初めまして。 毎日ダラダラ過ごしているニートです。 子供じゃないんだから…と思われても仕方がないと思いますが恥を承知で書かせて頂きました。 働きたくない。社会は甘くない。それは十分知っている。けれども人と関わりたくない。外に出たくない 生きてても意味がない→死にたい→自殺→死ぬのが怖い→…の無限ループ 家にも外にもインターネットにも居場所がない ホームレス→外は寒い 生活保護→落ちる。 外に出る→むなしい。 勉強する→今更感。やる気もなし。 趣味もない生きがいもない夢もない 世界の誰かが一日でも長く生きたいと思っている中、不謹慎にもひたすら死ぬことばかりを考える毎日が続く。 死にたいなら死ねばいい甘えんな。かっこ悪い。と思っていても毎朝起きるたびに死にたくなる。 末期がん患者の方に俺の寿命をさし挙げたい 人生はやり直せないけどあの頃に戻って一からやり直したい。 誰かと愛し合いたい。手を取り合って助け合いたい。支え合いたい。 底辺から這い上がりたいテッペンまで上り詰めたい、そこから見える景色が見たい。けどやる気がないしやることがない。 何も続かない。何もかも三日坊主。 灰になるまで燃えつきたいけどめんどくさい。ダルい。 ほどほどなんて言葉は大嫌いだし馴れ合いは嫌いだけどひとりぼっちは寂しいし辛い。 引きこもり続けて気づけば二十歳。 嫌なことから逃げ続けた二十年間。 結果中卒のニート。派遣もアルバイトもどこも雇ってくれない。 ふと振り返れば二十年間何も築き上げていないのにプライドだけは誰よりも築き上げてしまった。他人に厳しく自分に甘いクソバカニート。 そろそろヤバい同級生のみんなは学業や仕事で一生懸命生きているのに。 ヤバいとわかっていても体がうごかない。 俺はいつまでも子供。俺は体がデカイだけの子供。いつまでも自分に甘い糞以下の人間。 目立ちたくて周りに迷惑をかけ続けた。何十回も人を故意に傷つけてきた。息を吸うように嘘をつき続けた。 当然の報いを今受けているのだとおもう。 自分を変えようと思って、実家の家事をやったり花にみずをやったり近所の人に自分から挨拶をしたりコンビニの店員にお礼のお辞儀している自分を褒めてほしい。いい年した大人が情けないが認めてほしい。 一からやり直そうと何度も思ってもまっ暗なトンネルのような先しか見えない。
25歳の頃、独学でクンダリーニヨガをやり、無呼吸になり神との合一をしたようですが、心身の浄化がされてないため、1年後に統合失調症を発症、それ以来人を傷つける幻聴幻覚がずっとあります。 最近思うのは、ヨガは私の元々の問題を押し出したに過ぎず、問題は私の傲慢さ、そしてその原因は身分不相応の富(行が足りない)であると感じております。 でも、行といっても、何をしたら良いのかわかりません。掃除炊事を体力と相談しながらやっています。(大腸を全摘していて体力があまりありません。) 最近は、恐ろしい言葉が増えて、物を壊したり、大声で叫んだりすることもよくあります。思い通りにいかないとすぐにキレてしまいます。 人を幸せにしたいです。世のため人のために一生懸命身を粉にして働きたいと願い続けております。 今朝方、人に危害を加えてしまう夢を見て、これは予知夢かも知れないと思い、すぐ起きて、水シャワーを浴びました。 神棚のみ前にてのご挨拶も、恐ろしい言葉が出てくるので、ほとんど出来ない有り様です。 もし宜しければ、アドバイスなどありましたらよろしくお願い申し上げます。
