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hasunoha 問答検索結果 : 「 人間関係 怒り」
検索結果: 1256件

多様性という言葉が嫌いです

 僕は、自閉症スペクトラム障害、難治性肺気胸、うつ病を持っています。16歳の頃に中退して、10年間引きこもっています。顔は正直不細工だし、太っています。障害年金と親の金だけで暮らしているので貧乏です。今は気胸が再発していて息苦しいのでそう思ってしまうのかもしれませんが、世の中は平等じゃないです。みんな違って、みんないい、とか言いながら、僕みたいな本当に終わっている人間のことは、誰も相手にしないし、軽蔑して当然と思っています。被害妄想ではなく、家族にもそういう態度をとられますし、ネットでも「税金泥棒」「自分がその立場なら自殺する」など数えきれないほど言われてきました。多様性というのは綺麗ごとだと思います。「みんな違ってみんないい」の中の「みんな」には僕は入っていません。LGBTのような人たちが差別を受けなくなるのは当然いいことなのですが、そういった記事を見るたびに「なんで僕は差別されるのだろう」と思ってしまいます。恐らく顔の良い女の子だったり、健常者だったりすれば「可哀想だ」と思ってもらえるんでしょうが、顔がキモくて金がないおじさんなので、誰も同情すらしてくれません。「死んだほうが世の中のためになる」と散々言われました。  僕は、誹謗中傷されるのは全然構わないです。ただ、「多様性」という言葉が大嫌いです。

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仏教徒に対する疑問パート3

お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね  それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです  それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし  釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか  釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし  出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか  それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです  それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで  究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして

有り難し有り難し 73
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考え方の矛盾

以前もお世話になりました。今回もまたお聞きしたいことがありましてお邪魔しました。 人付き合いがあまり得意ではなく、基本的には皆さんとつかず離れずの距離を保ちつつ生活しています。好かれたいわけでも嫌われたいわけでもなく、毒にも薬にもならない、明日になればそんな人いたかしら?と思われるくらいの存在感でいたいと思い、そのように生きているつもりです。 しかし、何か困ったことがあると頼られたり、アテにされたりすることがあります。引き受けますが本当はとても嫌です。褒められるのも好きではありません。 目の前の席の人の機嫌がよろしくないと、わたしとその人の席の間にある物入れに八つ当たりのようにペンをしまったり、引き出しを大きな音を立ててしめたりします。これもビクビクしてしまいます。 わたし以外の人たちがどこかに集まってひそひそ話をしていることがあります。どうせあの人いなければいいのにと言っていることでしょう。 このように並べると、わたしはもしかして人に好かれたいのかなと思うことがあります。でも本当に存在感のない生き方をしたいのです。誰にも覚えていてもらわなくていいのです。 こういう些細なことを気にせず、皆さんに忘れられるように生きるにはどうしたらいいでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 237
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トップダウンの上司、やる気が下がった同僚との接し方

私は係長というポストで、大きなプロジェクトのリーダーを任されています。 今年から部長が人事異動で交代となり、とても自己主張の強い方がやってきました。 部下の意見を採用することがなく、自分の意向どおりに仕事を仕上げるような指示ばかりを出してきます。さらには、部下が時間を工面して作成した資料を自分が作ったものと言って、手柄を自分のものにしてしまうのです。 私もプロジェクトのことで部長にプレゼンをするのですが、そのたびに方向性が変更されます。そして、スケジュールが遅れ、その責任を責められます。 私とともに業務に取り組んでいるプロジェクトメンバーも、部長に嫌悪感を抱いていいます。直属の課長はメンバーの現状を相談しても、特にフォローしてくれません。むしろ、部長の太鼓持ちです。 はじめは上司の指示に従うのが組織人としての基本と思っていましたが。さすがに自分の考えを押し通し、部下の功績を自分の手柄としてしまう部長にはついていけません。 いまの体制はしばらく変わりそうにありません。今後、どのように部長と接し、どのように仲間のやる気を引き出していけばよろしいでしょうか。ご教示いただけると幸甚です。 合掌

