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hasunoha 問答検索結果 : 「 宗教 」
検索結果: 2816件

戦争に対する恐怖心

こんにちは。 初めて質問させていただきます。 最近、ニュースを見ていると世界情勢がどんどん悪い方向へ進んでいる気がして、近いうちに大きな戦争が起きて家族みんな死んでしまうのではないかと、毎日不安に押し潰されそうです。 私はかなりの心配性で昔から戦争への恐怖心はあったのですが、子供が生まれてからさらに強くなりました。子供が生まれてから本当に幸せで、本当に可愛くて、たくさん遊んであげたいですし触れ合いたいのですが、その恐怖心のせいで子供を可愛がるのが怖くなっています。もし戦争が起きたら、痛く辛い思いをして殺されるくらいならその前に家族全員で出来るだけ楽に死んでしまった方がいいのでは、ということまで考えてしまいます。 もちろん、世の中戦争だけではなくて病気や事故などでも死ぬ可能性があるのは分かっていますが、なぜか戦争に対してだけすごく恐怖心があります。恐らく、戦争は私がいくら気を付けていても意味がない(=子供や家族を守れない)こと 、他にも多くの人が死ぬことなどが恐怖心を抱く原因かと思います。 将来のことなんて誰にも分かりませんし、私が悩んだところでどうにもならないことは分かっているのですが、どうしても上記のようなことを考えては落ち込んでしまいます。 読みにくい文章で申し訳ありませんが、アドバイスよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 15
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少しでも苦しみを減らす、無くすには?

hasunohaの皆さま初めまして、NYAROTと申します。 私は4年前頃の大学在学中に、ある日急に起き上がれなくなって心が苦しくなって大学に行けなくなってしまいました。 そしてお医者様から双極性障害と診断されて、大学をしばらく休学してみて、丁度その頃実家が経済的に苦しくなって私が行っていたのは学費の高い私立大学だったのですが経済的にも精神的にもどうしても大学に行けなくなってしまったので退学しました。 それからしばらくのあいだ療養して、もう一回学問を学んでみたいと思い始め、今は通信制の大学で心理学を学んでいます。 これらの出来事は当時は非常に苦しくて死んでしまおうと思った時もあったのですがおかげさまで今は、自分の体験したことは無駄じゃなかった。苦しいこともあったけれどもしあのまま何事もなく大学に通っていたら知ることもなかったであろうこともたくさん知ることができた。前向きに生きていこうと思えるようになりました。 前置きが長くなってしまいすみません。皆さまに質問なのですが、仏教には代表的な苦しみとして四苦(生、病、老、死)と八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)があると知ったのですがそれらの苦しみを減らす、無くす方法がわかりません。それらの苦しみを減らす、無くすにはどうしたらよいのでしょうか。これらの苦しみがなければ人生が少しでも生きやすくなるのかなと思いました。漠然とした質問で申し訳ないのですがよろしければ教えて頂けないでしょうか?

有り難し有り難し 50
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嫌われものとしての生き方から抜け出せない。

はじめまして。 嫌われものとしての生き方から抜け出せなくて悩んでいます。 私は物心ついたときから、周りに対して敵対心が強く、友達に対して意地悪をしたり、自分でも気づかないうちに嫌われるようなことをしてきました。大人になっても、人とうまく関われず、誤解されやすく、今まで出会ってきた95%くらいの人に私は嫌われたり、よく思われていないと思います。 子供の頃学年ほぼ全員に嫌われ、同級生の親からもよく思われていなかった時から。 私は嫌われものとして生きてきました。 大人になって、親しいともだちや、会社ではうまく溶け込める場合もありますが。 どこにいても私はまるで前科もののように、ビクビクしています。 昔のように私は、嫌われものとして、いつも他人から責められるような気がしています。 自分は嫌われものと思って、ビクビクしている方が、自分を守れるのかも知れません。 私は過去の自分の他人を傷つけたという罪とどう向き合っていけばいいのでしょうか。 また、嫌われものとしていつもビクビクしている生き方をやめたいのですが、なかなか癖になっていて抜けません。 どうしたらいいのでしょうか。