私は、自分が変なのではないかという考えに長年囚われています。 幼少期から、自分の考え方や行動が周りと少し違うという事には気づいていました。それゆえ意識して周囲と同調するように装い、なんとか人間関係を築くことはできてましたが、それでも孤立しがちでありました。 そして成長するにつれ、周囲とのズレが違和感として大きくなっていきました。まるで他の人はスクリーンに映し出された映像で、声もスピーカーから流れているような、生きたものと実感できないような感覚を覚えました。 幸か不幸か、頭は良かったので、私は傍目には順調に人生を進んできました。 しかし私はいくら難しい問題が解けようとも、普通の人がいとも簡単にできることがどうしてもできないのです。 どうやって親友ができるのか、恋人ができるのか、娯楽を楽しめるのか、分からないのです。 私は、家族も含めて浅い人間関係しか持っていません。友達とは休日一緒に遊ぶようなことはしません。恋人を作ろうとしても、何をしたらいいのか分からず、結局体だけの関係になってしまいます。 周りの人が夢中になっていることに全く興味を持てません。 発達障害や統合失調症を疑いましたが、そうではありませんでした。 ただ単純に『変な人』なのです。よく言えばミステリアスな人。 けれど、その『変』なせいで、人間関係を深められないのです。少しでも私の心の内を見せようとすると、皆逃げていくのです。 いつかきっと私を好きになってくれる人が現れて、幸せというものが得られるのだろう、と昔は漠然と考えていました。 けれどもやはり周りとのズレを感じる日々。焦り、なんとか努力しようとするも、その努力がチグハグでずれている。 この先1人でも稼いでいける自信はある。しかし何のために?誰のために? 自分の生きている実感が乏しい。 要点を得ない相談で申し訳ありません。ただ、私は普通になりたいのです。周りができることを普通にできるようになりたいのです。
私は最近、自分のこれまでの生き方について、自ら働きかけて何かをしたことがない、ということに気づきました。 周りの状況や環境に流されて、今に至っています。 今の仕事も、もともとは勤め先が倒産したので、そのまま顧客を引き継いで独立したようなもので、意志を持ってそうしたわけではありません。 家族にしても、自らイベントなどを提案するわけでもなく、私はただ単について行っているだけの状態です。 会社や家族に、こんなことでは良くないということは、頭ではわかっています。 しかし「何をしたいか」と考えると、何も出てこないのです。自分でも人格異常なのではないかとさえ思います。 「何をしたいか」と意志を持って動き出すことはできるのでしょうか。
死にたいです。生きるのが辛いです。 全部やってる事が無駄な気がして、生きる意味が何もないです。何もしたくないやる気が起きない。死んだら迷惑かかるかもしれないけど生きてるよりは迷惑かからないと思ってます。前に死のうとしたけれど、結局死ねませんでした。あの時死んでたら楽になれたのに。
灌頂を受けていないと真言を唱えてはいけないと聞きましたが、般若心経や毘沙門天王功徳経にある真言も唱えてはいけないのでしょうか? 唱えてはいけない場合は真言の部分だけ飛ばして読めば良いのでしょうか?それとも読まない方が良いのでしょうか? また、この様な場合唱えても良い真言などはありますか?
罪を犯してしまいました。それも、私がこれから志すつもりであった道に関する罪です。 法の遵守を訴えてきた法学生が法を犯すような、医者は人道的であれと主張する研修医が人を殴ったような、そんな罪です。 遅ればせながら罪に気づき、謝罪すると、被害者の1人は「謝らなくてもいい」と言ってくれます。しかしそれは気を遣っているのでしょう。彼女がその時抱いた恐怖は、消える事はありません。私が罪を犯したという事実も、一生残ります。私が今の学問の道を続けるなら、尚の事、何かにつけて思い出すでしょう。 加害したことがここまで苦しいと思いませんでした。自分が加害者だと認める事がこんなに怖く、苦しく、恥ずかしい事であるとは。しかし、罪を犯し人を苦しめたことは(それも致し方のない罪ではないのです。すべて私が悪いのです。悪意すらなく、人の領域を自分の欲の為に踏みにじったのです。)何をしても償えません。私が罪を忘れず苦しむ事が、まっとうな罰だと分かっています。それなのに、救われたいと思ってしまうのです。一生この罪を背負うと思うと怖くてたまらない。彼女に許しの言葉をかけられたいとすら願ってしまいます。私の学ぶ道すら汚してしまったことも、私を苦しめます。これから実績を積み、表に立つほどに、私は過去の罪に怯え、人に罪を隠し、綺麗事を吐いて生きるのでしょうか?