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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2168件
2025/06/08

仏教は少子化を止める?静観する?

仏教にとって、急速に進む少子化は悪なのでしょうか? 仏教に「産めよ増やせよ」の概念は基本的になく、悟りによるこの世からの卒業を目指す宗教だと思います。 そもそも社会から隔絶して悟りを目指す 集団が仏教のオリジンでもあり、その後世俗化やらが進んでからも、浄土真宗以外の僧侶は独身が基本という建前(崩壊してますが)もあるはずです。 如来や菩薩がこの世に戻ってくるのも、まだ救うべき衆生(一般ピーポー)が残っているからという理屈ですよね?救出すべき対象がいなくなれば、救急隊員は現場から引き揚げるし、それを心から望んでいるはずだす。 このあたりの矛盾に真摯に答えている回答がネット上に見つかりませんでした。いかに寺の収入を維持するか?しか頭にない方が大半に見えます。 人々のために寺があるのか?寺のために人々が利用されてるのか?どちらなのでしょうか? このままなら確実に日本人口は縮小するし、外国人が増えて仏教自体も駆逐される可能性が高いです。 こうした状況を踏まえ、仏教が本来取るべきスタンスはどんなものか?ぜひお教えください。 個人的には、少子化は必然として放置で良く、国と同じように宗教組織もダウンサイジングすれば良いと思っています。仏教はそれに抵抗すべきではない、という考えです。 ごまかしのない回答には御礼をお支払いします。

有り難し有り難し 16
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2024/08/03

希死念慮との付き合い方

希死念慮との付き合い方について、お坊さんの視点からアドバイスをいただきたいです。 皆様のおかげもあり、生き方に対する姿勢は以前と比べ変わってきたように思います。 仕事でミスをしても、そういう人間なんだから仕方ない。 やりたいことができなくても、今はできる環境ではないのだから仕方がない。 自分ではどうしようもないこと、現在の自分の能力では解決しようのない問題に対して、あれこれ悩むのはやめました。 様々な点で悟りを得られたように感じます。 ただ時折、どうしようもなく消えてしまいたい気持ちに駆られます。それは、周りに迷惑をかけているなと感じた時や、仕事で何も成果をあげられていないと感じた時などです。 読んでいて矛盾を感じられたと思いますが、落ち着いている時には悟りを得られているものの、少しでも身体的に疲れている時や、周りに人が多く気を張っている時など、自分にフォーカスできていない時などに、なんらかのきっかけで悟りが崩れてしまいます。そうして、一度死にたいモードに入っていくと、しばらく悟りのモードに戻れなくなります。どうしようもない、と自分で自分を言い聞かせていた分、反動でかなり深いところまで落ちていきます。 この死にたいモードの時に、ふとした瞬間で死んでしまわないか、自分を信用できず怖いです。 またこのモードに入っている時は、とても苦しく、辛いです。周りに人がいても涙が出てきてしまい、隠し切れないこともあります。 どのようにしたら、この瞬間的な死にたいモードから脱出できるのでしょうか。 瞬間的とは言いつつ、数日続くこともあります。数年間うつ病と闘っていたこともあるので、また再発するのではと怯えています。生きていればいい、と言いますが、その生きていることが辛く苦しいのです。毎日、仕方がない、と言い聞かせて息しているわけです。希死念慮を抱く前の、定常状態の生き方についても問題があるのかもしれません。

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霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。  こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。  素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。  実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。  このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 168
回答数回答 7

南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 741
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2022/10/26

人を優先して自分が苦しいです

「自利利他」のお話を講演会で伺い、かなり衝撃を受けました。 これまで「他」を優先してきました。 人のために尽くすのが正しいと思って生きてきました。 人に優しくありたい、誠実でありたいと常々思っておりますが、そうしようとすると「他」を優先することになってしまいます。 どのような心持ちで日々を過ごせば、自分を大切に「自利」を優先できるのでしょうか。 自分を犠牲にして「他」を優先しているのに、うやむやにされたり返事を返さなかったり人の時間を奪うような行動をされ、謝りもせず無下にされて自分だけが損をしているような気持ちでいます。 見返りを求めているようで、それも嫌です。 日々、「他」のためにやらなければならないことに押し潰されて現在がいっぱいいっぱいであり、自分の未来を見ている余裕がありません。 そんなことをしている間に「他」が幸せになっていくのを見てきました。 人に優しくありたいと思っている人が優しくされることはなく、ただ傷ついていくのはとても辛いです。 この先も、このまま苦しいのかと思うと何のために生きているのか分かりません。 ずっと辛いままであることから逃れるには、自身の生き方考え方を変えなければならないのでしょうか。

有り難し有り難し 19
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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

有り難し有り難し 21
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