有り難し有り難し 24
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自分の心の狭さに苦しくなる

私と旦那さんはバツイチ同士の再婚です。 旦那さんは元嫁との間に子供が二人おります。 今年、私たち夫婦にも第1子が誕生しました。 元嫁さんと子供たちは近くに住んでおり、なにかと子供たちとしょっちゅう会う機会があり、ご飯などもよく食べさせています。 子供たちは可愛いと思いますが、私たちにも子供が産まれ、たまには家族3人の時間を過ごしたいと思うのですが、旦那さんが常に前妻の子供たちを呼んだり、前妻の子供たちから色んな要望の電話があり、どうしてここまでしてあげないといけないのかなと正直思ってしまいます。 養育費はもちろん払ってますし、習い事(サッカー)も私たちがさせてあげています。 土曜日は毎週私たち家族3人と前妻の子供二人連れて旦那の実家へ行っています。(晩御飯を義母が毎回作ってくれます。私が再婚する前からのようです。)土曜日の昼、日曜日の昼はほとんど毎週私がご飯を作るか、外食に一緒に行きます。 休日になると旦那から前妻の子供たちも一緒にいい?と聞かれ、嫌とは言えず、快くいいよと言えればいいのにどうしても不機嫌になってしまう自分が心が狭く感じ悲しいです。 元嫁がおいしい思いばかりしてるような気がして許せない部分があります。どういう考えを持っているのか不思議でなりません。 もう少し距離をとりたい気持ちもあります。旦那にとっては、子供みんな可愛いのだから仕方ないとは思っています。 しかしながらやはり私たちの子供を一番可愛がってもらいたいという欲が強くなる一方で、どうしても旦那さんが前妻の子供を可愛がると、嫌な態度をとってしまいます。(子供たちの前ではそういうそぶりは一切見せていません。)旦那さんにきつくあたってしまいます。 こういう自分の中の葛藤を上手に処理できたらいいなと思いますし、どういう風に受け止めたらいいのか悩んでおります。 もっと心を広く持てるような気持ちの持ち方はありませんか?こういう自分がたまにとてつもなく嫌になるのです。

有り難し有り難し 8
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命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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神仏に対する劣情について

二つ程お坊さんが普段感じている事を教えて欲しいのと、一つのお願いがあります Q1 神道の神様、仏教の仏様をモチーフとして“オタク”と呼ばれる人向けに(?)可愛らしい美少女やカッコイイ美男子みたいにアニメや漫画っぽく神様や仏様が描かれる事がありますよね それについてどのように感じますか? Q2 天罰、仏罰など「悪い事をしたらバチが当たるぞ!」ってのは聞くのですが本当に本当に「悪い事をしたら」必ず罰が下されるのでしょうか?どう思いますか? 【ここからは私の告白とお願い】 私は時として女性の姿をした神仏を想い邪淫を行う事があります 実際に邪淫に至らなくても女性の姿の神仏で卑猥な妄想をする事がよくあります 本来ならば対象なぞ関係なく「劣情を抱く事」「邪淫を行う事」これがまずいけないのは理解しているつもりです …が、どうせ私はこれからもそれらをやめる事なんて絶対に出来ないしもうそんな自分を変えるつもりもないです しかしその邪淫の対象が神仏である事だけは絶対にあってはならない 決して神仏に対してそのような劣情を抱いてはいけないと思っています たとえ邪淫に耽ろうとも楽しもうとも、その時に神仏を想い浮かべる事だけは絶対にやめなくてはならない 絶対に私が変わらなくてはならない事だと思っています このような件は面と向かったら口が裂けても言えないですし、私にはまだ何の制裁、叱責、バチも与えられていません 神仏を利用して【自】分を【慰】める どこまでも淫らでバチあたりな私を叱っては頂けませんか 大変見苦しい文ですみません どうかよろしくお願いします

有り難し有り難し 20
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自灯明・法灯明の真意とは

 大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。  大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。  先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?

有り難し有り難し 55
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ちゃんと供養出来ている?見返りを求めていることになる?

お坊さんのご意見をお聞かせ下さい。 数年前に祖父が亡くなり、親戚のおばちゃんと話していた時のことです。 そのおばちゃんは、「自分自身もいつかあの世に旅立つ時が来る。その後も残った家族にしっかり見てもらいたい(供養してもらいたい)から、今しっかりとご先祖様の供養をしている」と言っていました。 それを聞いた私は、独身で結婚の予定も全くありませんし、このまま天涯孤独になる可能性もないとは言えません。なので、例え自分が独りで息絶えたとしても、「その後を姪たちに見てもらえたら・・・」「供養するという姿勢をしっかり見て覚えて欲しい」と同居こそしていませんが少しでもその姿勢を見せたいと毎朝のお仏壇にご飯を供えることを買って出ました。 もちろん母の家事を軽減させたいという理由もあります。 うっかり寝坊してしまった時や、家の別の用事をする時などは母と交代してやっています。ご飯が残っていたとしても、毎日お供えする分だけのお米を研がないといけないので、体調が優れない時は正直なところ、面倒だなと思ってしまうこともあります。ですが、私が今存在するのはご先祖様があってこそ。自分だって毎日お腹を空かせて食事をするわけなのだから、ご先祖様だって同じと言い聞かせ、今も続けています。ちゃんとやっているでしょ!と、つけ上がっているつもりは一切ありません。 もちろん、日々見守って頂いているという感謝もありますが、既にお話した通り、将来自分が生命を全うした後、残った家族に見てもらいたいという気持ちがあるのも事実です。 果たしてこれは見返りを求めているということになるのでしょうか? ちゃんと供養出来ているのか心配になってきました。 どうかご見解をお聞かせ下さい。

有り難し有り難し 23
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