そんな不誠実、耐えられません。しかしそれがいやだからといって、罪を告白して生きる事も怖いです。親友や家族にさえ言えません。どれだけ失望されるだろう。言い訳や弁護の余地がないほど、私が全て悪いのです。日頃から学び、やってはいけないと知っていたはずの罪を犯した私を、軽蔑しない者がいるでしょうか。恐ろしくて震えます。 彼女に負わせた傷をさしおいて、こうして自分の身ばかり考え、自分の苦しみばかり訴え、救われたいなどと思っている自分の愚かさに一層深い苦しみに囚われます。救われるべきではないのに、罪と向き合い背負うべきなのに、怖くて苦しく救いを求めてしまう私を、叱咤してください。そして、今の学問を続け生きていく上で、大切な人々に罪を告白し、加害当事者として批判を受けながら進むべきか、隠して1人後悔と罪悪感を抱えるべきか、どちらが正しいのかお教えください。
悪口を一方的に言われ続けて本当に困ってます。 特定の人物に言われるわけじゃなくて色んな場所でたまたま居合わせた顔も名前も知らない人に言われるんです。 これまで何人に言われたかわからないほどです。 言う人はほぼ女性で20歳代を中心にたまに30歳代40歳代くらいの人。 20歳半ばから言われるようになりました。 帰り道を歩いてると前方から視線を感じたんです。 でも近くに人はいなくて遠くのほうにこちらに向かって歩く女性が一人小さく見えただけで気のせいだと思いそのまま歩きました。 歩いてきた女性が近づいて突然[ダサい!]と声出したんです。 女性はそのまま歩き去りました。 私は何が何だかわからずただただ気分の悪い想いをしました。 以前はどこに行ってもそういうのはなかったんですがこれ以降こうしたことがよく起こるようになりました。 すれ違う前に言ってくる人が圧倒的に多いです。 言う言葉は[ダサい!][ダッサ!][ダセえ!][ダサァ!]等々。 すれ違う瞬間40歳代くらいの女性に[ダッサ!]って言われて数歩歩いて今の何?って思い立ち止まって後ろを振り向いてみたら女性はすでに私のほうを見ていて何が面白いのか笑ってました。 悪意を感じました。 路上、駅、電車、バス、観光地どこでもそんな目に遭います。 商業施設に遊びに行ってもほかの客が笑って[ダサい!]言ってきます。 女性客と一緒になって女性従業員が[ダッサァ!]と言って笑ってきました。 別の日に店の前を通るとあの従業員が店先にいて私に気が付くと慌てて店の奥に姿を隠した。 別の大型店舗では客がほとんどいなくて暇そうなレジ担当の8人くらいの女性たちが口々に[ダサい!][ダッサ!][ダセえ!]ばかり言ってきてそして売り場を通ろうとすると行きも帰りも同じ女性従業員に体当たりされそうになりました。 買い物も落ち着いてできません。 気の置けない人に相談したこともあります。 [あなたは変なカッコしてないしダサいって言う人がおかしい!言う人だってそんなたいしたカッコしてないよ]と言われました。 確かに言う人がおかしいと私も思います。 ですがなぜ私は言われ続けなければならないんでしょうか。 言われなくなる方法はありますか?言われても苦にならない方法はありますか?深刻に悩んでます。 このままじゃ自由に行動できなくなってしまいます。 よろしくお願いいたします。
チーズや牛乳、ヨーグルトなどの乳製品、発酵食品は精進に入りますか? 卵や牛脂なども教えていただけると幸いです。 :補足 肉なしお好み焼きやカレー、ケーキなど、パッと見、動物性が入ってないように見える物についてもご回答頂ければと思います。
まもなく母の三回忌です 会食などをせず 子供たちが集まり塔婆供養という形で法事をします。 お寺の住職からお布施とは別に供花や供物と塔婆料と言われましたが、言われた塔婆料は金額400円と少額です。前回の一周忌も塔婆料は400円と言われましたが、小銭を入れるのもおかしいかなと思い、塔婆料と書かれた封筒に1000円を入れました。3000円以上が多いようなのですが…このやり方で逆に失礼ということはあるのでしょうか?