有り難し有り難し 71
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三世の因果について

あるところで、「因果応報はありますか?」と聞かれたので、 「ある」と答えたら、「生まれたばかりの子供が虐待されて殺されました。 その子に責任はあるのでしょうか?」と聞かれ、「ない」と答えたら 矛盾だと攻撃されました。 確かに因果応報は善因善果悪因悪果ですから、あると思うのです。 しかし、三世の因果については、私は否定されるべきと思っていて、それは それが差別などを肯定してきた歴史があるからです。 しかし、その人が言うにはあるえらいお坊さんに聞いたら、「虐待されて 殺されるのは(過去世の行いの結果だから)当然だ。」と答えたというのです。 それに憤りを覚えたのですが、確かに過去に「親の因果が子に報う」 みたいなことは盛んに説かれたとおもうのですが、それが差別を温存 することになったと思うのです。だから、私はそれは否定されなければ ならないと思うのですが、現世の行いで来世の行く末が決まるという 輪廻転生がある以上過去世の行いで現世が決まっているともいえるわけです。 私の信仰は浄土宗ですが、それがベースにあり阿弥陀様の誓願により西方極楽 浄土を願生し、念仏するわけです。なので三世の因果を否定すべきか肯定 すべきか迷っています。どう考えたらいいのでしょうか?

有り難し有り難し 64
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病苦と今後の進退

私が小学校2年生のころ、目の病気にかかってしまいました。 それから今まで10年間の間、手術を繰り返し、キツイ薬を打ち、なんとか病気が悪化しないように生きてきました。 しかし、つい2ヶ月ほど前に右目が失明してしまいました。残った左目も状況は芳しくありません。 それまでは私が楽観的な性格だったこともあり、必要以上には気にしないようにしてきましたが、失明したことにより、やっと私の病気の深刻さに気づき、それからというもの、これからのことを悪く悪く考えてしまいます。 それから私は、高校に通うのをやめてしまいました。 それは高校を卒業し、大学を出て、就職したとしても、ひとたび目が悪化してしまえば、すべて水の泡になってしまうのではないか? と考えるようになってしまったからです。 しかし、もしこのまま学校に通うのを辞めたとしても、先に進めないのはわかってはいるのです。 先のこと考えすぎても仕方のないことだというのもわかってはいます。 しかし、わかってはいても、どうしようもない不安感が勝ってしまうのです。 家族は、辛いのなら辞めてもいい、これからのことは病気を少しでも良くしてから考えればいいとは言ってくれます。 けれど、その言葉に甘えても良いのか?もしこのままこの言葉に甘えたら自分はどうなってしまうのか。 もし高校を中退したことが知り合いにばれたのなら、みんなは僕を軽蔑するのではないかと思ってしまいます。 家族は僕のことをわかってくれても、祖母やいとこや親戚は、僕をどう思うのか? そう考えると私は一歩先に進むことも、一歩後退することも、立ち止まることも出来ず、宙ぶらりんの状態が続いています。 こんなことは自分自身で決めるのが一番良いことはわかっています。しかし、どうにも足を地につける勇気がないのです。 私はどうすれば良いのでしょうか? 読みづらい文章ですみません。

有り難し有り難し 19
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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 53
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障害のある子を授かる意味

前回の質問でも書きましたが、私には難病を持つ息子がいます。 息子は遺伝子の突然変異が原因といわれ、親自身には非はないとお医者さんに言われています。しかし最近思います。では、なぜ息子は障害を持って生まれてきたのか。私がどうしても女の子が欲しくて、3人目女の子授かるよう願ってしまったから?(結果男の子でしたが)これまでの行いや前世での行いが悪かったから? 私の周囲には、人を振り回したり悪口言ったりと人を傷つけたりしてる人がいます。でもその人は元気な子を産み、幸せに育てています。私も気づかぬうちに人を傷つけたりしてきたかと思いますが、悪口など言わないようにしているし、めちゃめちゃ悪いことをしてきたとは思えません。なのになぜ、私の元には元気な子を授かれなかったのでしょうか。 また、よく子供は天で親を選んで産まれてくるといいます。息子も私を選ばなければ丈夫な体で幸せになれたかもしれないし、もしかしたらあまりに私が子を願うあまり神様が無理に私のお腹に宿したのではなどいろいろ考えてしまいます。 障がいのある息子を宿したことは、私への罰なのでしょうか。それとも何か意味のある運命なのでしょうか。他の人ではなく、私が選ばれた差は何なのでしょうか。 お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 143
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