だったので、今まで人を妬んだり、比較して苦しんだことは少なかったです。 だからこそ、突然そのような気持ちに支配されて、どうしていいか分かりません。 人を妬む気持ちには、どう折り合いをつければいいでしょうか。 また、自分が本当に欲しかったものへの執着は、どうすれば手放せますか。 黒い気持ちがでたときに唱えられるような、いい考え方や捉え方、言葉などがあれば、教えてください。
何度もお話しを聞いて頂いています 今年の3月で娘が首吊りをして一年になります 月日は経ったけれど私の中では また昨日の事のように感じます いつもありがたいお言葉を頂き感謝しています 強くなろうと毎日頑張っているのですが なかなか出来ないです 可愛いかった 私の大事な娘がいない 周りの人に気持ちを言っても 乗り越えるしかないと言われます旦那さんにも その通りなんでしょうけど まだ乗り越えられません いつもありがとうございます