あまりにもたくさんの情報が飛び交う今の世の中に少々嫌気がさし 商売をしている宣伝にも使っていたので、ためらいも少なからずあったのですが、某SNSをやめてみました。 手放す事で久しぶりにゆっくりと自分の時間を使うことができて本来の自分らしさを少し感じる事ができてきているような気がします。 この際、着ない衣類や物なども処分して 必要な人に廻れば一番いいかな?なんて考えているのですが 私は幼少期から何より整理整頓という事が苦手です。。 お坊さまも断捨離なんてするのですか? それとも、あまり物に執着してはならないのでしょうか? 断捨離をする意味や効果など お話を聞かせて頂きたく存じます。 よろしくお願いします。
はじめまして、今回初めて質問させていただきます。 就活が解禁されて1カ月半が経ちますが、私は6社ほど面接に行きましたが全部落ちました。 まだ解禁されて1カ月しかたってないのにこんな早くに不合格通知がくると、精神的に辛くなり、今後も続けれるか不安です。 こんな私にもしよろしければアドバイスをお願いします。
過去にした失敗ややらかしてしまった事が頭から離れずにモヤモヤしてしまうことがあります。もうできるだけの対処はしているし今更できることも何もないし、きっと問題ないことなのですが、本当に大丈夫かな?と心配してしまう気持ちがとまりません。考えても仕方ないのはわかっているのですが、、もう悩むのは嫌なので前に進みたいです。どんな気持ちのもっていきかたをすれば楽になれますか?
元々がなんでも欲しがる欲張りで、考え方も完璧主義のような、ところがありました。つねに理想ばかり求めているところもありました。 このままではなにか苦しいと思い。仏教の本を読むようになり、ひろさちやの本のなかで少欲知足という教えに出会いました。 その少欲知足について、欲しがるのをあれもこれもじゃなく、絞って、少なくして、充足感を得たほうが幸せを感じられるよというような説明が短い文章で簡単に読めるように書いてありました。 この教えを生活に取り入れたところ、はじめて幸せを感じられたような気がいたしました。 「もっと」この教えについて知りたくなりました。この「もっと」は仏教についてのもっとなので良いと思いました。 ぜひ生活に生かしたいので少欲知足についてもっと教えて下さいよろしくお願いいたします
いつもお世話になっております。 大変に唐突な質問でございますが、 仏教の世界では、障害者、無職者はまさに「障害」、「邪なる存在」なのでしょうか? * 以前にご質問した「お寺」での非礼行為に対する苦情を申し上げたのですが、依然、一部の職員さん(お坊さんは改心してくださった模様)が、いわゆる「客を見る」ような態度で接してきます。 他の寺務さんやお坊さんたちは普通なのに、その人たちの所作を見ると、「あぁ、もしかして本当は…」 と疑心暗鬼に陥ってしまいます。お護摩の時の願意の唱和?で、 「一心祈願、就職成就~!!」 と言われたり、祈祷後の短いお話も、嫌味にしか聞こえなくなるときがあります(苦情を述べる前に、私が書いた絵馬の内容を軽く引き合いに出された事がある) ちなみに宗派は新義真言宗です(「もしも」が恐いので、詳しい宗派はあえて書きません) * 私は発達障害を持っており、その影響の為か、時折ズレた行動に出てしまいます。それでも周囲に迷惑をかけないように心がけており、 就労支援にも通っているし、手帳の取得も考えています。 なので余計悲しいです。 素敵なご縁、素晴らしい教えのおかげで私自身の生活にも光が差し始め、祈りと感謝の喜びを噛み締めている所なのに…… 真実をお教えください、よろしくお願いを申し上げます。
初めまして、さきといいます。 最近、聞き上手や話し上手になる為の本を、書店でたくさん目にします。 それだけ現代人が人間関係に悩んでいる証拠なのかなと思いました。 そういった本とブッダの言葉が書かれた本とでは、書かれている内容がところによっては真逆といってもいいほど違うように思います。 聞き上手になる為には、少しオーバーリアクションになったり、ひどい時には、凄いなと思っていないのに凄いと言うことも、相手を喜ばせて話を引き出す為には良いと書かれている本さえありました。 私的には自分を偽ることが嫌いなので、素直な感想を言うことが多いですが、話を盛り上げる為には、多少のオーバーリアクションも必要だと感じる時があります。 お坊さんたちは、こういった本についてどのようにお考えですか? 是非、ご意見をお聞かせください。お願いします。
人生において夢も希望も絶望もありません。 ただ生まれたからなんとなく生きているだけなのですが、このような人生なら、あってもなくても変わらないと思います。 死ぬと家族が悲しむとは思いますが、その家族も遅かれ早かれ死にますし、その後のことは死んだ私には関係ないと思うので、どうでもいいです。 このような考えを持っている人間なので、社会全体に広がる、 「夢」に向かって「前向き」に「頑張って」、「成功」することが「良いこと」である という雰囲気についていけません。 なぜ頑張らなくてはならないのでしょうか? 私は頑張ることが嫌いです。 でも頑張れない自分のことも嫌いです。 本当は自分も頑張りたいと思っているのかもしれません。でもどうしても 頑張る ということが受け入れられません。 これは「逃げ」「甘え」だと感じられるかもしれませんが、逃げてはダメなのでしょうか? 自分が何をしたいのか、救いを求めているのか、どうなりたいのか、わかりません。 長くなりましたが、なにか助言をいただければ幸いです。
夫の希望だった不妊治療開始と同時に夫が職場の女性とW不倫をしてました。 妊娠初期に不倫が発覚し、相手の女、夫から慰謝料を取りました。 しかし、夫も相手の女の配偶者に慰謝料を払いましたので、家対家ではトントンな感じで示談でした。 中絶して離婚するか話し合いましたが、夫がどうしても産んで欲しいと土下座したので産むことにし、私も子供が成人するまではと思い、離婚を踏みとどまりました。 夫も相手の女も職場に不倫の事実はバレましたが、お咎めなしで、なに食わぬ顔で仕事をしています。(たまたま転勤のタイミングだったので勤務地は変わりましたが。) 結局、金銭的にも社会的にも何も損害を受けていない二人が呑気に生活しているのに非常に腹が立って仕方なく、不倫の証拠として集めたメールや写真をばら蒔いてやりたくて仕方ありません。 なんとか理性で踏みとどまっていますが。 とにかく二人に制裁を加えたくてたまらないのです。 二人とも職業的に不倫の事実が公になればその職は続けられないと思います。 私は20年後には離婚するつもりですが、それまで毎日黒い感情を持ち続けて生活するのもなんだかな~と思ってます。 私と息子の人生を踏みにじることをした夫と相手の女が憎くて仕方なく、この感情は一生消えないと思います。 ですが、その感情を少しでも心の奥底に止めておき、息子と楽しく暮らして行きたいのです。 どういう心持ちで生活していけば良いでしようか。
いつも大変お世話になっております。 表題の通りなのですが… お坊様になられたきっかけ、 なろうと思われたわけなどあったらぜひお聞かせ願いたいです。 私自身は、ハスノハをキッカケに仏教に非常に関心がありますが、 お恥ずかしいことに厳しいだろう修行を乗り越えられる自信が全くありません…。 そこでお坊様方のお話をお伺いしたく思いました。 お忙しい中恐縮ですが、お教えいただけたら幸いです。
初めて質問します。よろしくお願いします。 私の人生で、上手くいっていないことがあると、必ず身近にその理想の道をゆく人達が現れます。 この現象はどのように捉えるべきなのかがわからず、ご意見をいただきたいです。 例えば、私は過去に両親の敷いたレールに沿って生きており、本当は保育士さんになりたかったけれど、本心を言えずに両親の理想通りの職業に就きました。 すると、今私の周りには、なぜか保育士さんの友人や親族が沢山います。 また、私は3歳の子供が1人おりますが、結婚当初の理想は子供を3人もつことでした。 ですが、育児があまりに大変で、精神的にも病んでしまい、2人目以降の子どもを持つことが考えづらくなっています。 そんな状況で、3人目の子どもをもつ友人や親族がどんどん増えてきました。 これらの状況は、総じて、「自分が弱くて出来なかったこと」と捉えています。だからこそ、私の理想を叶えている人たちがすごく羨ましいし、別世界を生きる人たちのようにも思えます。 自分は自分だから、と考えることもありますが、なぜ私には出来ないのかなと落ち込む気持ちが出てきてしまいます。 どうして、私の人生の定番のように、毎回、わざわざ理想とするものを持っている人が、自分の周りに集まるのでしょうか? 何か私に学びとして必要なことだから、起こる出来事なのでしょうか? 気にせず自分の道をゆけということなのか...それともその人たちのように生きてみなさいということなのか... どのように捉えるべきかわからず、ご意見を伺いたいです。 よろしくお願いします。